それから数日間は、また、特に何事もない日々だった。
早瀬からの電話やメールも来なくなった。
とはいえ、愛想を尽かされたというわけでもないらしく、教室で顔を合わせた時にはなにか言いたげな様子を見せている。たぶん、なにを言えばいいのか、どう接すればいいのか、わからなくなったのだろう。
それ以外はほぼ普段と変わらない〈日常〉だった。
茅萱は、私と早瀬の関係が微妙に変化したことに気づいたのか、それとも単なる開き直りか、また早瀬に親しげに話しかけるようになっていた。
木野はいつもと変わらず、他愛もない話題を振ってくるだけだ。なんとなく、早瀬のことについてなにか言いたげなように見えなくもないけれど、私が早瀬と距離を置いていることを歓迎している風でもある。
遠藤も、普段通りに傷の手当てをするだけだった。やっぱりなにか言いたげではあるけれど、前回のことがあるので、少なくとも早瀬の名前を口にすることはない。しかし木野とは逆に、早瀬と疎遠になっていることを快く思ってはいないようだった。
そして私は相変わらず、あまり眠れない、ただ呼吸と食事を漫然と繰り返すだけの生活を送っていた。
早瀬からの誘いはなくなったけれど、それ以外の援助交際もしていない。
手首だけは、特に理由もなく切っている。
ある意味、平穏な日々といえなくもない。
しかしそれが、嵐の前の静けさであることはわかっている。
そして私は、その嵐を待ち望んでいた。
嵐の訪れは、予想……あるいは期待していたよりも、少し、遅かった。
きっと、また仕事が忙しくて日本にいなかったのだろう。
パパからの呼び出しのメール。
それが、嵐の前兆だった。
翌日は土曜日だった。休日の外出なんて、久しぶりのような気がする。〈デート〉となればなおさらだ。
しかし、それがいつもの〈デート〉と違うのは明白だった。
まずなにより、その場所。
いつもなら、私の最寄り駅の周辺で待ち合わせて、時刻によってはお茶や食事をして、そこからホテルへ車で移動するというのが基本パターンだ。だけど今日、指定された場所は、珍しいことにパパが住むマンションだった。
久しぶりに訪れた建物の前に立って見上げる。いかにも高級そうな高層マンションが、空を貫いていた。
もちろん、パパの部屋を訪れるのは初めてではないけれど、そう頻繁にあることでもない。
私に対する責めの激しさを考えれば、自分の家よりもラヴホテルのほうが都合がいいのだろう。セックスが主目的の時にここへ来たことはないし、来た時も、セックスする時にはホテルに移動することが多かった。
だから、少し緊張してしまう。
予想していた、期待していた、呼び出し。
私が、そう仕向けたこと。
だからこそ、ただではすまないこともわかっている。
期待と不安が入り混じり、鼓動が激しくなっている。
今日はいったい、なにが待っているのだろう。
エレベーターに乗る。
呼吸が早くなる。
なんとなく苦しく感じるのは、高速エレベーターによる気圧変化のせいではないのだろう。
「……ひさしぶり。よく来たね」
数日ぶりに逢うパパは、いつものように愛想のいい笑みを浮かべていたけれど、目が笑っていなかった。
はっきりいってしまえば、滅多に見ないほどの怒りのオーラを漂わせている。
いくら外面がよく嘘が上手なパパとはいっても、血のつながった父娘。表情と本心の差異など一目瞭然だ。
「急に呼び出したけど、大丈夫か? 今日は土曜日だし、彼氏とデートとかはなかったのかな?」
皮肉っぽい台詞に、思わずくすっと笑ってしまった。
あまりにも見え透いた、嫉妬。
この前、早瀬と仲よさそうにして見せたことはかなり効いているようだ。
自分でも性格が悪いと思う。パパが怒ることをわかっていて、あんなことをしたのだから。怒らせるために、やきもちを妬かせるために、早瀬を利用したのだ。
しかし、その動機となると少々複雑だった。
好きな人がやきもちを妬いてくれることが嬉しい、という女の子らしい想いもないわけではない。
それとは別に、私を穢した男に対するささやかな復讐、という一面があることも否めない。
小学生だった私を犯し、未熟な身体をさんざんに弄んだ男。
だけどそれは、世界でいちばん、世界中の誰よりも、私を愛してくれるパパ。
私としても、素直になれない。
好きとか嫌いとか、そう簡単に割り切れる関係ではない。
「……デートの約束があっても、パパを優先するに決まってるじゃない」
あえて、〈彼氏とデート〉は否定しないでおいた。
「可愛いこと言う割には、莉鈴は尻が軽いよな」
パパの腕が私を抱き寄せて、お尻を乱暴に撫でまわす。
「……そうかな?」
悪戯っぽくふふっと笑う。
「でも、早瀬よりパパを優先するってのは本当だよ? それに、莉鈴が男にもてるのは莉鈴のせいじゃないもん」
ぺろっと小さく舌を出す。
「顔が可愛いのもスタイルがいいのも遺伝だし、おしゃれなのはパパが可愛い服や靴をいっぱい買ってくれるからだし、男を悦ばせるのが上手なのは、全部パパが教えてくれたことじゃない? ……ほら、全部パパのせいだ」
悪びれない小悪魔の笑みでパパの鼻先を指さす。
パパが肩をすくめる。
「やれやれ。どこで育て方を間違えたのかな」
「あれ、覚えてないの? パパってば、もう健忘症? 莉鈴の記憶では、小学五年生の夏休みからだと思うな?」
微かに、パパの表情が変化した。ふざけた雰囲気が薄れて、ほんの少し、真剣味が増したように感じた。
私たちの間で、あの夏の〈最初の出来事〉に触れる会話は珍しいことなのだ。
「……だな」
パパの表情はすぐに元に戻った。苦笑しながら小さくうなずく。
「……パパがしたこと、怒ってることもいっぱいある。……でも、パパのこと、好き」
小さな子供が甘えるように、首にぶら下がるような形で抱きついた。
唇を押しつける。
舌を絡める。
した方も、された方も、思わずとろけてしまうような濃厚なキス。
もう、そのままセックスしたい気持ちになっていたけれど、我慢して身体を離した。その前に、やることがある。
「……あ、ごめん、シャワー貸して。駅からここまで、待ちきれなくて走ってきたから汗かいてるの」
「別に、そんなの気にしないさ」
「莉鈴が気にするの! もー、オトメ心がわかってないんだから。パパに抱かれる時は、いっちばん可愛い莉鈴じゃなきゃヤなの。汗臭いなんて言語道断!」
頬を膨らませて言うと、ぱたぱたと小走りにバスルームへ向かった。勝手知ったる家、ちゃんと私専用のタオルなども用意されている。
着ているものを脱いで、手早くシャワーを浴びる。
実際のところ、シャワーというのは半分以上口実だった。汗なんかかいていない。駅からここまで、汗をかかないようにゆっくり歩いてきた。パパに逢うのに、身体の準備に抜かりがあるわけがない。
ぬるめのお湯を浴びながら、バスルームをチェックする。
ボディソープやシャンプー、トリートメントなどは、二種類ずつ置いてある。普段パパが使っているであろう男性用と、私が来た時に使う女性用。家で使っているのと同じ愛用のシャンプーは、前回使った時から減っていなかった。
それを確認して満足する。
バスルームを出て、バスタオルを巻いただけの姿でパパのところに戻る。その途中、ちらちらと室内の様子を確認した。
あまり生活臭が感じられず、どことなくモデルルームのような印象を受ける部屋。ここに住んでいるとはいっても、出張とか、私とデートとか、他の女とデートとか、家には帰らないことが多いのだ。
「……相変わらず、独り暮らしなのね」
実際にはひとりにも満たない、半人暮らしくらいだろうか。
「当然だろ。莉鈴にふられ続けてるからな」
……そう。
何度か、一緒に暮らそうかと誘われたことがある。
心が揺れたのは事実だ。
小学生の頃ならともかく、今なら、パパが帰らない日があっても日常生活には問題ない。
だけど、やっぱり嫌だ。
やっぱり寂しい。
パパと一緒に暮らしているのに、独りの夜が続くなんて。
そして、怖い。
パパとの関係はいけないことなのに、まったく逃げ場がなくなってしまう。
ほんの少しだけ残っている、理性と、そして反抗心と独立心。パパの愛玩動物ではなく、ひとりの人間でありたいという想い。
一緒に暮らしてしまったら、もう歯止めが利かなくなってしまうだろうことは想像に難くない。
私の中に在る、ふたりの私。
もっともっとパパのものになりたがっている私。
パパから逃げたがっている私。
その争いの決着がついていないから、今はまだ、一緒に暮らすことはできない。
「……てっきり、みーこか誰かと一緒に暮らしてるのかと思った」
「なんだ、今度は莉鈴がやきもちか?」
嬉しそうに言うパパ。おでこをつつかれる。
「やっぱり怒ってたんだろ、みーこを連れていったこと」
パパはなんでもお見通しだ。
それは、事実だった。
実の母親にさえ嫉妬していた私なのだ。パパが他の女と仲よくしているところなんて見たくもない。
そんな私の気持ちはわかっているくせに、あえてみーこを連れてくるところがパパらしい。
たぶん、私たちは似たもの同士なのだ。相手の浮気は許せないくせに、相手には妬いてもらいたがる。
それがわかっているから、ふたりとも、その場では平静を装っているのだ。
「……怒ってるに決まってるじゃない。怒るのがわかっていて……っていうか、怒らせるために連れてきたんでしょ?」
最近の私の情緒不安定。
そのいちばんの原因はやっぱりみーこだろう。
みーこを連れてきたこと、ふたりがかりで私をさんざん弄んだこと、それは別に構わない。
だけど。
私が気を失っている間、みーことふたりだけでセックスしていたこと。
あれだけは絶対に許せなかった。
自分も子供の頃に同じことをしたくせに、いや、だからこそ、受け入れられなかった。
まずなにより、あれが逆鱗に触れていた。その後の情緒不安定は、早瀬のことも含めて、すべてその後遺症でしかない。
「で、仕返しに、クラスの男子と仲よくしているふりなんかしたんだ?」
「……ふり?」
「莉鈴があんな風に、普通の高校生カップルみたいに男子と仲よくするとは思えないけどな?」
「…………お見通し、ってわけね」
鬼畜でも、一緒に暮らしていなくても、結局は私の父親。娘のことはよく理解している。
とはいえ、だからといってパパが妬かないわけではない。
むしろ、普段のちょっとした〈浮気〉の時よりもずっと怒っている。あの、夏休み明けの、いちばん激しかった日ですら比べ物にならないくらいに。
だから、さらに怒らせたくなる。
「……でも、彼としょっちゅうセックスしているのは本当。すごく激しくて、いつもベッドで泣かされているのも本当よ?」
「無理やり?」
「……自分の意思」
「……やっぱり、おしおきが必要みたいだな」
眼光が鋭くなる。
私の口元には微かな笑みが浮かぶ。
「パパにおしおきされたいから、とは思わない?」
たぶん、少しはそんな想いがある。不特定多数とのセックスを繰り返す動機の何割かは、それだろう。
優しくなんて、されたくない。
陵辱、されたい。
他の男とセックスすると、パパは不機嫌になる。それは、パパが私を愛している証。
分かりきっている事実なのに、何度でもそれを確認したくなる。
確認して、少し、安心する。
「後悔するなよ。パパは本当に怒ってるんだからな。いつものようなぬるいことはしないぞ」
「いつもの責めを〈ぬるい〉と言ってしまう感性は素敵よね」
普段のセックスだって、普通の女子高生なら耐えられるものではないだろう。
あれ以上があるのだろうか。
もちろん、肉体的に怪我をさせるようなことは簡単だけれど、簡単であるがゆえに、パパがそんな手段を選ぶとは思えなかった。
しかし、私にとってどんな〈おしおき〉がいちばん効くのか、パパ以上にわかっている人間はいないだろう。おそらくは本人以上にわかっているに違いない。
「……ん」
パパの手で、首輪が着けられる。少し苦しく感じるくらいに締めつけられる。
そうなると、もう、挑発的なことは言えなくなってしまう。首輪は、パパに対する服従の証だ。早瀬に着けられる、単なる〈アクセサリ〉としての首輪とは違う。
抱き上げられて、ベッドに連れていかれた。
首輪につながった丈夫な太い鎖が、ベッドのフレームに巻きつけられ、南京錠で固定される。
手首と足首が、それぞれ、短い鎖でつながれる。
首輪自体も、小さな南京錠で留められてしまった。そんなつもりもないけれど、これで自分の意思ではベッドから逃げられなくなった。
まだ〈クスリ〉も飲まされていないのに、どきどきしてしまう。下半身が熱くなって、濡れてしまう。
パパの部屋に軟禁……いや、監禁されてしまうなんて。
なんて素敵なシチュエーションだろう。
うっとりしてしまう。
ここから逃げ出したい、と想う自分は今は少数派だった。
まずい。
この状況、よすぎる。
もう、これだけで達してしまいそうだった。
「ぁ……ん」
〈クスリ〉を飲まされる。
いつもとは違うカプセルを口に入れられ、続いて流し込まれた液体の〈クスリ〉で飲み込んだ。それだけで、口の中が、喉が、そしてお腹が熱くなる。
次に、ジェル状の塗り薬をたっぷりとすり込まれる。局部がびちゃびちゃに濡れているのがジェルなのか、それとも私自身の蜜なのかもわからなくなってしまう。
すぐに、呼吸が荒くなってくる。じんじんと痺れるような熱さが襲ってくる。
飲み薬も効きはじめて、お腹の熱さが増してくる。
身体に力が入らなくなって、目の焦点が合わなくなって、ただ、セックスのことしか考えられなくなってしまう。
「パ、パ……すごく……熱い……」
「どこが? ここが?」
「――っ!!」
最初に触れられたのは、右の乳首だった。ピアスが引っ張られる。
それだけで、軽く達してしまった。
いつもよりさらに感じやすくなっていた。〈クスリ〉が違うせいだろうか。それとも、早瀬に初体験を告白した日以来、禁欲生活が続いていたせいだろうか。
実際のところ、やきもちを妬いたパパにすぐ呼び出されるともの期待していたのだけれど、仕事の都合で少し間が空いてしまい、結果、かなり〈溜まっている〉状態になってしまっていた。感じやすいのも当然だ。
「……それとも、こっちかな?」
今度は、左の乳首をつねられる。
「ひぃぃんっ!」
これも、また、いい。
意識が真っ白になるくらい、感じてしまう。
もっとして、とおねだりしたくなってしまう。
だけど、それはだめ。
これは〈おしおき〉だから。
自分から気持ちよくなろうとしてはいけない。
「いやいや、ここかな?」
パパの手は止まらない。
脇腹を指先が滑る。
「――ぃぃっっ!」
それさえもいい。
くすぐったいというよりも、気持ちいいという感覚の方が強い。もう、どこをどう触られても気持ちよくなっていた。
「……んひゃんっ!」
うなじをくすぐられ、反射的に、亀みたいに首を縮める。それも、くすぐったいからではなくて、気持ちよすぎるが故の反応だった。
「……っ!」
いきなり、首輪の鎖が乱暴に引っ張られた。
固い皮の首輪が喉に喰い込む。
それだけで達してしまう。
熱い蜜が湧き出してくるのを感じる。
今はもう、あらゆる刺激が快感だった。
パパの手が、首から胸へと移動する。
両手で、両方の乳首のピアスを同時に引っ張られた。
「ぃっ……ぃぃっ!」
千切れそうなほどに、強く。
痛くて、目には涙が滲む。
なのに、涙よりもずっと多くの蜜が滲み出てしまう。
ぎりぎりまで引っ張られたピアスが放され、乳房をつかまれる。
握り潰されそうなほどに、ぎゅうっと握られる。
柔らかな脂肪の塊が、軟式テニスのボールのようにぐにゃりとひしゃげる。かなりの力が込められている。爪先が喰い込んでくる。
「ぁっ……んんんっ! んはぁっ!」
指が開かれてほっと息をつく。その瞬間、また握られる。
二度、三度、四度。
繰り返される。
まるで、牛の乳搾りみたい。
胸からミルクが出る代わりに、脚の間から蜜が流れ出す。
握られるたびに上がる短い悲鳴が、回を重ねるごとに、だんだん甘くなっていく。
呼吸が荒くなり、胸が大きく上下する。
続いてパパの手は、両方の腋の下に移動していった。
「い……ぃひゃぁぁっっ!!」
腋の下から脇腹、そして腰骨のあたりまで、軽く触れた指先が滑っていく。
普段なら、飛びあがるくらいにくすぐったい愛撫だ。なのに今は、快楽のあまり身体を仰け反らせ、頂に達してしまう。
本当に、なにをされても感じてしまう状態だった。
首筋、胸、腕、お腹、脚。
触られ、撫でられ、くすぐられ、つねられ。
どこを、どう、刺激されても、気持ちよくて達してしまう。
絶頂の閾値が、いつもよりずっと低くなっていた。〈クスリ〉の効能、溜まっている身体、パパの家に監禁されているという精神状態、それらの相乗効果だろうか。
しかし、パパはここまで、性器には一度も触れてこなかった。それでも充分すぎるほどに感じているのだから問題はないのだけれど、やっぱり気分的にはものたりない。
もしかすると、今日の〈おしおき〉は焦らしプレイなのかもしれない。
だけど焦らしは、いきそうになるぎりぎりで止めることを繰り返すからこそ責めとして効果的なのであり、簡単に何度も達してしまっている今の状況では、あまり意味がないのではないだろうか。
パパにしては甘い責めかも、なんて想ってしまう。
だけどやっぱり、パパのやることは私の予想を超えていた。
肌への接触だけで、もう身体中どろどろにとろけてしまったような気分になっていたのに、
「あぁぁっ、あぁぁぁ――――っ!!」
そこでいきなり、パパの指が割れ目の中に滑り込んできた。
焦らされるつもりになっていたから、予想外の不意打ちに、一瞬、意識が飛んだ。
びちゃっという、固まる前のゼリーかプリンのような感触。
触れていた手が私の鼻先に突きつけられる。
透明な粘液が糸を引いて、雫になって滴り落ちていた。
「すごい濡れ方だな、いやらしい子だ」
「…………パパの、おクスリのせいだもん」
もちろんそれだけではないだろうけれど、そういうことにしておく。
もともと感じやすい身体とはいえ、今日の反応は普通ではない。
「今日の薬は、プラセボなんだけどな?」
「う、うそっ!?」
〈クスリ〉なしでこんなに感じてしまうなんてありえない。いつの間に、そこまで変態的な体質になってしまったのだろう。
思わず、がばっと起き上がろうとしたけれど、手首と足首をつながれた不自由な体勢だったので、そのまま倒れてしまった。
慌てた様子に、パパがぷっと吹き出す。
「もちろん、嘘」
「――っ!」
からかわれたのだ。私が飲まされたのは、間違いなく強力な〈クスリ〉だった。
「…………いじわる」
ぷぅっと頬を膨らませる。
パパを相手にすると、どうしても仕草が子供っぽくなってしまう。
「莉鈴が可愛いから、つい虐めたくなるんだよな」
「……パパって、ホント、Sよね」
「莉鈴はMなんだから、相性抜群だろ」
そこで反論できない自分が悲しい。
そして、こんなやりとりに幸せを感じてしまう自分が嫌だ。
だけど、パパを拒むことはできない。
「こんなに感じるなら、今日はここはなしでいいかな?」
からかうように言いながら、ぐっしょりと濡れた割れ目の中で指を滑らせる。
対して、私はまた頬を膨らませる。
「……やだぁ。おまんこ、弄って……」
たとえ胸だけでもすごく感じて、達してしまうとしても。
それ故になおさら、いちばん気持ちいいところを触って欲しいと切望してしまう。
今の身体で、精神状態で、我慢できるわけがない。もっと、もっと、いくらでも気持ちよくなりたい。気持ちよくして欲しい。
そこを責めてもらうためなら、どんなことでもする、なんでも言うことをきく、という気分になってしまう。
だけど今日のパパは、焦らしが中途半端に思えた。私に限界が来る前に、望んでいたものを与えてくれる。
「ここを弄って欲しい?」
「んあぁぁぁんっ! あぁぁんっ!」
いきなり、指を挿入してくれた。
二本の指が、一気に、深々と突き入れられる。
条件反射で膣が収縮し、指を締めつける。括約筋に対抗して、強引に指が蠢く。
「ここが気持ちいいのか?」
「あぁんっ! そっ、そこっ! そこぉっ! いぃっ、いぃぃ――っ!!」
膣壁に、指が強く押し付けられる。
入口から最奥まで、膣全体が激しく擦られる。
次に、Gスポットを重点的に責められる。
続いて、また、全体。
交互に、激しい愛撫が繰り返される。
下腹部がじんじんと痺れてくる。
指の動きはどんどん加速していく。声のボリュームもそれに比例する。
「ふあぁぁっ、あぁぁんっ! ひゃぁんっ! んぁぁぁぁっ!! あんっ!」
痛いほどに激しい刺激。その痛みの何十倍も、何百倍も気持ちいい。
身体の中で、小さな爆発が立て続けに起こる。
それでも、止まらない。どんどん気持ちよくなっていく。
「ぅんんんん――っ! んみゃぁぁぁぁぁ――――っっっ!!」
膣内の刺激に浸りきっていたところに、いきなり、外からの刺激が加わった。
充血したクリトリスが、中に劣らず激しく擦られる。
「あぁぁ――っっ! あぁぁぁ――っ! ――――っっ!!」
下半身にぎゅうっと力が入り、一瞬後、弛緩する。
熱い液体が噴き出してくる。
失禁したみたいな大量の潮噴きが止まらない。
下半身の感覚がなくなり、そして、意識が遠くなった。
もちろん、責めはそれで終わったりはしなかった。
その後も、ずっと続いた。
指で。
舌で。
ローターで。
バイヴで。
マッサージ器で。
それらの様々な組み合わせで。
しまいには全部同時に。
胸を、性器を、お尻を、執拗に責められ続けた。
何十回、何百回と、数え切れないくらいに達して、何度も、何度も気を失った。
だけど、休ませてはもらえない。
無理やり起こされて、また、責められる。
パパが休憩している間も、バイヴやローターを挿れられたままだったり、クリトリスや乳首にローターを貼りつけられていたりした。
汗とか、涙とか、涎とか、潮噴きとか、様々な体液を脱水症になりそうなほど大量に分泌させられ、シーツはぐっしょりと濡れていた。
不思議と、鞭のような本当に痛い責めはひとつもなくて、いつも以上に気持ちのいい愛撫の連続だった。
だからこそ、逆に辛いのかもしれない。何回、何十回と達しても終わりにはならず、強力な〈クスリ〉のせいで、際限なく快楽を引き出されてしまう。
絶え間なく続く悲鳴。
痙攣を繰り返す括約筋。
今にも神経が焼き切れそう。
だけど、いい。
だからこそ、いい。
すごく、幸せな気分だった。
喉が渇くと、パパが口移しで甘いワインやジュースやスポーツドリンクを飲ませてくれる。
お腹が空くと、ケーキや果物を食べさせてくれる。
それさえも、口に対する愛撫のように感じた。
なにもかもが、気持ちよすぎる。
それが、いつまでも続く。
だから、辛い。
だけど、やめて欲しくない。
このまま果てしなく責められて、本当に力尽きて意識を失えたら、それは至上の幸福だろう。
ひとつだけ疑問に思い、そして不満だったのは、パパ自身を一度も挿入してくれていないことだ。
性器はもちろん、口にも、お尻にも、挿れられていない。
一度も挿入してもらっていない。
一度も射精してもらっていない。
そもそも、パパはまだ服を脱いですらいない。
どんなに気持ちよくても、それが少しだけ不満だった。
やっぱり、パパが欲しい。
おまんこにも、口にも、挿れて欲しい。いっぱい、飲ませて欲しい。
だけど、これは〈おしおき〉だから、私の願いは叶えられないのだろう。
それが、浮気の代償。
だから、どんなに辛くても我慢するしかないのだ。
そんな責めは、本当にいつまでも続いた。
パパの家に来たのは午前中なのに、夜になってもベッドに鎖でつながれたまま、バイヴを挿れられたままで、責めが終わる気配はなかった。
食事はパパの手で食べさせてもらった。
〈クスリ〉も定期的に与えられていた。
お風呂もパパに入れてもらった。
トイレも、パパに抱かれて連れていかれて、見ている前でさせられた。それは私にとってももちろん恥ずかしいことなのだけれど、パパの前で恥ずかしいことをさせられるのは、やっぱり気持ちのいいことだった。
〈クスリ〉で心身が昂り、バイヴで責められ続けているせいで、心身ともに疲れきっているのに、深夜になっても眠れなかった。
パパは隣で眠っている。
眠る前に腕も脚もさらにしっかりと縛られてしまい、身動きはほとんどとれなかった。
これではバイヴを抜くことはもちろん、眠っているパパに口や手で〈ご奉仕〉してあげることもできない。口で大きくしてあげて私の中に挿れる、というのが理想だったのだけれど、実現は不可能だ。
パパが隣にいるのに、パパの体温を身体中で感じているのに、パパとエッチできない。
それが、なによりも辛かった。
だけど、これは〈おしおき〉だから仕方がない。我慢して受け入れるしかない。
結局、夜はほとんど眠れなかった。
睡魔など入り込む余地のない、絶え間ない快楽。
なのに満たされないもどかしさ。
そのふたつが合わされば、どれほど身体が疲れていても眠れるものではない。少しはうとうとしたような気もするけれど、はっきり眠ったという意識はない。
とても、長い夜だった。
そんな責めは、翌日も続いた。
パパは私を積極的に責めている時もあれば、ゆっくり新聞を読んだり、コーヒーやお酒を飲んだりしながら私を眺めている時もあった。
そんな時ももちろん私は解放されず、〈クスリ〉と〈オモチャ〉に責め立てられ、悶え狂っていた。
確かに、これに比べれば、普段の痛いおしおきはある意味〈ぬるい〉かもしれない。
痛くないのに、気が遠くなるほど気持ちいいのに、だからこそ、辛い。
そして、辛いからこそ幸せな、とても甘い時間だった。
二日目の夜も昨夜同様に、拘束されたまま、オモチャを挿れられたまま、だった。
眠ることができないほどの、しかしけっして満たされることのない快楽。
だけどこの頃には、そんな状態でもただパパに寄り添っていられれば幸せだと感じるようになっていた。
三日目も、同じだった。
こんなに長い間、片時も離れずにパパと一緒にいられるなんて、いったいいつ以来だろう。
早瀬と仲よさそうにしているところを見せつけてから今回の呼び出しまで、思ったよりも間が空いた理由も納得できた。普段あれだけ忙しいパパが、こんなに何日も仕事を休むためには、いろいろと準備が必要だったのだろう。どんなに嫉妬していても、すぐに呼び出すことはできなかったのだ。
三日目ともなると、私はすっかりこの状況に溶け込んでいた。
すごく、いいかもしれない。
なにもせず、なにも考えず、ただ、パパと一緒にいて、際限なく快楽を与えられ続けるだけの毎日。
ずっと、こうしていたい。
このままでいたい。
ただ、パパに弄ばれるだけの愛玩動物になりきって、想うことは〈気持ちいい〉〈もっとして〉〈パパ大好き〉だけ。
それで、いいのかもしれない。
その方が、幸せなのかもしれない。
いろいろと余計なことを考えるから、生きるのが辛くなるのだ。
だったら、なにも考えなければいい。
パパの愛撫に応えるだけの生き物になればいい。
学校のことも、早瀬のことも、淀川のことも、遠藤や木野のことも、援交のこともAVのことも、みんな、どうでもいい。それらはみな、考えるに値しないこと。
ただ、この状態がずっと、永遠に続けばいい。
あとは、パパと本当にセックスできればなにもいらない。
――そう、想った。
その願いが叶えられたのは、四日目のことだった。
朝、目を覚ましたパパの手で、朝食を食べさせてもらった。
昨夜もほとんど眠ることはできず、肉体的にはかなり消耗しているはずなのに、この不眠はどういうわけか不快なものではなかった。なんとなくふわふわとした感覚で、どちらかといえばいい気分だ。
朝食を終えて、食後のコーヒーでのんびりとくつろいでいたパパが、ゆっくりと立ち上がる。
また、これまで同様の責めがはじまる――そう想った。
朝食に混ぜられた〈クスリ〉のせいで既に正気を失いかけていた私は、それだけで濡れてしまう。
だけど、今日は昨日とは違った。
私が見ている前で、パパが服を脱ぎはじめた。欲しくて欲しくて堪らなかったものが、下腹部で固く反り返っている。
「…………パ……パ?」
全裸になったパパがベッドに上がってきた。
私の上に覆いかぶさる。
「――っ!」
だらしなく涎を垂れ流し続けている割れ目に、熱いものが押しつけられる。
もう、それだけで達してしまいそうだった。
「これが欲しかったんだろ?」
「……パパ……挿れて……くれるの?」
返事の代わりに、腰が突き出された。
膣のいちばん奥まで、一気に、深々と貫かれた。
「――――――っっっっ!!」
悲鳴は、もう、声にならなかった。
気持ちいいとか、そんな、言葉で形容できる感覚ではない。ただ挿入されただけで、この四日間でいちばんの絶頂に達してしまった。
息が止まる。
全身が痙攣する。
視界が真っ白に塗り潰される。
このままショック死してしまうのではないか、というほどの刺激、いや衝撃だった。
パパのペニスは、いつも以上に元気だった。なにしろ今日まで一度も挿入せず、射精せず、なのに私のこれ以上はないくらいにいやらしい姿を見続けていたのだから当然のことだ。
きっと、もう、破裂寸前まで昂っていることだろう。
「……すごい……すごいの……パパ……」
気持ちいい。
気持ちいい。
気持ちよすぎて、涙がとめどもなく溢れる。
これまでに経験したセックスで、いちばん気持ちいい瞬間だったかもしれない。
「……三日間がんばったから……ごほうび?」
嬉しい。
気持ちいい。
嬉しい。
気持ちいい。
今までで、いちばん気持ちのいいセックス。
いけないことなのに。
近親相姦なのに。
信じられないくらいに気持ちよくて、幸せ。
このまま胎内にいっぱい出してもらえたら、幸せすぎて死んでしまうかもしれない、というくらいに幸せだった。
――だけど。
「ご褒美? まさか。今回は本気で怒ってるんだから、ここからが本当のおしおきだ」
「……え?」
言われた意味が、すぐには理解できなかった。そのくらい、今の理解力を超えた言葉だった。
この気持ちよすぎる状態の、いったいどこがおしおきだというのだろう。
それとも、気持ちよすぎておかしくなってしまうことがおしおきなのだろうか。
しかし、
優しげだったパパの笑みが、狂気をはらんだ残忍なものに変化していく。
ゆっくりと開かれた唇が、決定的な台詞を紡ぐ。
「……ピル、飲んでないんだろ?」
「――――――っっっ!!」
その一言で、正気に戻った。
快楽の海に溶けてなくなっていたはずの理性が、一瞬で甦ってきた。
そうだ。
普段なら毎日飲んでいるピルは、ここに来た日の朝に飲んだきりだった。
以後、ベッドに縛りつけられて、食事も入浴も排泄も、すべてパパの手で行われてきた。自分の意志では動けない状態で、当然、バッグの中のピルは飲んでいない。
そして――
そこで、恐ろしい事実に気がついた。
嫉妬に狂っていたはずのパパからの呼び出しが、予想していたよりも遅かった本当の理由。それは、仕事の都合だけではなかったのだ。
三日間、挿入なしで焦らし続けられた本当の理由。それは、単に〈おしおき〉として焦らしプレイをしていたのではない。
私の生理周期は比較的安定している。今回もその通りだとしたら、次の排卵予定日は明日のはずだった。
パパは、この日を待っていたのだ。
――そう。
私に対して、どんなおしおきがいちばん効果的か、どんな責めがいちばんダメージを与えるのか、本人以上に知りつくしているのがパパだ。
妊娠の恐怖こそ、私のいちばんのトラウマだった。
「――パパっ! やめてっっ!!」
思わず、金切り声で叫んだ。
パパは構わずに腰を動かし続ける。むしろ、動きが激しくなっていく。
この三日間、本当に焦らされていたのはパパの方なのだ。欲望、早瀬に対する嫉妬心、私に対する怒り、そのすべてをぶつけてくる。
「あぁぁっ! あぁっっ! あぁぁぁ――――っ!」
〈クスリ〉漬けで焦らされ続けた身体は、ひと突きごとに達してしまう。
いくらでも感じてしまう。
だからこそ、これまでに経験したどんな行為よりもおぞましい。
全身に鳥肌が立ち、脂汗が滲む。
「いやぁぁっ! やだぁっ! お願いっ、パパぁぁっ!!」
私の悲鳴を無視して、パパのペニスが深く、深く、深く、突き入れられる。
緊張と恐怖で全身の筋肉が強張って、意志とは無関係に締めつけてしまう。
そんなの、だめ。
そんなことをしたら、パパがさらに気持ちよくなってしまう。そのまま射精してしまう。
そんなの、だめ。
だけど私の身体は、突かれると条件反射のように腰を動かしてしまう。
逃れようとして暴れるのも、腰が動いて、パパをいっそう刺激する結果にしかならなかった。
「やだっ、やだぁっ! いやぁぁ――っ!」
身体がひっくり返される。
俯せにされて、お尻を持ち上げた格好にさせられる。
そのまま、背後からずんずんと激しく突かれる。
この体勢、だめ。
いちばん、だめ。
精液が子宮に流れ込みやすい、妊娠しやすい体勢。もちろん、パパはわかっていてやっていることだ。
「やっぱり、莉鈴のまんこは最高に気持ちいいな。もう、すぐにいっちゃいそうだ」
パパの呼吸が荒い。
「いやぁぁぁぁ――っっ!! いやっ! パパぁっ、お願いっ! やめてぇっ!」
聞き入れられることは絶対にありえない願いとはわかっていても、それでも叫ばずにはいられなかった。
乱暴に打ちつけられる腰。熱く灼けた鋼のようなペニスが、柔らかくとろけた粘膜を抉っていく。
気持ちよさそうな、感極まった吐息がうなじにかかる。
「パパぁっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいぃっ! 早瀬とは、もう、なんでもないのっ! もう絶対、パパ以外の男とセックスなんかしないからっ!」
繰り返される叫びは、ことごとく無視される。
「お願いっ、許してっ! お願いっ、パパぁっ!」
私の願いに反して、パパはフィニッシュに向けて加速していく。
結合部がじゅぶじゅぶと音を立てている。こんな状況なのに、そこは蜜を溢れさせていた。
「やだっ、やだぁっ、いやぁっ! やぁぁっ、お願いぃっ!」
「莉鈴の中に、いっぱい出してあげる。一滴残らず、全部、子宮で受けとめるんだ」
爪が喰い込むほどにきつくお尻をつかまれる。
火傷しそうなほどの勢いで腰が叩きつけられる。
「……いくぞっ!」
「いやぁぁぁぁ――――――っっ!! パパぁぁぁ――――――――っっ!!」
必死の悲鳴に促されるように、いちばん深い部分で、灼熱の爆発が起こる。。
信じられないくらい大量に噴き出してくる濁流は、私の心を灼き尽くすほどに熱かった。
その後も、パパは繰り返し私を犯した。
何度も、何度も、それこそ最後の一滴まで私の中に精を放ち続けた。
力尽きると少し休んで、亜鉛のサプリメントや各種の精力剤を大量に飲んで、また、私の中に侵入してくる。私を犯していない間は、胎内の精液を漏らさない栓のつもりだろうか、バイヴを挿れっぱなしにしていた。
次の日も。
また次の日も。
同じように、犯され続けた。
その頃にはもう、泣き叫ぶ力も残っていなかった。
いったいいつ解放されたのか、どうやって家に帰ったのか、それすらも覚えていなかった。
気がつくと、夜、自分のベッドに寝ていた。
室内の様子に普段と違うところはない。ちゃんと服も着ている。
こうして見ると、すべてが夢だったかのような気がしてしまう。ぐったりと疲れ切っていること以外、なんの痕跡も残っていない。
そうだ。
きっと、夢だ。
夢に違いない。
あんなこと、現実だったはずがない。
パパが、あんなひどいことをするなんて――。
そう、想いたかった。
想い込もうとした。
だけど……夢じゃない。
夢であって欲しいという願いは、すぐに打ち砕かれた。
手元にあった携帯電話。そのカレンダーの日付が、最後に覚えている日から一週間ほど進んでいた。
学校に来ていないことを心配する内容の、遠藤や木野や早瀬からのメールが何通も届いていた。
着信履歴をさらに遡ると、パパからのメール――『明日、家に来るように』という内容の――があった。
それを受け取って、あの日、パパに逢いに行ったのだ。
全部、夢じゃなかった。
すべて、現実だった。
のろのろと身体を起こす。
ベッドの上に、剃刀が落ちているのに気がついた。ベッドが真新しい血で汚れていた。
だけど左手首に無数に刻まれていた新しい傷はどれも浅くて、わずかに血が滲んでいるだけだった。
無意識の中でも、深く切ることはできなかったのだ。
その理由は明白だった。
私の中に……
私のものじゃない、
小さな生命が、
在るから――
「う…………」
嗚咽が込み上げてくる。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしたらいいのだろう。
排卵日だからといって、絶対に妊娠するとは限らない。しないことだって大いにあり得る。
そう、想おうとした。
だけど、無理。
そんなこと、信じられるわけがない。
根拠はないけれど、確信していた。
そっと、下腹部に手のひらを当てる。
この中に、在る――
ひとつの、生命が。
もう、着床したのだろうか。
それは、まだ、分裂をはじめたばかりの小さな細胞の塊でしかない。
だけど。
それはもう、私とは別の、私のものじゃない、生命――
「う……ぅぅ……うわぁぁぁぁぁぁ――――――っっっっ!!」
お腹を押さえて、ベッドの上で身体を丸めて、狂ったように絶叫した。
翌朝――
昨夜は、一睡もできなかった。
一晩中、泣き続けていた。
朝になった頃には、もう、涙も涸れていた。
なにも考えられなかった。
ベッドの上で、ただぼんやりとしていた。
なにも感じなかった。
哀しみも、憎しみも、怒りも。
なにも、感じない。
感情が欠落していた。
この数日間で一生分の涙を流し尽くして、涙と一緒に他のすべての感情も流し尽くして、身体の中が空っぽになってしまったかのようだった。
ただ、お腹の中に在るものを、ぼんやりとした事実として認識するばかりだ。
あの後、パパからの連絡は一通のメールだけだった。しばらくタイとミャンマーに行ってくる、帰ったらすぐ連絡する――と。
もっとも、日本にいたとしてもパパには逢えなかっただろう。
怖い、から。
漠然とした恐怖が心の中に渦巻いていた。
その日はまる一日、ただぼんやりと過ごしていた。
夜は、やっぱり眠れなかった。
横になって目を閉じていても、眠ることはできなかった。
特になにも考えてはいないのに、睡眠という安息が得られない。
多少はうとうとしたかもしれないけれど、ちゃんと眠ったという実感はなかった。少しでも眠ると、その度に怖い夢を見て跳び起きた。
目が覚めた時にはどんな夢かも覚えていなかったけれど、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
翌朝は、普段よりやや遅めにベッドから出た。
なにも考えられないまま、身体は勝手に制服に着替えていた。
脚は勝手に学校へ向かっていた。
頭はなにも考えていなかった。ただ、自動的に動く機械人形のように行動していた。
一時限遅れて、休み時間に教室に入った私を見て、教室中がざわついた……ようだった。私自身はほとんど意識していなかったけれど。
みんな、驚きの表情を浮かべている。
普段の、疎ましいものを見る視線とは違う。
一週間以上もさぼっていたからだろうか。だけど、それだけでここまで驚くというのも不自然だ。
まあ、どうでもいい。
そう思って席に着こうとした時、ちらりと、早瀬の顔が目に入った。他のクラスメイト同様に、なにやら驚いたような顔でこちらを見ている。いったいどうしてだろう。
私の方は、早瀬に対して特になんの感情も抱かなかった。
今のこの状況は、ある意味、早瀬のせいといえないこともない。なのに不思議と怒りは湧いてこない。
もちろん、いちばん悪いのは私であり、パパである。早瀬に当たるのはお門違いだ。
とはいえ、早瀬に対して感情の昂りがないのはそのためではなく、単に、昨日一日で燃え尽きてしまったからだろう。
早瀬が腰を浮かしかけたけれど、私のところに駆け寄ってきたのは木野が先だった。
「ちょ……莉鈴、いったいどうしたの?」
やっぱり驚愕と困惑の表情を浮かべて、やや乱暴に肩をつかんでくる。
「……なにが?」
私は小さく首を傾げた。
「……一週間のさぼりくらい……たいしたことじゃないでしょ、私には」
確かに長い休みではあったけれど、ここまで慌てることもあるまい、と思う。
しかし木野は、さらに眉間に皺を寄せた。
「いや……学校休んでたことじゃなくて……。それ、いったいどういう心境の変化?」
「……なにが?」
なにを言われているのか、理解できない。
「莉鈴の、その格好……って、……?」
格好?
なにか、おかしな格好をしているのだろうか。
ぼんやりと、ほとんど無意識の状態での身支度だったから、なにか間違えただろうか。
制服に着替えたつもりで、〈デート用〉の他校の制服を着てきてしまったとか。
あるいは、ソックスが左右違っているとか。
自分の身体を見おろす。
ちゃんと、この学校の制服を着ていた。スカートやソックスを着け忘れたりもしていない。
木野に視線を戻し、もう一度首を傾げた。
表情が、驚きから不審に変わっていく。訝しげに私を見つめている。
木野の、早瀬の、他のクラスメイトたちの目には、明らかにおかしいと映っているのに、私には自覚がない。
そう、気づいた顔だった。
「……ちょっと、来て」
乱暴に手を引いて、教室から出て行く。
私は抗わず、黙ってその後に続いた。
「ちょっと、遠藤センセ! 莉鈴が変!」
血相を変えた木野が引っ張っていった先は、おなじみの保健室だった。
いつものように机に向かっていた遠藤が顔を上げる。
私を見て、不思議そうに眉を上げた。
木野や早瀬のようなあからさまな反応ではないけれど、私が普段とは違うと感じている顔だった。
それでも、小さく笑みを浮かべる。
「……久しぶりだな。どうした? 珍しく可愛い格好して」
「……え?」
なにを言われたのか、わからなかった。
私に寄り添って、支えるように肩を押さえていた木野が、壁に掛かっている鏡の方へと身体の向きを変えさせる。
「……あ」
底に映っているのは、制服を着た私の姿。
なにも知らない人が見れば、どこもおかしなところはない。
髪をセットしていないとか、顔を洗っていないとか、ブラウスが皺だらけとか、そんなこともない。リボンだって傾きもせず綺麗に結ばれている。
今朝の精神状態でよくも、というくらいにちゃんとした女子高生の姿だった。
ただし、それが私の姿となると、大きな間違いがあった。
髪をおさげにしていない。
眼鏡をかけていない。
派手にならない程度にお化粧をしている。
スカートが短い。
ソックスがオーバーニーソックス。
――そう。
これは、いつもの〈学校モード〉の私じゃない。〈デート〉の時の姿だ。
表情も、いつもの無機的なものではなく、どこかふわふわした雰囲気の、つかみどころのない微笑みを浮かべていた。
「ぁ…………なるほど」
ようやく、納得がいった。
教室で、木野が、早瀬が、みんなが驚いていた理由。
〈デートモード〉の私を間近で見たことがあるのは早瀬だけだ。普段、学校では容姿も雰囲気もわざと地味にして、〈女〉としての魅力を極力表に出さないようにしている。しかし今は男受けのいい〈デート〉用の姿で、フェロモンも垂れ流しになっていた。
こんな姿で登校したのは初めてなのだから、驚かれるのも当然だ。
「……可愛いのはいいんだけど、ヘンなの。莉鈴ってば、この格好してる自覚もないみたいなの」
「え?」
困惑した様子で訴える木野。
表情を変化させる遠藤。
私は木野の手を振りほどいて、ベッドに倒れ込んだ。足だけで靴を脱ぐ。
「……大げさに騒ぎすぎ。……今朝……ちょっとぼんやりしてて、うっかりしただけ。……ちょっと寝不足で……寝ぼけてたんだと思う」
「……そうか? なら、いいんだが……いやまあ、寝不足もほどほどにな」
やや釈然としない様子で、遠藤と木野は顔を見合わせる。
「なにか、あったのか? しばらく学校に来てなかったよな?」
遠藤だけではなく、木野も同じことを訊きたそうな顔をしていた。
「ん……まあ、ちょっと、いろいろ。……パパと、デートとか」
それだけ言うと、遠藤の表情が微妙に変化した。なにやら思うところがありそうな、複雑な顔になる。
そういえば、遠藤はいちおう知っているのだ。私が〈デート〉する〈パパ〉の中に、パパ……実の父親が含まれていることを。
まだ保健室に通うようになって間もない頃、ちらっと話した記憶がある。もちろん、早瀬のように詳しく知っているわけではない。初体験の相手だということも話していない。単に、父親とセックスしたことを話しただけだ。
遠藤の表情を見るに、今回の〈デート〉がいつもと違う特別なものであることに気づいたようだ。
「詳しく話す気は?」
「…………そのうち」
実際のところ、話すつもりなんてない。少なくとも、今のところは。
しかし、それでは遠藤は納得しまい。いずれ話すという姿勢をほのめかしておけば、今はあまりしつこく追求されないだろうという算段だった。
ベッドの上で仰向けになって目を閉じる。
昨夜もほとんど眠っていない。疲れきっているはずなのに、睡眠不足はもう限界のはずなのに、しかし、眠気はやってこなかった。
神経が昂っている、という状態とも違う。むしろ、生命活動のレベルは心身ともにかなり低下している。
なのに、睡眠という安らぎを得ることができない。
おそらくこれは、無意識の、本能的な自己防衛なのだろう。
きっと、怯えているのだ。
いま眠ってしまったら、最悪の、精神が耐えられないほどの悪夢に苛まれるに違いないから。
とはいえ、この状況が歓迎できないものであることも事実だ。こんな、ほとんど眠らないままでは、そういつまでも身体がもたない。
おそらく、もう限界に近いはず。あるいは、もう辛いと感じる限界も超えてしまったのかもしれない。
このまま、完全に狂ってしまうのかもしれない。
それとも、死んでしまうのかもしれない。
それでも、いい。
そう想う自分がいる。
ある意味それは、ひとつの救いの形だ。
だけど。
今は、死ねない。
死を受け入れるわけにはいかない。
死ねば楽になれる。
すべての悩み、苦しみから解放される。
だけど、それは贖罪を放棄した安易な逃げだ。
無数の罪を犯した私には、安息など許されない。
そして……
今は、死ねない。
生きなければならない。
生きるのがどんなに辛いことであっても、死ぬわけにはいかない。
もう、私の生命は、私ひとりのものではないから。
「……遠藤」
目を閉じたまま、口を開いた。
「なんだ?」
「…………睡眠薬とか、ない?」
「……北川」
顔を見なくても、私の依頼を歓迎していないことは明白だった。声に、咎めるような気配がある。
もっとも、普段の行いを省みれば、遠藤の反応はもっともだ。
「……別に、変なことに使うんじゃない。ただ……眠れないの」
「クスリに頼って眠るのは、あまり歓迎できることじゃないぞ」
厳しい口調は変わらない。
「特に北川の場合、肉体じゃなくて精神的な問題だろうからな」
「そうだけど……私の〈精神的な問題〉は簡単に治るものじゃないし……、まったく眠れないよりは、薬を使ってでも眠った方が、少なくとも肉体的な健康にはプラスでしょう?」
「まあ……そういう考え方もあるけどな」
やはり警戒しているようだ。私の様子が普段と違うからだろうか。いつも通りだったら、少量の睡眠薬くらい、ちょっとした小言だけで出してくれたのではないかと思う。
やがて、静かな溜息が聞こえた。
「……仕方ない。一日分だけだぞ」
「学校……来ない日もあるし……せめて二日分」
また、しばしの沈黙。そして溜息。
「……本当に、ちゃんと規定通りに使うんだな?」
「……ええ、約束するわ」
「わかった。ただし、二日分ってことは二日ごとにしか出さないぞ?」
「……それで、いい」
渋々、といった様子でうなずく遠藤。保健室の薬品棚ではなく、自分の鞄から錠剤のシートを取りだした。
「……私物? 貴女も薬に頼って眠っているの?」
「ばかいえ。今の北川みたいな生徒のために用意してあるんだよ。公にできるものじゃないし、滅多に使うことはないけどな」
そう言って、二錠を渡してくれる。
「今は飲むなよ。ちゃんと、夜寝る前にな」
「……わかった」
うなずいて、ポケットにしまう。
また、目を閉じる。
「薬は飲まないけど……しばらく休んでいってもいいでしょう?」
「ああ」
保健室の方が、自分の部屋よりは安らげるかもしれない。あそこは、忌まわしい記憶が多すぎる。
それに、ここにいれば独りではない。
「木野も、しばらくここにいるのか?」
「はい」
木野はいつの間にかパイプ椅子を引っ張り出してきて、ベッドの傍に座っていた。
「……教室に、戻ればいいのに」
わざと、素っ気なく言う。
「いちゃ、だめ?」
「……別に」
「だったら、北川のこと、しばらく見ていてくれるか? 私は職員室に用事があるから」
木野がうなずき、遠藤が保健室から出て行く。ドアのプレートをひっくり返す音がする。
それを見送った木野が、視線を私に戻した。
「……なんで?」
ただそれだけの質問を投げかける。それでも意味は通じたらしい。
なぜ、木野は保健室に残ったのだろう。授業をさぼる口実だろうか。しかし、授業態度は真面目な方だったと記憶しているのだけれど。
「ん……なんとなく。莉鈴と会うのも久しぶりだし、可愛い寝顔をゆっくり見ていたいから、かな?」
いつもと変わらぬふざけた口調だったけれど、その表情はどこか哀しげに見えた。あるいは、私の精神状態のせいでそう見えただけかもしれないけれど。
「……物好きというか、悪趣味というか…………退屈でしょう」
慌てて教室を飛び出してきたのだ。携帯電話も、暇つぶしになる本も持ってきてはいまい。本当に、寝顔を眺めているくらいしかすることはない。
「……どうせなら、木野も寝ていったら?」
「え?」
「遠藤公認で、学校で昼寝するチャンスよ?」
「……いいの?」
返事の代わりに、身体の位置をずらしてスペースを空けた。保健室のベッドは狭いけれど、それでも女子ふたりなら寄り添って寝られないこともない。
木野は少しだけ躊躇ったような素振りを見せたけれど、隣のベッドから枕を持ってくると、上履きを脱いでベッドにもぐり込んできた。
「狭くない? 大丈夫?」
「……私は、別に」
ベッドの上ではむしろ、誰かの身体が傍にある状態の方が慣れている。
「授業さぼって保健室で寝るなんて、初めてかも。いけないことだって思うと……だからこそドキドキするね」
「……そう」
私にとっては〈いつものこと〉だ。さすがに、この程度のことで罪悪感など覚えない。
ただ、ぼんやりと天井を見つめる。腕に、木野の体温を感じる。
しばらくそのままでいて、やがて、私の方から口を開いた。
「……なにか、話しがあったんじゃないの?」
木野がここにいる理由。ただ寝顔を見たいとか、さぼりたいとか、そんな動機とは思えなかった。
だから、ふたりきりになったところで本題に入ると思ったのに、なかなかそんな気配がない。結局、こちらが根負けした形になった。
「んー、……いろいろ、話したいこととか、訊きたいこととか、あるといえばたくさんあるんだけど…………今は、いいや。莉鈴にとっては、安眠の妨げになりそうな話題も多いだろうし」
「気を遣ってくれて助かるわ」
正直なところ、そうした気遣いはありがたいことだった。今の精神状態で面倒な話題を振られたら、いつか遠藤にしたように、発作的に木野を傷つけてしまわないとも限らない。
最後の一線を越えて近づきすぎず、しかし放置もせず、木野の距離感は絶妙といえた。
また、目を閉じる。
もちろん、それですぐに眠くなるものではない。
ただぼんやり過ごしているという点では教室にいても変わりはなかっただろうけれど、早瀬の姿がない分、ここの方がいくぶん気が楽に思えた。今なら、早瀬を前にしても先日のような憤りは覚えないけれど、いない方が気楽なのは間違いない。
片目を開けて、ちらりと時計を見る。
昼まではまだまだ時間がある。
そういえば、今朝は朝食を食べただろうか……などと、どうでもいいことを考えた。
「……え?」
驚いたことに、少し眠っていたらしい。
気がついた時には木野に抱きつくような体勢になっていて、直前までの記憶がなかった。
顔に感じた柔らかな感触は、枕ではなく、比較的大きな木野の胸だった。そこに、顔を埋めていた。
「あ……起きた?」
視線を上げると、木野の顔が至近距離にあった。静かな笑みを浮かべている。
「……私……寝てた?」
驚いた。いったいいつの間に。
怖い夢を見た記憶もない。昨夜は、ほんの少しうとうとしただけでも、悪夢に苛まれていたというのに。
時計を見ると、昼休みの少し前だった。
「……体調はどうだ?」
いつの間に職員室から戻ってきていたのか、遠藤が顔を出す。
「……少し……いい」
一、二時間くらいは眠っていたのだろうか。それも、うとうと程度ではなく、それなりにしっかりと。
今朝に比べれば、幾分、頭が動いている気がする。
「戻ってきた時は少し驚いたぞ。まさかふたりが同じベッドで、抱き合って寝てるとは」
遠藤はからかうような口調で〈抱き合って〉の部分を強調して言った。
「あははー、まさか保健室のベッドでヘンなことするわけないじゃん」
屈託なく笑って身体を起こし、ベッドから降りる木野。
「木野はそうかもしれんが、北川は前科があるからな」
「…………私が、同性相手に変なことをするとでも?」
私のセックスの対象は、原則として男だ。
しかし遠藤はなにか言いたげに、声に出さずに唇を動かした。その動きは、直前の台詞を繰り返したように見えた。
〈前科があるだろう〉と。
微かに、眉間に皺を寄せる。
想い出すには、少し時間が必要だった。
そうだ。
言われてみれば、ここで、同性相手に〈変なこと〉をしたこともあった。夏休み中に、相手は他でもない、遠藤だった。
声に出さなかったのは、木野に配慮してのことだろうか。ならば、こちらから言ってやったら面白いかもしれない。
あれは遠藤が先に手を出してきたのでしょう――と。
木野の前でどう言い訳するのか、見てみたい気もする。
しかし冷静に考えてみれば、木野には知られない方がいいだろう。早瀬相手に一歩も引かなかったことを考えれば、遠藤に対しても本気で怒りそうだ。
もちろん、単純に性欲で私を抱いている早瀬の場合とは事情が違うけれど、そんな理屈が通じるかどうかはわからない。
遠藤と木野、どちらのためにも黙っておいた方がよさそうだ。そして、そんな配慮ができる自分にも驚いた。
「昼食を食べたら、午後の授業は少しでも出ておけよ」
「…………」
これ見よがしに小さく溜息をつく。しかし文句は言わずにベッドから出た。寝ていたせいで乱れた制服を整えて保健室から出たところで、ちょうど昼休みを告げるチャイムが鳴った。
「購買でパンでも買ってく?」
「……ええ」
そのつもりで歩き出したところで、階段を下りてきた大きな人影が目に入った。
昼休みになったところで、早瀬も保健室へ来ようとしていたのだろうか。私の姿を認めて立ち止まる。
なにか言いたげな様子だ。
私は無視して歩いていく。視線も合わせようとしない。
木野はそんな私の様子をどう受け取ったのか、早瀬の横を通り過ぎる時、いきなり、大きな声で話しかけてきた。
「……そういえば、莉鈴が休んでる間に、購買のパンに新メニューが増えたんだけど、これがもうすっごいの。登場から三日で、もう校内罰ゲームの定番になるような代物でさ……」
どうでもいいような話題。
不自然に大きな声。
それはまるで、早瀬が話しかけてくることを拒絶するかのようだった。
これも、彼女なりの心遣いだったのかもしれない。
午後の授業はいちおう出席したけれど、いつも以上に〈ただ座っていただけ〉だった。授業なんて、これっぽちも頭に入ってこない。
しかし、いつもは睡眠薬並みに効く教科書の文字も教師の声も、今日に限ってはまったく眠気を誘わない。
もちろん、だからといって授業の内容が頭に入ってくるわけではない。家にいる時と同じく、ただぼんやりと過ごしていただけだ。
どうして、保健室では眠れたのだろう。
保健室という場所のせいか、木野という同伴者のせいか、あるいは単にたまたまなのか。
ひとつ確実にいえることは、今夜、自分のベッドでは眠れないだろうということだ。眠るためには、遠藤からもらった薬に頼る必要があるだろう。
ぼんやりと視線を泳がせる。
早瀬の大きな背中が視界に入る。
私がいない間、どう過ごしていたのだろう。ふたりの関係がはじまって以来、もっとも長い間隔が空いたけれど、性欲処理はどうしていたのだろう。
もしかしたら、茅萱としていたのだろうか。
休んでいた間、メールは何通も来ていたけれど、一通も目を通してはいない。メールが来ているということは、まだ私を見限ってはいないということだろうか。
犬に犯され、実の父に犯され、それで悦んでいる女。いい加減、愛想を尽かしてもいいだろうに。思っていた以上にしつこい。
小さく、溜息をつく。
どういうわけか、彼の存在が少しだけ憂鬱だった。
涙が涸れるまで泣いて以来、感情の起伏なんてほとんどなくなってしまったと思っていたけれど、それでも少しだけ、早瀬の姿を見るのが憂鬱であり、不快でもあった。
もちろん話なんてしたくないし、セックスも、したいという気持ちがまったく起こらない。
以前なら、精神的にはともかく、肉体的にはどんな時でも快楽を求めている部分があったのに、性欲がひどく希薄になっているような気がした。
いったいどうしたことだろう。
パパに監禁されていた間、本当に数え切れないほどいかされ続けていたせいかもしれないし、他の理由かもしれない。
しかし、以前と違うのは当然といえば当然だ。
あんなことがあって、なにも変わらずにいられるわけがないのだから。
放課後――
早瀬が近づいてくる気配を感じて、それを避けるように、小走りで木野のところへ向かった。
まるで、逃げるかのような行動。無意識のうちに身体が動いていた。
背後から、木野のブラウスの裾をつかむ。
おやっという表情で振り返る木野。
「……一緒に、帰らない?」
小声で言う。
縋るような声の調子に、自分でも驚いた。
木野が大きく目を見開く。
驚くのも無理はない。私と木野が傍目に親しそうに見えるのは、木野がしつこくつきまとってくるからであり、私の方から積極的に接触したことなどない。
木野を誘うなんて、初めての出来事だった。
視線が一瞬だけ私から外れる。おそらくは背後の早瀬を見たのだろう、私に視線を戻した時には、理解の表情が浮かんでいた。
「……いいよ。ちょうど今日は部活もないし、どっか遊びに行こうか」
仲のいい女の子同士がふざけてするように抱きついてくる。
「……部活なんて入ってたの」
そう返すと、少しばかり傷ついたような顔になった。
「……うん、まあ、そういう性格だってわかってるけどね」
この反応から察するに、もしかしたら以前にも部活についての話しを聞いたことがあるのかもしれない。まるで覚えていないけれど。
クラスメイトが、遠巻きにして私たちを不思議そうに見ている。木野が友達と仲よくスキンシップするのはいつものことだけれど、その相手が非日常だ。木野が話しかけてくることは多くても、私がこうして接触を許すことなどほとんどない。
周囲の目など気にせずに、木野は私を教室の外へと引っ張っていく。さりげなく、早瀬から引き離すように。
教室を出たところで、表情が少し真面目になった。
「早瀬を避けてる?」
「…………会いたくない。話したくない」
その台詞をどう受けとめたのかはわからないけれど、
「そっか……よし、悠美ちゃんにまかせとけ!」
嬉しそうに、私の背中をぽんぽんと叩いて言った。
「で、どこ行く? カラオケ? ケーキバイキング? それともメイドカフェ?」
「……なぜそこでメイド?」
唐突な台詞に、思わず突っ込みを入れてしまう。〈学校モード〉の私はそんなキャラではないはずなのに。
「執事カフェの方がよかった? なんとなく、今はオトコはあまり見たくないんじゃないかと思っただけなんだけど」
「……や……そういう意味じゃなくて」
木野は、メイドカフェとか執事カフェとか、そういうのが好きなのだろうか。
……なんとなく、好きそうな気がした。
「あ、じゃあ、猫カフェとか?」
思わず、頬の筋肉がぴくっと震えた。
「……猫なんて、見たくもないわ。男以上に」
意図せず、必要以上にきつい口調になってしまった。
「猫、嫌いだったっけ?」
「……最近……嫌いになった」
微かに、引きつった笑みが浮かぶ。
「今、猫に触れたら……しかもそれが茶トラだったりしたら、縊り殺してしまいそう」
「……うわ、その表情でその発言やめて。似合いすぎで怖すぎ」
木野は苦笑しつつも、その陰に、本気で怯えているような色が見える。
「なんか、猫に恨みでもあるの?」
「……そうね。向こうに悪気はないんだろうけど」
そう。
みーこには悪気なんてない。むしろ、木野や遠藤とはまた違った形で善意の塊ともいえる。私に好意も寄せてくれている。
しかし、そんなことは木野には話さない。
「……で、莉鈴だったら、こんな時、どこ行くの?」
「…………ラヴホ」
少し考えて、ぽつりと答えた。
木野がバランスを崩したのは、単につまずいただけなのか、それとも私の発言にこけたのか。
「……ホテル直行、食事をしてホテル、ホテルでやることやってから軽い食事、ドライブしてホテル。あとは……ドライブしてそのまま車の中で、あるいは青姦。……そんな付き合い方しか、知らない」
同世代の女友達と遊んだ記憶なんて、小学生まで遡らなければならない。セックス以外で、他人と接する方法なんて、知らない。
「じゃあ、はや……あ、いや、なんでもない、ごめん!」
木野は言いかけて、慌てて口をつぐんだ。しかし、なにを言おうとしたのかはわかってしまった。
早瀬の話題は私が嫌がると思って、遠慮して訊かなかったのだろう。
「……早瀬と? 同じよ。家へ行って、彼が満足するまでやりまくるだけ。たまに休憩してご飯やお菓子を食べるくらい。何回か、ラヴホや私の部屋ってこともあったけど、やることは一緒」
「……そう」
なんとなく、気まずそうな表情になる。
口をつぐんだまま、少し歩く。
「あたし、ラヴホって行ったことないな。……初体験は、カレシの部屋だったし」
「……じゃあ、行ってみる?」
今度ははっきりと、木野がこけそうになった。
「ちょ……っ、いきなりなにをっ! ま、まずいっしょ、それは!」
顔中真っ赤にして、必要以上に慌てている。意外とうぶなのかもしれない。
「……お菓子と飲みもの買っていって、お風呂入って、昼寝するの。お望みとあらば、カラオケだってDVD鑑賞だってできるわ。……ご心配なく、襲ったりしないから」
「あ……そ、そういう意味? あー、びっくりした。莉鈴ってばいつの間に両刀に? とか思っちゃった」
実際のところ、最近は同性との経験もあるわけだけれど、木野をこれ以上怯えさせないためには言わない方が吉だろう。
それとも、言った方がいいのだろうか。そうすれば、これ以上つきまとわなくなるのだろうか。
しかし今日に限っては、木野が傍にいるのが不快ではなかった。むしろ、心地よいと感じる部分もないわけではない。
「でも……それって、別にラヴホじゃなくてもよくない? 家でも同じことができそうだけど」
「…………言われてみれば、そうね」
友達の家へ行くとか、友達を家に呼ぶとか、そうした発想がそもそもなかった。私にとって、他人と接する場所といえば、まずラブホなのだ。
そこで、ふと思いついた。
「……だったら……うちに、泊まっていかない?」
「え?」
「……最近、家でほとんど眠れなかったのに、さっき保健室では予想外にちゃんと眠れた。だから…………」
腰に手を当てて胸を張り、芝居がかった口調で続ける。
「……貴女を、今夜の抱き枕に任命するわ。これは、命令よ」
高飛車に宣言する。
驚いたような表情を浮かべていた木野が、ふっと笑みを漏らした。
「かしこまりました、お姫さま」
我が儘なお姫様に仕える侍女のように、深々と頭を下げる。そのまま、ぷっと吹き出した。
「……今日は記念日だわ。日記に書いておかないと。莉鈴が家に誘ってくれた上に、私に対して冗談を言ってくれるなんて!」
「……珍獣の餌付けに成功した気分?」
「あはは……そだね、そんな感じ」
〈珍獣〉も〈餌付け〉も否定しなかった。思わず、私も微かな苦笑を浮かべてしまう。
「じゃ、一度家に帰っていい? 泊まって、明日そのまままっすぐ学校へ行くとなると、着替えとか、お泊まりセット持ってこなきゃ」
「……そうね。私もちょっと買い物があるし、後で待ち合わせましょう」
「じゃあ、合流してから、一緒にお菓子とか飲み物とか買っていくってことで」
そうして、待ち合わせの場所と時刻を決めて、一度別れた。
ひとりになって向かったのは、ドラッグストア。
欲しかったのは、睡眠薬。だけど、処方箋も持たない女子高生に睡眠薬を売ってくれるはずがない。そこで、ドラッグストアで買えて、睡眠薬の代わりになるもの……ということで、花粉症の薬を買うことにした。
最近は『眠くなりにくい』を謳っているものも多いけれど、あえて『眠くなってもいいから効き目の強いもの』を選ぶ。
ついでに、妊娠判定薬を買物かごに入れた。会計の時、制服姿で妊娠判定薬を買う女子高生に、店員が咎めるような目を向けていたけれど、そんなことは気にも留めない。
ドラッグストアを出て、ぶらぶらと街を歩いていたところで、目に留まった本屋に入った。
いつも買っているファッション誌を買い、それからふと思いついて、初めての妊娠と出産に関する本を手に取った。
ぱらぱらとページを繰る。
だけど結局、レジには持っていかなかった。この本が役に立つ日が来ないことを、漠然と理解していたのだと思う。
駅の近くで、私服に着替えて大きなバッグを抱えた木野と合流し、お菓子と飲み物――ジュースと烏龍茶とお酒――を買い込んだ。
ついお菓子を買いすぎてしまったので、夕食は、気が向いたらピザの宅配でも取ることにした。
帰宅した時には、空はもう薄暗くなっていた。家には誰もいない。ママはもう出勤した後のようだ。
木野を部屋へ通す。
「へぇ、ここが莉鈴の部屋。意外と普通……でもないか」
一見、〈学校モード〉の私には不釣り合いな〈普通に女の子らしい〉室内を見回していた木野は、ところどころに残る血の染みに気づいて苦笑した。
「……座ってて」
ベッドを指さして言う。
キッチンから、グラスや、お菓子を入れる皿を持ってくる。
ふたつのグラスに、買ってきたばかりの甘口の白ワインを注いだ。そのうちひとつを木野に渡し、自分のグラスを持って隣に腰をおろす。
「……ねえ、莉鈴?」
「……なに?」
「ここで……早瀬と、したこと、あるの?」
「……ええ」
素直にうなずくと、木野は微かに眉をひそめた。
「……なにか?」
「や、ちょっと、その光景を想像しちゃってね。……あ、乾杯」
手の中のグラスを当ててくる。キン、と澄んだ音が響く。
そのグラスを口に運ぶ。
「甘……美味し」
嬉しそうに笑って、唇についたワインを舐める木野。
「木野って……」
「ん?」
「……前にもちょっと思ったけれど、貴女って、私と普通に接している割に、実は、セックスに対して嫌悪感持ってない? 早瀬がどうとかいう以前に」
なんとなく、引っかかっていた。木野の、必要以上に早瀬に突っかかるような態度。
早瀬が嫌いなのか、あるいは逆に早瀬のことが好きで、だから私と別れさせようとしているのか……などと邪推したこともあるけれど、しかし、なにかが違うような気がする。
「え? あー、どうだろ?」
木野は少し困ったような、考えるような顔になる。
「言われてみれば……ちょっと、そんなとこあるかも」
「貴女、バージンじゃないわよね?」
「いちおう、違う。……中学の時、付き合ってた高校生と……何回かしたけど、あんまり、楽しいとも気持ちいいとも思わなかったな」
少し、意外だった。
美人でスタイルがよく、陽気で、人付き合いもいい木野。彼女こそ、明るく楽しいセックスをしそうに見えるのに。
しかし考えてみれば、男女問わず人気者でありながら、付き合っている彼氏の噂は聞いたことがない。言い寄ってくる男子は少なくないらしいけれど。
その、中学時代の彼氏に、なにか嫌なことでもされたのだろうか。
それとも……
「……不感症?」
思いついたままに訊いてみる。
「や……そういうんじゃないと思う。ちゃんと…………感じる、し」
「……気持ちよくなかった、って言わなかった?」
「だから、そうじゃなくて……カレシとした時じゃなくて……ほら、自分で……ね?」
真っ赤になって語尾を濁す。やっぱり、意外とうぶなのかもしれない。
「オナニー? 貴女は、どんな風にするのかしら?」
「ど、ど、どんなって、そんな……口で説明なんてできないよ」
「言葉で説明できないなら、実践してみせて?」
もちろん、冗談だ。うぶな木野を軽くからかっただけ。
案の定、顔から火が出そうなほどに真っ赤になって狼狽えている。
「な……っ、で、で、できるわけないじゃない! そんな、人前でするものじゃないでしょ? 莉鈴みたいにカメラの前でとか、絶対に無理だし!」
その台詞には微かな違和感を覚えたけれど、木野の狼狽えぶりに気を取られていて、それ以上深くは考えなかった。
夜中過ぎに、ふと、目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。
傍らに温もりがある。自分のものではない寝息が聞こえる。
いつもならばそれは男のものなのだけれど、今夜は、私のベッドで木野と抱き合うようにして眠っていた。
やっぱり、木野と一緒だと眠れるのだろうか。遠藤からもらった睡眠薬は飲んでいないのに、朝までぐっすり熟睡とまではいかないものの、悪夢にうなされることもなかった。
あるいは、アルコールの影響かもしれない。
それとも、人肌の温もりのおかげだろうか。だけどこれが早瀬だったら、こんな風に安眠はできない気がした。機会があったら、一度、遠藤で試してみようか。
昨夜は、特になにをしたというわけでもない。ただ、だらだらと過ごしていただけだ。
ワインとジュースとスナック菓子とケーキ。
つけているだけでろくに見てはいないテレビ。
三分後には忘れているような、とりとめのない会話。主に木野が喋って、私は適当に相づちを打つだけという構図は普段と変わらない。
お風呂は一緒に入ったけれど、ふざけて、風俗みたいなサービスをしてやろうかと言ったら丁重に断られた。
ワインを飲み過ぎたせいか早めに眠くなってきて、入浴後はいつ寝てしまってもいいようにと、木野はパジャマに着替えていた。ふたりの時はもちろん、ひとりでも裸で寝ることが多い私は今夜もそうしようとしたけれど、目のやり場に困ると訴える木野にTシャツを着せられてしまった。
その格好でベッドに寝そべって話していて。
いつの間にか、眠っていたらしい。
木野の静かな寝息が、一定のリズムを刻んでいる。
なんとなく、彼女のパジャマに手を伸ばした。起こさないように気をつけて、そぅっとボタンを外していく。
荷物を減らすためだろうか、パジャマは上しか持ってきていなかった。ずいぶん大きめの男物だから、あるいは普段から上しか着ていないのかもしれない。
前をはだけさせる。
胸の膨らみが露わになる。
長身の木野だけれど、それを抜きにしても胸の発育はいい方だろう。寝ていてもはっきりとわかる曲線を描いている。
膨らみの中腹に指を押しつけ、ゆっくりと滑らせる。きめの細かい、なめらかな肌だった。
先端の突起を軽くつまむ。私よりも少し大きな乳首。左胸の乳輪の縁に、小さなほくろがあるのを見つけた。
そこから指を下へ滑らせる。胸の膨らみを下り、お腹を通り過ぎ、パンツのゴムを指に引っかけ、そのまま下ろしていく。
パンツがずらされ、隠されていた茂みが露わにされても、目を覚ます様子はなかった。両手を使って、完全に脱がしてしまう。
体質的にはヘアは濃い方みたいだけれど、手入れには気を遣っているのか、綺麗に刈り込まれていた。スタイルには自信があるであろう木野のことだから、夏は露出の多いきわどい水着を着ていたのかもしれない。
客観的に見て、綺麗な身体だな、と思う。
滑らかな曲線を描いている、お尻から太腿にかけてを撫でる。無駄な脂肪はなく、しかしほどよく筋肉のついた長い脚をしている。
それを見て不意に思い出した。そういえば、いつだったか、陸上部だと聞いたような気がする。なるほど、アスリートらしい脚だ。撫でていると、柔らかさと弾力のバランスが絶妙だった。
脚を撫でながら、胸に唇を押しつける。
軽く吸って、目を覚まさないのを確認し、今度は跡が残るくらいに強く吸った。
もうひとつ、ふたつ、みっつ。
本人にも見えやすい、乳首よりも上の位置にキスマークをつけていく。
明日の朝、これを見つけたら、いったいどんな反応をするだろう。
想像すると、少し愉快だった。
私もTシャツを脱いで全裸になり、また、木野に抱きつくようにして横になった。
ふくよかな胸に顔を埋める。
肌が直に触れ合う感触が心地よくて、気持ちのいい眠気に包まれていく。
……その心地よい眠りは、明け方、木野の悲鳴で破られてしまったけれど。
私の悪戯に懲りることもなく、木野はその後も頻繁に泊まっていくようになった。
木野が一緒だと、睡眠薬なしでもそれなりに眠れるので、私にとっても悪いことではなかった。独りで部屋にいると、精神状態がどんどん負の方向に傾いてしまう。しかし木野がいれば、本当になにも考えずにただぼんやりとしていられた。
部屋にいても特になにをするわけでもなく、木野としてはかなり退屈なのではないかと思うのだけれど、少なくとも表面上はそんな素振りは見せない。
こうして見ると、彼女も、なにを考えているのかよくわからない人間だった。友達だって恋人だってよりどりみどりだろうに、どうしてここまで私に構うのだろう。
それはわからないけれど、今のところ、彼女の存在はありがたかった。
このところ、早瀬との接触はない。
電話やメールは無視しているし、学校では、木野が鉄壁のガードをしてくれている。
おかげで、私としては比較的心穏やかでいられたけれど、早瀬は不機嫌そうだった。
最近のちょっとした変化といえば、木野が泊まっていった翌日は、〈援交モード〉の姿で登校するようになったことだろうか。
私としてはいつも通りの目立たない格好で行きたいのだけれど、「こっちの方が可愛いから」と、なかば強引に着替えさせられるのだ。
もっとも、木野がつきまとっている今の状況では、容姿を隠さなくても女子に攻撃されることも、男子に言い寄られることもないし、〈本来の容姿〉は既に知られてしまったのだから、元に戻す必要もないのかもしれない。
そうして何日か、比較的平穏な日々を送っていたのだけれど、ある時、ふと気がついた。
このままでは、いずれ、早瀬の怒りが木野に向けられるかもしれない――と。
それはおそらく、誰にとっても好ましい状況ではない。
やっぱり、もう一度、話しをしなければならないだろうか。
しかし、どうすれば私のことを諦めてくれるのだろう。茅萱とでも淀川とでも、さっさとくっついてくれればいいのに。
木野や遠藤と相談して、いい解決策が見つかるだろうか。しかし木野はともかく遠藤は、「付き合えばいいだろう」と言いそうな気がする。
そんなことを考えていた、ある日のこと――
その日は木野の部活が休みということで、一緒に学校を出て、いつもより早い時刻に家に着いた。
一階のホールでエレベーターを待っていると、降りてきたエレベーターからひとりの女性が姿を見せた。
胸の大きな色っぽい女性、客観的に見ればかなり美人だろう。胸元が広く開いた服にミニスカートで、惜しげもなく肌を曝している。
見た目の印象では二十代、ようやく曲がり角を過ぎたくらいにしか思えないけれど、実際には三十代も半ば過ぎであることを私は知っている。
その女性も、私も、微塵も表情を変えずにお互いの存在を無視していた。そのまま通り過ぎようとしたけれど、しかし、木野がおやっという表情を浮かべて、問うような視線を私に向けてきた。
初対面でも気づくくらいに似ているのか、と心の中で溜息をつく。
そんな様子に気づいた女性が、どこか皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「……友達?」
けっして、好意的とはいえない表情。ただし、そのきつい視線は木野ではなく、私に向けられている。
よく見なければわからないくらい小さくうなずいて、それから木野の方を見て言った。
「……母親」
木野は一瞬「やっぱり」という表情を見せると、すぐに愛想のいい笑みを浮かべて挨拶と自己紹介をする。
ママも、木野に対しては親しみやすい笑みで応える。水商売という職業柄、私よりもはるかに外面がよく、人付き合いも上手い。
いつもなら私が帰る前に出勤しているのだけれど、早く帰ってきた今日に限って、向こうは少し遅かったらしい。あまり会いたい人物ではなかったけれど、鉢合わせしてしまった以上は仕方がない。
「……今夜、泊めるから」
「女の子だと、ちゃんと報告するのね」
早瀬を見たことはないはずだけれど、それでも男を連れ込んだことは気づいていたらしい。そんな皮肉を無視してエレベーターに乗ろうとしたところ、
「莉鈴」
背後から、声が追ってきた。その、微妙に固い声音に思わず脚が止まった。
「ちょっと前、しばらく帰ってなかったみたいだけど……あいつのところ?」
「………………ええ」
隠すことでもないので、うなずきながら振り返る。
しかし、ママの顔を見た瞬間、身体が凍りついた。
意味深かつ複雑な表情。
嘲笑っているようでもあり、怒っているようでもあり、責めているようでもある。
普段、見せることのない顔。
その表情を見た瞬間、気づいてしまった。
顔の筋肉が強張る。
全身が総毛立つ。
「…………木野、先に行ってて」
そう言って家の鍵を渡す。精いっぱい平静を装おうとしたけれど、声が震えていた。
ただならぬ気配を感じとったのか、木野はなにも言わずに鍵を受けとり、私の鞄も持って、ひとりエレベーターに乗った。
ドアが閉じるのと同時に口を開く。
「…………いつから、知ってたの?」
「最初から、よ。気づかないとでも思った?」
「さ、――っ!?」
衝撃のあまり、それ以上声が出なかった。
知っていた?
ママは、知っていた?
パパと私の間に、なにがあったのか。
最初から?
全部?
まさか。
「あいつの演技は完璧だったけど、子供のあんたに誤魔化せるものじゃなかったわね。親って、子供が思っているよりも、子供の嘘を見抜くのがうまいものよ? 旅行帰りの浮かれた頭でも、留守中になにかあったことはまるわかり」
射抜くような視線を向けて、ママは言った。
「それでも、まさか……って思った。思おうとした。考えすぎだって。でも、あんたもあいつもいい度胸してるわよね。寝ている私の横でなにやってんのよ。せめて、こっそり隠れてするなら可愛げもあるものを」
「…………」
そんな、まさか。
最初から、気づいていたなんて。
全部、知っていたなんて。
まる五年、そのことを私に気づかせずにいたなんて。
「パパは……知ってるの? ママが、知ってるってこと」
「そりゃ当然、気づいてるでしょ」
「でも……なにも、言ってない」
「気づかれてるってあんたが知ったら、嫌がると思ったんじゃない? タヌキ寝入りしている嫁の傍らで、なにも知らない娘を犯す……そんな倒錯した状況を楽しむため。そういう男だって、知ってるでしょ?」
全身ががたがたと震える。視界が揺れる。
「ま……ママはどうして、これまでなにも言わなかったの?」
「なにを言えって?」
淡泊な口調と、嘲笑うような笑み。
「このドロボウ猫、とか? ガキ相手に、正面から敗北を認めるような真似をしろと?」
そう言った時のママは、母親ではなく、〈女〉の顔をしていた。恋敵を見る目だった。
「それにあんた、ろくに私と口きこうともしなかったじゃない。無感情なふりして、あんたって実はすごい嫉妬深いよね、怖いくらい」
図星だった。
あの夏以来、パパとママが仲良くしている光景は不愉快だった。だから、ママとは距離をおいていた。
ママのことを嫌っていた私。
それは、ママも同じ。
「……ママも……私のこと、嫌いだったんだ」
「ガキのくせに亭主を寝取った女を好きになれ、と?」
「……なのに……どうして……私のこと、引き取ったの?」
離婚した時、ママは自分から、私を引き取ると主張したのだ。パパに押しつけられたわけでも、私が積極的にママを選んだわけでもない。
だけど、今の会話からはその説明がつかない。
どこか残忍な印象の笑みが目に映った。
「理由は、大きくふたつ」
指を二本立てて言う。
「ひとつは、母親としての義務。なんなら愛情と言いかえてもいいわよ? 小学生の娘を、あんな男とふたりだけにさせておけるわけがないでしょう?」
それは、信じられないくらいに至極まっとうな理由だった。直前の台詞と矛盾しているようにすら思えた。
「意外? でも、嘘じゃないわ。私は、あんたほど狂ってないもの。いちおうは、あんたの幸せだって考える。あいつは……遊びのセックスの相手には最高だけど、本気になるべき相手じゃない。ましてや子供でしかも実の父娘じゃあ……さっさと縁を切った方が身のためでしょ」
「そんなこと、言わなかったじゃない! パパと逢うのも、止めなかったじゃない!」
思わず、大声で叫んでしまう。
「……亭主を寝取った女に、そこまで親切にする義理はないわね。大人の義務として、忠告はした。離婚して引き取るって形でね。でも、最後に決めるのはあんたよ。あんたの人生だし、そこまでは知ったこっちゃないわ」
「…………」
どこまでが本音なのか。
どこからが嘘なのか。
まったく判断できなかった。
これまで五年間、私を騙し続けてきた、パパにも負けない嘘つきなのだ。
「……で」
唇が震えて、言葉を発するのもひと苦労だった。
「そ、れで……も……もうひとつの……理由って?」
理由はふたつあると言った。今のが第一の理由だとしたら、もうひとつはなんだろう。
ママの笑みが歪む。
「……さっきとは反対の理由。目的は同じだけれど、動機は真逆。それ以上、聞く必要がある?」
「――っ!」
聞く必要はなかった。
聞くまでもなく、ママの表情で、口調で、一目瞭然だ。
目的は同じ――パパと私を引き離すため。
だけど、動機は真逆――私から、大好きなパパを取り上げるため。
それは、私に対する復讐だった。
「最後にひとつ、いいことを教えてあげましょうか?」
「…………」
いやだ。
聞きたくない。
心底、そう思った。
ママの表情を見ればわかる。それは、聞くべきことじゃない。
なのに唇が動かない。否定の、拒絶の、言葉が出てこない。
「……私も、今でもたまにあいつと逢ってるわ。なんのため、なんて、言うまでもないわよね?」
「――――っ!」
それだけ言うと、ママは短いスカートを翻してさっと回れ右をした。絶句した私を残して、ハイヒールの硬い足音が遠ざかっていく。
なにも、言葉が出てこなかった。
言うべき言葉がないのではない。
逆に、ありすぎて言葉が喉に詰まっているようだった。
拳を握りしめる。
血が滲むほどに唇を噛む。
頭に血が昇る。
息ができない。
泣きたいのに、涙が出てこない。
久しぶりの、感情の昂ぶり。
それは、やり場のない怒りの感情だった。
視界がぼやける。
足元がふらつく。
夢遊病者のようにふらつきながらエレベーターから降りると、家の前、ドアに寄りかかるようにして木野が立っていた。
荷物がないところを見ると、一度、部屋に入ったのだろう。私がなかなか戻ってこないので、迎えに出てきたのだろうか。
私を見て、微かな笑みを浮かべる。しかし、その笑みには力がない。
一目で、なにかあったと悟ったのだろう。笑みは浮かべているのに私を見る目は哀しそうで、気遣うように手を差し伸べてくる。
反射的に、その手を取る。
手と手が触れた瞬間、どういうわけか、今まで出てこなかった涙が一筋、頬を伝い落ちた。
木野の制服を、指が痛くなるくらいに握りしめる。
泣いている顔を見られたくなくて、胸に顔を埋める。
抱きつくようにして、嗚咽を押し殺して、静かに泣いた。
どうしてだろう。
なにが哀しいのだろう。
わからないけれど、涙が溢れてくる。
木野はなにも言わず、私の小さな身体を包み込むように腕を回して、家に入るようにと促した。
素直に従って、肩を抱かれるような体勢で部屋へ連れていってもらった。
ベッドに座らされる。
鞄や、買ってきたお菓子や飲み物は既に運び込んであって、グラスも出してあった。
ペットボトルからお茶を注いで、渡してくれる。
だけど、すぐには口をつけなかった。
手の中のグラスを見つめたまま、顔を上げずにぽつりと言う。
「……口移しで飲ませて、って言ったら、退く?」
「え」
さすがに、驚きの声。
顔を見ると、みるみる朱みを増している。
やっぱり、意外とうぶなようだ。嫌がっているというよりも、ただ恥ずかしがって狼狽えているように見える。
女の子同士、ふざけて軽いキスをするくらいはさほど珍しいことでもないけれど、さすがに〈口移し〉の経験はないだろう。
「……いや?」
まあ、普通なら抵抗あるだろう。だけど私は、今、無性に他人に触れられていたかった。
「いやじゃあ……ないよ、もちろん。……ただ、慣れてないから、びっくりしただけ」
「……今さら、キスくらいなんでもないでしょ。もっとすごいこと、何度もしてるんだから」
「あ、あれはっ、寝てる隙に莉鈴が勝手にやってることでしょーが。誤解を招くような発言しないでよ!」
眠っている木野を脱がす悪戯は、初めて泊まっていった夜以来、恒例のようになっていた。一度眠ってしまうとなかなか目を覚まさない体質らしく、脱がすのもキスマークをつけるのも、それを写真に撮るのも、ほぼやりたい放題だった。
朝、裸で狼狽えている木野を見るのが、最近の愉しみになっている。それでも本気で怒ることなく、また泊まりに来るのだから、相当なお人好しだ。
「……喉、乾いたな?」
本来なら異性相手に使う、上目遣いの甘えた表情。グラスを差し出す。
戸惑いつつも、それを受け取る木野。真剣な表情で、手の中のグラスを見つめている。
もちろん、私としては軽い気持ちでからかっただけなのだけれど、根が真面目な木野は本気で悩んでいるようだ。
グラスを手に持ったまま、ぎこちない動きで隣に座る。
二度、三度、小さく深呼吸。
やがて、意を決したようにグラスの中身を口に含んだ。グラスを置いて、私の顔を見る。
私は小さく微笑んで、軽く上を向く。木野の顔が近づいてきて、息がかかるくらいの距離になると目を閉じた。
唇が、触れる。
その瞬間、私は木野の身体に腕を回して、後ろに倒れるように体重をかけた。
不意打ちにバランスを崩した木野の身体が、覆いかぶさってくる。傍目には、木野が私を押し倒したような体勢になる。
そのまま、しっかりと唇を重ねる。一瞬、狼狽した様子だった木野も、状況を把握すると微かに唇を開いた。
冷たいお茶が流れ込んできて、私の喉を潤す。
それを飲み干しても、私は木野を放さなかった。むしろ腕に力を込めて、舌を伸ばした。
驚いたように身じろぎした木野は、それでも逃げずに身体を重ねたままでいてくれた。
舌を精一杯に伸ばして、木野の口中をくすぐる。木野がおずおずとそれに応える。
舌と舌が絡み合う、柔らかで温かな感触。
身体も密着している。柔らかな弾力が胸に当たる。
木野の身体の重みが心地よかった。
男とのキスよりも、素直に楽しむことができた。
それはおそらく、男のように欲望を丸出しにしていないからなのだろう。〈挿入〉のことを考えずに、ただキスそのものを感じていられた。
長い、長い、キスだった。
腕の力を緩めるまで、ゆうに分単位の時間が過ぎていただろう。
唇が離れても、身体を重ねたまま、ふたりの顔は至近距離にあった。こうしたことに慣れていないだろう木野は、首から耳まで、心配になるくらい真っ赤になっていた。
今のキスのことを話題にするのは恥ずかしいのだろう。少し考えるような仕草を見せた後、あえて別な話題を振ってきた。
「……お母さん……綺麗な人だったね」
「……そうね」
「莉鈴と、似てるよね」
「…………そうね」
確かに、似ている。
私の方がママよりも幼い顔つきと体型ではあるけれど、知らない人が見ても血のつながりがあることがわかるくらいには、基本的な造形は似ている。
それはけっして、私にとっては嬉しいことではないけれど。
「……あんまり、仲よくないんだ?」
「……こんな娘を可愛がる母親がいたら、そっちの方が驚きね」
自嘲的に言う。
なにしろ、自分の夫を寝取った娘なのだ。私が同じ立場だったら、殺しているかもしれない。そうするだけの理由はある。
「仲よくないといえば……早瀬と、喧嘩でもした? 以前のように、ただ無関心を装ってるんじゃなくて、はっきりと避けてるよね」
久々に、木野の口から早瀬の話題が飛び出した。
ずっと触れずにいたけれど、気にしていたのかもしれない。先日、学校で、私の目を避けるようにして早瀬と話しているところも見かけた。
「喧嘩……とは、ちょっと違う気もするけど。……でも、似たようなものかな。私が、他のオトコとセックスしてるところを見て、激怒してた。それとは別に……私も、早瀬に対して、ちょっと許せないことがあった」
獣姦のこと、淀川のこと。だけど、今、早瀬を避けているのは、それが原因ではないような気がする。
自分でもよくわからない。パパとのことを知っても私を見限らない早瀬に対して、どう接していいかわからないのかもしれない。あるいは、今の身体のことをどう伝えるべきか、迷っているのかもしれない。
木野の表情が微妙に曇る。
「他の男とセックスしてるところって……ひょっとして、DVDのこと?」
「DVD?」
なにを言われたのか、すぐにはわからなかったけれど、やがて、以前感じた違和感の正体に気がついた。
すっかり忘れていた、早瀬の鞄に入れられていたDVD。
こんな近くに答えが転がっていたなんて。
木野との会話にもっと注意を払っていれば、もっと早くに気づいていたはずなのに。
木野が初めてうちに来た日に感じた違和感――どうして木野は、私が、カメラの前で自慰をしたことがあると知っていたのだろう、と。
あの時、もう少し考えていれば、その時点で真相にたどり着いていたはずだった。
「…………早瀬のバッグにDVDを入れたの、貴女?」
うつむいたまま、小さくうなずく木野。
「……説明して、くれるかしら? どうやって手に入れたのか。どうしてあんなことをしたのか」
AVに出演していることは知っていても、具体的にどの作品になんて話したことはないし、もちろん、見せたこともない。だから、これまで木野が犯人だなんて考えもしなかったのだ。
木野の顔が、また朱くなっていく。
「……莉鈴と……会う前から、知ってた。DVDのこと」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「あたし……大学生の兄貴がいるんだ。今年の春休み……高校の合格も決まってヒマをもてあましてた時、兄貴が持ってるエッチなDVDを物色して……。ほら、そういうの、興味ある年頃じゃん? その中に、莉鈴のDVDがあった」
「……そう」
いつも通りの抑揚のない声で返したけれど、予想外の答えだった。
入学式の日に私と出会った時には、私のことを知っていたなんて。
「……びっくりした。あたしより年下にしか見えないこんな可愛い子が、こんなすごいことするなんて……って。すごくいやらしくて、でも、すごく綺麗で可愛くて……心底、惹かれた。特に、その目に」
「……目?」
「AVの中で、笑っている顔も、泣いている顔も、全部、演技だって思った。だけど、その目が…………すごく、印象的だった。すごく、不思議な瞳だった。その目の内側に、なにもない虚空が広がっているような、そんな目だった。いったい、なにを見ているんだろう、なにを感じているんだろう、って思った」
告白する木野の表情は、とても切なげだった。
「その目に……すごく、惹かれた。なんだろう……もう、わかりやすく言えば、ひと目惚れだった」
「……貴女、レズ?」
「……そうかも」
茶化すつもりが、返ってきたのは肯定の返事だった。
「昔は、そんな自覚もなくて、言い寄ってきた男と付き合ったりもしてたけど……あんまり、楽しいとか気持ちいいとか感じたことなかったし。むしろ、可愛い女友達と一緒にいる方が楽しかったし」
「…………」
少し意外な想いで、木野の顔を見つめていた。これまで木野が同性愛者だなんて考えたこともなかったけれど、同じ同性好きであっても、みーことはずいぶんタイプが違う。
「……で、入学式の前の日、街で、中年男性と腕を組んで歩いている、莉鈴を見かけた。すぐにわかった。あの、DVDの子だって。近所に住んでるんだって、びっくりした」
「……うん」
「そしたら、次の日、もっとびっくりした。前の席にその子が座ってるんだもの。外見や雰囲気を変えていてもすぐにわかったよ。目が、同じだったもの。……嬉しかった。友達に……いちばんの友達になりたいって、思った。私よりも他の人と、特に男となんか仲よくしちゃいやだって、心底思った」
泣きそうな表情で話し続ける木野。こんな真摯な告白を受けたのは初めてかもしれない。
「……だから、援交の噂が広まるように仕向けた?」
無言でうつむいたのは、肯定の証だろう。噂が広まったのは、木野がきっかけだった。けれど木野だけは、その後も普通に私に接していた。
「ゆきずりの援交なら、別に、よかった。莉鈴のことを本当に理解してあげられるのは私だけだって、自惚れていられた。でも、早瀬は……噂になる前にすぐに気づいたよ。いつも、莉鈴のこと見てたから。そして、単なるゆきずりの関係とはなにか違うと思った。嫉妬、した。……それで、あんなこと……」
「…………そう」
これで、納得できた。
ずっと、疑問だった。DVDの件以前から。
教師という義務を抱えた遠藤と違って、木野が私に関わる理由が謎だった。
もしも私が普通の感性を持っていれば、あるいはすぐに気づいたのかもしれない。木野が、私に対して単なる友情以上の好意を持っているのだと。
しかし、他人の好意というものを本能的に拒絶していたために、気づけなかった。
「莉鈴のこと、独り占めしたいとか思ったのは事実。だけど……それだけじゃない。あたし、莉鈴のことが好き。だから、莉鈴には少しでも笑っていて欲しい、幸せになって欲しい。莉鈴のこと、幸せにしてあげたい。笑っている莉鈴の傍にいたい。だけど、莉鈴ってば……そういうこと、全部、自分から拒絶しちゃう。あたしのことも、遠藤センセのことも、早瀬のことも」
木野が抱きついてくる。私にしがみつくようにして泣きだした。
「でも、違う。莉鈴ってば、人形よりも感情のないような顔をして、自分を傷つけて…………でも、本当は泣いてるんだ。自分でも気づかないくらい、心の奥深いところで泣いてる。助けてって、泣き叫んでる!」
泣きながら、必死に訴える木野。
対照的に、私は必要以上に醒めた表情になる。
「……そう。……私のこと、よくわかっているのね……私より」
「……わかるよ。莉鈴は……なにも、見てない。見ようとしてない。だけどあたしは、ずっと、莉鈴のこと、見てた」
確かに、私はなにも見ていなかった。こんなにも私のことを見つめて、想っている人がいることも、なにも気づいていなかった。
「あたしは……それに遠藤センセも、早瀬も、みんな、莉鈴のこと好きなんだよ。莉鈴は、もっと幸せになっても……幸せになろうとしても、いいんだよ」
「幸せ……ねぇ」
抑揚のない声でつぶやく。
その顔からはいっさいの表情が消えていた。
「……私には、幸せになる資格なんて……ないから」
「そんなことない、そんなことないよ……」
私にしがみついて、泣きじゃくる木野。木野が激しく泣くほどに、私の心は醒めていく。
それはおそらく、自分の心を守ろうとする防衛本能の表れだ。無機的な態度を装っていなければ、泣き出してしまいそうだから。
木野の気持ちは、想いは、わかる。
いい人だと想う。
もしも私が〈普通〉だったなら、こんな友人を――あるいは同性の恋人でも――持てたら、幸せになれただろう。
だけど――
私には、その想いを受け入れる資格がない。
幸せにはなれない。
なってはいけない。
私は、償うことのできない罪を背負っているから――。
「……木野、私のこと、好きなんだ? じゃあ……セックスでも、する?」
これ以上、木野の真摯な想いにさらされ続けるのが辛くて、茶化すように言った。全部、冗談で済ましてしまいたかった。
だけど木野は首を左右に振った。
「……しない。今は、しない。自分を傷つけるためにセックスする莉鈴とは、したくない。莉鈴の自傷の手伝いはしたくない。莉鈴が幸せになって、好きな相手とするようになったら……したい。だから……今は、これでいいや」
腕が、身体に回される。
包み込むような抱擁。
木野の温もり。
それは、私にとっても心地よいものだった。
抱き合ったまま眠った翌朝――
「あたしは、諦めない」
木野は、妙に吹っ切れた表情で宣言した。なんとなく、早瀬とセックスした後の茅萱を思い出す顔だった。
「莉鈴は、もっと、幸せになってもいい。ならなきゃだめ。だから、どんなに時間がかかっても、少しずつ、莉鈴を変えていく。変えてみせる」
「……前向きなのね」
私にとっては眩しすぎるほどに。
だけど、彼女の決意は徒労に終わるだろう。
もう、そんな時間は残されていない。
私には、破局への、避けようのない道筋が見えている。
そのことを説明するべきだろうか。
私の過去を、そして、このお腹の中に在るもののことを話したら、どんな反応を見せるのだろう。
だけど、これ以上木野を悲しませたくはなかった。いずれはすべて話さなければならないのかもしれない。だけど、それは今じゃない。
たぶん、なにも言わずにいきなり姿を消すのが最良の選択だろう。
「……話しを、しようよ。いっぱい。あたしとも、遠藤センセとも、……それに早瀬とも。少しずつでいい。それですぐに変わらなくてもいい。だけど絶対、なにか変わるはずだよ」
もしかしたら、そうなのかもしれない。
もっと早くに……小学生の時に、あるいはせめて中学時代に、木野や遠藤のような人間が身近にいたら、状況は変わっていたのだろうか。
そうかもしれない。
だけど、そうじゃないかもしれない。
もう、手遅れだ。
償いようのない罪というものは、確かに存在する。
それがある限り、なにも変わらない。変えられないのだ。
木野はその日から、早瀬を私から遠ざけるという任務を放棄し、手のひらを返したように逆の行動をはじめた。
放課後、最近いつもそうしているように、木野と一緒に帰ろうとしたら、部活があるからと断られ、あまつさえ早瀬に押しつけたのだ。
「部活なんかさぼって、責任もって送っていってあげて。でも、泣かすようなことしたらコロス」
釘を刺すことは忘れない。
そして、私に向かって言う。
「逃げてるだけじゃ、なにも終わらない。変わらない。莉鈴……小五の時から、ずっと、逃げ続けてる。それじゃだめ」
一瞬、身体が硬直した。
どうして、小学五年生の時のことを知っているのだろう。
私は話していない。だとすると、早瀬が話したのだろうか。
木野の裏切りに対して、思わず頬を膨らませた。自分でも意外な態度だった。男の前で演技しているわけでもないのに、そんな子供っぽい怒り方をするなんて。
「……おせっかい。もう、手遅れだって言ったでしょ」
「そんなことない。莉鈴がどう思っていても、あたしにとってはまだ終わりじゃない。言ったでしょ、諦めないって」
「……」
小さく溜息をつく。
今の木野になにを言っても無駄だろう。
ちらりと早瀬を見て、そのまま、無言で歩き出した。
早瀬が後をついてくる。
表情を抑えた顔で、隣には並ばず、斜め後ろを歩いている。その状態は学校を出るまで続き、しばらく歩いて周囲の目がなくなったところで、ようやく隣に来た。
「北川……」
「黙っていて」
口を開きかけた早瀬に、ぴしゃりと言い放つ。
今は、早瀬と会話をしたい気分ではない。
「……私がいいって言うまで、黙っていて。あなた、しつけのできてない駄犬? 行儀よく〈待て〉ができたら…………なにか、ご褒美があるかもよ?」
「……わかった」
早瀬は小さくうなずいて、それきり口をつぐんだ。
自分のペースでゆっくりと歩き続ける私が、本来の帰路から外れても、なにも言わずにただ黙ってついてくる。
学校から自宅へ向かうルートとは、方角が九十度違う。普段、歩くことのない道。もう何年も歩いていない道。そのため記憶と実際の光景にはずいぶん齟齬があったけれど、それで道に迷うほどではない。
しばらく歩くと、川が行く手を遮っていた。
けっこう大きな川だ。河川敷は公園化されていて、遊歩道も整備されている。
ここを訪れるのは、何年ぶりだろう。いつもなら、けっして近寄らない、想い出すことすらない場所だった。
土手の上に立つと、息が苦しくなってきた。
遊歩道をゆっくりと歩く。
脚が震える。
全身から脂汗が滲み出る。
胸が痛い。まるで、心臓を鷲づかみにされているようだ。
ふらついて、倒れそうになる。早瀬が無言のまま、背後から支えてくれる。
「……どこか……座れるところ」
もう、これ以上歩くのは無理だった。ここを訪れれば心穏やかではいられないだろうと予想していたけれど、ここまでひどいとは思わなかった。
黙っていろという命令を律儀に守って、早瀬は無言のまま私を抱え上げる。少し歩いた先にある、ベンチのある東屋へと連れていって座らせてくれた。
無言を貫いている早瀬が、近くにあった自販機を指さす。「飲み物がいるか?」という意味だろう。
「……もう少し、融通は利かないのかしら? 黙っていろっていうのは、いつもの、不愉快になるようなことを言うなって意味よ」
棘だらけの台詞にも、今は力が入らない。
微かな苦笑が返ってくる。
「でも、北川ってなにがきっかけで起源損ねるのか、よくわかんねーしな。……ココア……はないか。コーヒーでいいか? ミルク入りの」
「……まずい缶コーヒーなんて飲みたくないわ。……コーラでいい」
「ん」
早瀬はコーラを買ってくると、缶を開けて渡してくれる。
ひと口飲んで、大きく息を吐き出す。今の体調には、炭酸の刺激と爽やかさが多少なりとも救いだった。
早瀬は隣に腰をおろそうとはせず、前に立って私を見おろしている。
もう一度、深呼吸。
早瀬から視線を逸らし、静かに流れている川を見つめる。
あの時と、変わらない風景。
ここに来ると、想い出してしまう。想い出したくないことなのに、けっして忘れることはできない。
空を見あげる。
今にも雨になりそうな、どんよりと曇った空。
あの日も、そうだった。
ここは、子供の頃、好きだった場所だった。出かけて家に帰る時、よく、遠回りしてこの河川敷を通ったものだ。
あの日も、そう。
天候同様、体調もなんとなくよくなかったけれど、いつものように遠回りして、やっぱり途中で雨が降り出して、慌てて走り出して……
「……っ!」
不意に、飲んだばかりのコーラを吐きそうになった。
手から缶が落ちる。
石畳の上に転がった缶から流れ出した液体が、一瞬だけ泡立って広がっていく。
その光景が、また、忌まわしい記憶を呼び覚ます。
視界が紅く染まっていくように感じた。
意識が遠くなりかける。
「だ、大丈夫か?」
慌てて、早瀬が手を差し伸べてくる。
もう、限界だった。今にも倒れてしまいそうだ。
「……横になって、休めるとこ……」
歯が鳴る。全身が震えている。寒いわけでもないのに震えが止まらない。
視界が霞む。
やっぱり、ここに来るのは無理だった。
そもそも、どうして来てしまったのだろう。もう何年も近寄らなかった、近寄れなかった場所なのに。
どうして、早瀬を連れてきてしまったのだろう。
「……俺んち、行くか?」
早瀬に抱き上げられる。その腕の中で、首を左右に振った。
「……嫌。もう、あなたの部屋へは行かないって言ったでしょう」
「じゃ、北川んち?」
「……あなたを部屋に入れるなんて嫌。それに、遠いわ」
ここからだと、早瀬の家よりもさらに遠くなる。
私の家より、早瀬の家より、もっと近くて休める場所がある。早瀬だってわかっているはずなのに。
その単語を口にすることを、あえて避けていたのだろう。渋々、といった口調で言った。
「そうなると…………ホテルか?」
「……そうね、妥当なところだわ」
この河川敷からそう遠くない距離に、いくつかのラヴホテルがある。
やや複雑な表情を浮かべながらも、早瀬が歩き出した。
「体調、悪いのか? 学校ではそんな感じじゃなかったけど」
「……別に」
「なら……精神的な問題?」
「あなたがそばにいるから、かもね」
そう言うと、少しだけむっとしたような顔になったけれど、特になにも言い返してはこなかった。
私の体調を気遣っているのか、揺らさないように気をつけて、早瀬にしては比較的ゆっくりと歩いていく。
「この場所……なにか、あるのか?」
「……どうして、そう思うの?」
「これまで来たことのない、こんな場所に、今日に限って連れてきて……ここに来ると同時に具合悪くなって……、なんかあると思うだろ、普通」
「……がさつな割に、よく見てること」
確かに、純粋に場所の問題なのだろう。早瀬に抱えられて河川敷から離れるに従い、少しずつ気分はましになってきた。
最悪の状態は脱して、これなら、少しくらいは愉快ではない会話をしても大丈夫かもしれない。
「……ねえ、早瀬?」
「なんだ?」
「……あなたにとって、これまでの人生でいちばん……辛かった、あるいは苦しかった出来事って、なに?」
「…………」
唐突な質問に、答えが返ってくるにはしばらく間が空いた。
「北川に……犬以下って罵られたことかな」
答える声は、しかし、あまり真面目な風ではない。
「……つまらない冗談聞く気分じゃないんだけど?」
低い声でそう言った時には、気づいていた。何故、そんな冗談で誤魔化そうとしたのか。
「いや、でも…………姉貴のことだけど、いいか?」
「……ええ」
淀川は、以前、私が激怒したきっかけだから、話題にするのを避けようと思ったのだろう。しかし今は、そんなことで怒るほどの情熱もない。
早瀬が再び口を開くまでに、また、少し間があった。
「……姉貴の顔、目の下に傷痕があるだろ? ……あれ、俺がやったんだ」
「……そう」
それは既に知っていることだった。淀川から聞かされていた。
とはいえ、その詳しい経緯は知らない。淀川は、早瀬につけられた傷だ、としか言わなかった。
「姉貴は、昔からずっとあんな性格でさ。俺のことなんて、なんでも言うこときく下僕くらいにしか思ってなかったんだ。俺も、ガキの頃からずっとそんな扱いだったから、むかついても逆らうこともできなくて……」
それも一種の〈刷り込み〉だろうか。早瀬と淀川の年齢差は四〜五歳というところだろう。今ならともかく、早瀬がものごころつく三〜四歳の頃にこの差は大きい。
「……でも、中二の時、ちょっとしたきっかけでついにブチ切れて、思わず本気で殴っちまったんだ。その頃だって、体格差は圧倒的だったから、姉貴は一発で倒れて、その時に顔をぶつけて切ったのか、すごい出血して……そのまま動かなくなって……死んだかと思った。床に広がっていく血溜まりを見ながら、なにもできずに固まってた。すごく、怖かった」
「…………そう」
なるほど。
それで納得がいった。
早瀬が、どれほど激怒していても女子に手を上げないのは、そのトラウマのせいなのだろう。
「結局……、大事には至らなかったんだけど、それでも何日か入院して、傷痕も残った」
「……そんな目に遭っているのに、淀川が今でもあの態度っていうのが驚きね」
怖くはないのだろうか。その気になれば、自分を一撃で殴り殺せる弟が。
――いや。
きっと、怖いのだろう。怖いからこその、あの態度なのだ。恐怖の裏返しとして、必要以上に強気な態度を崩せないに違いない。
以前読んだ、淀川のマンガを想い出す。
肉親に力ずくで陵辱される女の子たち。
あれらの作品には、やっぱり実体験が影響しているのではないだろうか。弟に対する恐怖心が形になったものではないだろうか。
本人は「近親ものは受けがいいから」などと言っていたけれど、そんな上っ面だけではない、もっと根深いなにかが感じられる作品だった。
「そりゃあ……まあ……病院で、意識が戻ると同時に、土下座して謝ったからな」
「……もう絶対にお姉さまには逆らいません、って?」
冗談のつもりで言ったのだけれど、返事が返ってこないところを見ると、当たらずとも遠からずかもしれない。
だけど――
早瀬は、自分がしでかしたことに怯えつつも、その裏で興奮もしていたのではないだろうか。
自分を虐げる絶対君主に対する反抗――タブーだからこそ、禁忌だからこそ、昂っていたのではないだろうか。
そして、実際にそうすることができない代わりに、姉に雰囲気が似ていた私を身代わりにしたのではないだろうか。
そう考えると、最初の時の豹変ぶりも納得できる気がした。早瀬の、押さえつけられた暴力性のはけ口が、私なのだ。
「北川……前に、俺が、姉貴のことが好きだって言ったよな?」
「……ええ」
それは間違いないだろう。今の話しを聞いて、確信はさらに強まった。
「…………ごめん、それ、たぶん本当だ」
早瀬もついに、口に出して認めた。
「……はっきり自覚してたわけじゃない。普通にいう恋愛感情とも違うと思う。……だけど、あんな傍若無人な奴なのに……俺のことなんか、それこそ犬くらいにしか思っていない奴なのに……嫌い、じゃないんだよな。……なんか、やっぱり、違うんだ」
「……淀川のこと……オカズにしたこと、ある?」
「………………ああ」
「興奮、した?」
「…………………………ああ」
さすがにもう、取り繕おうとはしなかった。事実は事実として、認めた。
「……なるほどね。誰よりも欲情するけれど、だけど実際には絶対に手を出せない相手。それで悶々としていたところに、たまたま、ちょうどいい代用品が現れたというわけね」
「いや、ちょっと待った。それについては、ちゃんと弁解させてくれ。一度でいい、最後まで話しを聞いてくれ!」
「…………」
沈黙は、気が進まない承諾の意思表示だった。
私にとってはあまり愉快な会話ではないのだけれど、仕方がない。もともと今日は、早瀬と一緒に帰ることを受け入れた時点で、話しをするつもりではあった。
最後に一度、きちんと話しをつけておいてもいいだろう、と思った。それに、木野への義理もある。
「えっと……まず、北川のことを意識したのは、あの日が初めてじゃないんだ。……入学間もない頃から、北川のこと、気になって見てた」
「……」
意外な発言に、思わず早瀬の顔を見た。私の方は、あの雨の日まで早瀬とは言葉を交わした記憶もないのだ。
「きっかけは、やっぱり……姉貴とちょっと雰囲気が似てたから、だと思う。当時ははっきりとそう意識していたわけじゃないけど、今になって思えばそんな気がする」
「……そう」
「だけど北川は、いろいろと普通の女の子じゃなかったから……だからこそ余計に気になってはいたんだけど、なんか、声もかけづらい雰囲気でさ」
「…………」
ひとつ、納得がいった。
最初の日、少し疑問に感じていたこと。
あの日の私は、学校にいる時とまったく違う姿で、しかも濡れ鼠だった。なのに、それまで一度も会話をしたこともない早瀬が、すぐに私だと気づいた。
その相手が〈言葉を交わしたこともない単なるクラスメイト〉ではなく、〈好きな女性に似ていて気になっていた女の子〉であれば、あり得る話しだ。
「で、あの日は……たまたま北川が家の前を歩いていて、思わず声をかけて……。その後のことは、ホントに、わけもわからないままだった。気になっていた可愛い女の子に、あんな風に無防備に誘惑されて……断れるわけないだろ?」
「……でしょうね」
男の真理としては当然だ。こちらも、そのつもりで誘惑したのだ。
「わけもわからないまま、夢でも見てるんじゃないかって気分でエッチしてしまって……その時は、姉貴のことなんてまったく頭になかった。だけど……一度終わって、北川が口でしてくれていた時……なんか、急におかしくなっちまって……。わけもわからない衝動に駆られて、乱暴なことしちまった…………でも、それが、すごく興奮したんだ。それも、単なる性的な興奮ともなにか違う……征服感とでもいうのかな? ……後から冷静に分析してみれば、やっぱり……無意識のうちに、姉貴と重ねて見てたんだろうな」
ゆっくりと話しながら、それに合わせるようにゆっくりと歩いている早瀬。
ここまで抱えられてきたけれど、川から充分に離れたところで、下ろしてくれるようにと促した。
自分の脚で立ち、歩く。それができる程度には回復していた。
無理はせず、狭い歩幅で、ゆっくりと歩いていく。早瀬もペースを合わせてくれる。
私がちゃんと歩けているのを確認して、また、話しを続ける。
「……でも、その後は……本当は、もっと優しくしてやりたかったんだ。そして……その……援交とかリスカとか、やめさせられたらいいなぁ、とか、思ってた」
ふっと、私の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
「……心を閉ざした荒んだ女の子を、愛の力で更生させるって? まるで、古くさい少女マンガみたいな発想ね」
ありがちな話しではある。しかし、歪んだ心を矯正するのは、そんな簡単なことではないのが現実だ。
「……俺はまだガキだったし、北川のこと、まだよく知らなかったし……噂はちょっと大げさになってるだけじゃないかとか、優しく接してやれば心を開いて俺にだけは笑いかけてくれるようになるんじゃないかとか、そんな夢見たって仕方ないだろ?」
「……出来の悪いギャルゲーみたいな話しね。でも、そんなことを考えていた割には、いつも乱暴だったこと」
「それは……やっぱり……、いざはじまると変なスイッチが入るみたいで……それに、北川はいつもすごい挑発的だし……」
「……当然でしょう。乱暴にして欲しかったんだもの」
だからこそ、どうすれば早瀬の〈スイッチ〉が入るかを把握し、そこを確実に突くようにしてきたのだ。
「何度も逢って、少しずつ北川のことがわかってきて……。こいつは姉貴じゃない、ちっちゃくて、可愛くて、傷つきやすい女の子なんだ――って、自分に言い聞かせてるつもりだった。北川に乱暴なことしたって、姉貴に対する復讐にも愛情表現にもならないって。……だけど、やっぱりあんな風になっちまうんだよな……」
「よっぽど、淀川に対して欲情してたのね」
「違う、そうじゃない!」
そこだけ、急に声が大きくなる。
「そうじゃないんだ。……いつの間にか、姉貴の身代わりとしてじゃなくて、北川本人に対して欲情して、乱暴してたんだ、俺は」
「…………」
「……北川のことを、北川自身を、好きになってたんだ。自分のものにしたいって、思うようになってた。だけど北川は、俺のことなんか構わずに他の男ともやっていて……それがすごくむかついて……だから、つい、他の誰よりも激しく、他の誰よりも北川のことをめちゃめちゃにしたい、って……」
早瀬の顔が怒りに歪む。拳が握られ、腕の筋肉が盛り上がる。その怒りは、自分に……ほんの少し過去の自分に向けられたものだろう。
「……くそっ、やっぱりちょっと歪んでるな、俺」
「……結局、根はSなのよね。…………で、そろそろ、自分の考えの甘さに気がついたかしら?」
「ああ、思い知らされたよ。……北川の傷がどれほど深いものか、人ひとり救おうとするのがどれほど大変なことか。……きっと、インターハイで優勝する方が楽だな」
「……理解してもらえて嬉しいわ」
感情のこもらない声で言う。
これでもう早瀬には煩わされずにすむ――そう、思った。
だけど。
早瀬の目には、まだ、力強い意志の光が感じられた。
「だけど……諦めない。諦めなければ、きっと、可能性はゼロじゃない」
「…………」
少し、驚いた。
いったい、どこまでしつこいのだろう。本当に私のことを理解しているのだろうか。
「……あなたといい木野といい、どうしてそうなの? 諦めが悪いというか……ううん、無駄に楽天的よね」
「そりゃあ、そうだろ。諦めずに頑張っていればなんとかなるって、そう思ってなけりゃ、陸上にしろ柔道にしろ、競技なんてやってられないさ。練習も試合も苦しいけれど、頑張ってそれを乗り越えれば大きな喜びが待っている……そう思えば、耐えられる」
アスリートという人種は、みんなこうなのだろうか。
「……だけど北川は…………、その先になんの救いもないのに、苦しい思いをし続けてるんだよな。それがどんなに辛いことか……最近ようやく、わかりかけてきた」
切ない、しぼり出すような声。そして、哀しそうな目。
早瀬のこんな表情を見たのは、初めてかもしれない。
「今日は、今までになくたくさん話してるよな。……もっと早くから、こうするべきだった。けど、俺は、逃げてたんだ。北川の機嫌を損ねることが怖くて……それ以上に、北川の、俺が見たくない部分に触れるのが怖くて。……でも、もっともっと話しをして、わかろうとするべきだった。そうすれば……少しずつでも、変わっていけるはずなんだ。遅くなったけど、今からでも、そうしていきたい」
遠藤も、木野も、そして早瀬も、私のことを理解しようとし、そして、理解しはじめている。
だけど、ひとつ、大きな思い違いをしている。
今日、珍しく私がこうした会話をしている理由。
それは、心を開いて、少しでもいい方向に変わろうとしているのではない。
もう、手遅れだから。
もう、終わりだから。
ある意味、遺言みたいなもの、かもしれない。
「俺、北川のことが好きなんだ。だから……ただセックスできればいいっていうんじゃなくて……もっと、普通の恋人のような関係になりたいんだ」
「……普通の恋人って、なに?」
〈普通〉を小馬鹿にしたような口調で言う。
「……毎日メールや電話したり、一緒に登下校したり、カラオケやファーストフードで時間を潰したり、休日は映画や遊園地で遊んだり、あなたの試合を応援に行ったり、高校生っぽい普通のセックスしたり?」
早瀬がうなずく。
「……私の性格がそういうのに向いていないって、まだ、ちゃんと理解していないの? 〈普通〉の高校生の恋愛がしたいなら、茅萱としなさいよ」
〈普通〉も〈恋愛〉も、私には縁のない単語だ。そんなものを私に求めるのは間違っている。
「北川の性格は、そんな単純なものじゃないだろ。学校や俺の前で見せる無機的な性格は、北川のほんの一部……それも意図的に作ったものでしかない。たとえば、父親の前で見せたような性格なら、〈普通〉のデートも楽しめるんじゃないか? そして俺は、彼女にするならカヲリよりも北川がいいんだ」
「……」
小さく溜息をついて、なんとなく空を仰ぎ見た。
低く厚い雲が空を覆っているけれど、まだ雨は落ちてこない。
「……もしも私がもっと〈普通〉になったとして……それであなたを選ぶ保証はどこにもないわよね? 私の好みはもっとイケメンかもしれない。もっと線の細い優男かもしれない。あるいは、パパのことを抜きにしても大人が好きかもしれないわよ?」
「そこは……まあ、俺の努力次第だよな。少なくとも、可能性はゼロじゃない」
「……ホント、楽天的だこと」
「少なくとも……親父さんを別にすれば、北川にとって多少なりとも特別な存在だって思うのは……自惚れじゃないよな?」
「…………」
認めるのは癪だけれど、それは事実だった。
パパを除けば、早瀬ほど何度も逢った男はいない。
早瀬ほど激しく何回もしてくれる男はいない。
早瀬ほど大きな男はいない。
肉体関係を持ったクラスメイトも、同い年の男も、早瀬だけ。
こんな会話をした男も、他にいない。
他の男なんて、その大半は顔も覚えていない。何回か会ったことのある相手だって、回数は片手で数えられる程度だ。
確かに、早瀬は他の男たちとは違う。それは否定できない。
だけど、決定的な認識の違いがある。
私にとっては、可能性は〈ゼロ〉なのだ。
存在しない未来の可能性を語るのは無意味なことでしかない。
「……だから、もっと、話しをしよう。北川のこと、もっと、知りたい」
早瀬が強い口調で言った時には、いつの間にかホテルの前に着いていた。
もう、横にならなければ耐えられないほど具合は悪くなかったけれど、そのまま脚を進める。
会話を続けるにしても、立ち話は疲れる。せめて腰は下ろしたい。
それに室内で二人きりになれば、早瀬に会話を打ち切らせることも簡単だ。
「今日は、することよりも話すこと優先な」
自動ドアをくぐりながら、早瀬が釘を刺す。その決意はいつまで続くだろう。
部屋に入るなり、ごろりとベッドに横になった。早瀬は用心しているのか、距離を空けてソファに腰を下ろす。すぐ傍にいたら、話どころではなくなる自覚があるのだろう。
「……恋人なら、こうした場所で会話する時は寄り添うものじゃないの?」
仰向けに寝転がって、脚だけを持ち上げる。スカートの裾がまくれて、下着が見えそうになる。
もちろん、早瀬を誘うための意図的な動きだ。
「まだ、恋人じゃねーし。それに、北川のフェロモンの威力は、誰よりもよく知ってるからな」
座ったまま、動こうとしない。
今日の早瀬はなかなか手強いようだ。次の手を考える。
「……喉、乾いたわ」
私の意図を悟ったのか、早瀬が微かに苦笑する。それでも立ち上がって冷蔵庫を開けた。
「なにがいい?」
「……ビール」
早瀬の表情が微妙に変化する。眉間に皺を寄せたようにも見えるけれど、未成年の飲酒を咎める顔とも違う。
「酒、飲むんだ?」
私が飲酒することを意外に感じての表情だったらしい。そういえば、早瀬の前でアルコールを口にするのは初めてかもしれない。
早瀬の家で、アルコール飲料を出されたことはない。いまどきの高校生ならお酒くらい悪戯していそうなものだけれど、アスリートということで身体には気を遣っているのかもしれない。
「飲むわよ。……少し、ね」
それほど量を飲むわけではないけれど、パパに限らず〈デート〉の時にはお酒を口にする機会が多い。実際のところ、アルコールよりも〈クスリ〉で酔っていることの方が多いのだけれど。
しかし実をいえば、ビールはあまり好きではない。いちばん好きなお酒はパパが飲ませてくれる高級な甘口ワインで、安物なら甘いフルーツ味のカクテルやチューハイだ。今日、ビールを選んだのはちょっとした気まぐれだった。
早瀬は冷蔵庫からビールを取り出し、缶を開けて差し出してくれる。だけど私は横になったままで、受け取って飲める体勢ではない。そんな私を見おろしていた早瀬は、少し考えて私の身体を起こすと、クッション代わりの枕を背中に置いてくれた。
もう一度、ビールが差し出される。
その手に触れて、軽く握る。誘うような笑みで早瀬を見上げる。
やや狼狽えた表情になる早瀬。
「……あなたの自制心もたいしたことないわね。冗談よ。今日は、話しをするのでしょう? 私としては、話し以外のことでも構わないのだけれど?」
「…………」
一瞬、迷ったのかもしれない。しかし早瀬は私の手に缶を押しつけると、距離を置いてベッドの端に腰かけた。
ビールを口に運ぶ。
ひと口、飲む。
苦い。
炭酸の刺激も強すぎる。
この味、好きではない。
だけど、飲む。
パパはどうして、こんなものを美味しそうに飲むのだろう。セックスが終わってシャワーを浴びた後、いつも飲んでいる。
我慢しながら半分ほど飲んで、残りを早瀬に渡した。
早瀬は反射的に缶を受けとったものの、どうしたものかと迷っている様子だ。目で促すと、意を決したようにぐいっとひと息に飲み干した。
そんな姿を見ながら、制服のリボンを解く。
スカートを脱ぐ。
ブラウスのボタンを外していく。
「な、なんでいきなり脱ぐんだよっ?」
早瀬が必要以上に狼狽える。
「……こういう場所にいて、脱ぐ理由を訊くの? 逆ならともかく」
答える間も手は止めない。ブラウスを脱ぎ捨てる。
「今日は、話しをするって言ったろ」
「……裸でも、話しはできるわ」
しかし、裸になった私を前にして、早瀬は我慢していられるだろうか。最後にしたのは初体験の話しをした時だから、なんだかんだでもう三週間くらいは経っている。
私との関係がはじまって以来、セックスの間隔は最長でも十日程度だ。ここまで間が空いたことはない。彼の性欲の強さを考えれば、今まで我慢できたことの方が不思議なくらいだ。
そして、私も。
パパに監禁されていた時以来、誰ともセックスしていない。
こんなに長く間が空いたのは、バージンを失って以来、初めてではないだろうか。
このところ、性欲も自傷の衝動も薄れていたけれど、意識してしまうとしたくなってしまう。
ブラジャーを外した。
パンツも下ろす。
ニーソックスも脱いで、一糸まとわぬ全裸になった。
そして、立ち上がる。
早瀬の正面に立つ。
まっすぐに見つめる。
「……久しぶりに見る私の身体、どう?」
「綺麗だ、すごく……だから、ストップ!」
一歩踏み出すと、慌てて手で制した。
それに構わずに、もう一歩。ゆっくりと近づいていく。
「……溜まってる?」
「ああ……すごく」
さらに、もう一歩。
「……もう……大きくなってる?」
「……ああ」
すぐ目の前に立つ。
「……私がいない間、茅萱とかと、しなかったの?」
「す、するわけねーだろ!」
「茅萱……迫ってこなかった?」
「……や……それは……」
即答を避け、困ったような表情を見せる。
そんな反応を見るまでもない。開き直った今の茅萱が、私がいない時になにも行動を起こさなかったとは思えない。
「……しても、よかったのに。別に、怒らないわ」
「そうか? 北川って、好きな相手に対しては、実はかなりやきもち妬きだろ?」
「だから、あなたに対しては怒らないって」
「…………それはそれで凹むし」
だけど、それが事実。
相手が茅萱なら、きっとやきもちなど妬かないだろう。それは、〈私の代わり〉だから。もしも相手が淀川だったなら、その場合は不愉快だったかもしれない。
「……じゃあ……性欲処理は、自分で?」
「……ああ」
隣に腰を下ろし、早瀬に密着して寄りかかる。
手を伸ばして、膨らんだ股間にそっと触れた。早瀬は抗わなかった。
「……それで、よく満足できたわね」
硬く、大きくなっている部分を、手のひらで撫でる。
「満足なんか……できるわけねーだろ。……やっぱり、北川が欲しい。……でも、身体だけじゃ、だめなんだ。心も……心にも、触れたい。心も含めて、北川を抱きしめたい」
「心……ねぇ……」
手を動かし続ける。早瀬の呼吸は荒くなっていて、必死に我慢しているのが一目瞭然だった。
それでも、今日は襲ってこない。
「……私の心なんて、もう、壊れてしまってる……砕けた欠片でしかないわ」
「……そんなこと、ない」
「……そうなの。その話しを、これから、してあげる。……その前に……服、脱いで?」
「いや、北川……」
「こういうところでの会話は、裸で、肌を寄せ合ってするものよ?」
耳に唇を寄せて、甘い声でささやいた。
「…………わかった」
不承不承、といった様子で早瀬がうなずく。
従わなければ話さないと感じたのか、それとも単に、性欲が限界まで昂ぶっているのか。
立ち上がって、服を脱いでいく。
筋肉質の、大きな身体。私なんか簡単に殴り殺せそうな、鍛えられた肉体。
その股間からそそり立つものも、まさに〈凶器〉と呼ぶべき形と大きさだった。
「……相変わらず、すごいわね。じゃあ……」
自分が座っている場所の隣をぽんぽんと叩く。
そこに、早瀬が腰を下ろす。
身体に、触れる。
皮膚のすぐ下に鍛えられた筋肉の層があるのがわかる、固い身体。その上で指を滑らせる。
胸から、下半身へ。
くすぐったいのか、それとも気持ちいいのか、あるいは両方か、歯を喰いしばって堪えている。
二度、三度、指を往復させる。
それから、男性器に触れる。
優しく、そぅっと。
指先でくすぐるように。
びくんと反応する。
鍛え上げられた大胸筋や腹筋よりも、もっと硬い。
そして、熱い。
はちきれそうなほどに、膨らんでいる。まるで、その中に熱く煮えたぎった精液がいっぱいに詰まっているみたいだ。ちょっとつついたら、破裂して噴き出してきそうな気がしてしまう。
「き、北川……」
やっぱり、かなり溜まっているのだろうか。軽く触れただけで、余裕のない、切羽詰まった声を上げる。
優しく、ゆっくりと、だけどいちばん敏感な部分を指先で刺激する。
そぅっと握って擦る。
先端から、透明な汁が滲み出てくる。
それを指先ですくい取って、亀頭に塗り広げる。
かすれた呻き声。
さらに手を動かす。
あともう一秒でも続けたら射精する、というぎりぎりのところで手を放した。
「……じゃあ、約束通り、話しをしましょうか?」
早瀬の目つきが微かに鋭くなる。
「…………北川って、性格悪いな」
一瞬、押し倒されそうな気配を感じた。そのくらい、ぎりぎりの状態だったのだろう。
「……出したいなら、襲って?」
フェロモン全開。甘い声でおねだりする。
「…………話しが、先だ」
あの早瀬が、たいした自制心だ。だけど、いつまで耐えられるだろう。正直なところ、結果の見えている勝負だった。
くすくすと笑う。上目遣いに見上げる。
「……したい、な?」
演技ではない、本気のおねだり。
私の方は、もう、スイッチが入ってしまっていた。
この〈本物〉のおねだりに抗える男など、同性愛者でもない限りありえない。
「いや、でも……」
早瀬ももう陥落寸前だ。
「私も……溜まってるんだけどな? しばらく学校を休んでた後は、誰ともしてないのよ?」
また、早瀬に触れる。
燃えたぎる欲望が、激しく脈打っている。
久しぶりに、これに、貫かれたい。陵辱されたい。
心底、そう想った。
「話しは、するわ。……だから……して」
手で触れたまま、身体は伸びあがってキスをする。
至近距離でまっすぐに目を見つめてささやく。
「……あなたのが、欲しいの」
ついに、早瀬が陥落した。
太い腕が身体に回される。包み込むように抱きしめられる。
「お願い…………挿れて」
「……ああ」
押し殺したような声。だけど、そこから滲み出る欲望が垣間見える。
やっぱり早瀬も我慢できないのだろう。当然だ。
ベッドの上に押し倒される。
大きな身体が覆いかぶさってくる。
苦しいくらいの重量感。
それが、いい。
「……いっぱい、溜まっているんでしょう? その欲望を、全部、ぶつけて。めちゃめちゃに犯して、陵辱して」
言うまでもなく、いつものようにそうしてくれるものと思っていた。半月以上の禁欲生活の後で、早瀬がおとなしくしていられるわけがない、と。
だけど――
「や……っ、んっ……や、だぁ……早瀬ぇ……いやぁっ! あぁんっ!」
ベッドの上で、ふたつの身体が重なっている。
早瀬が、私を貫いている。
その巨体が動くたびに、小さな身体が揺すられる。
嗚咽が漏れる。
だけど……
そこにはひとつ、いつもとは決定的な違いがあった。
早瀬の動きが、すごく、優しい。
いつものように、前戯もそこそこにいきなりねじ込んできたりはしなかった。
膣が引き裂かれそうなほどに無理やり突き挿れてもこなかった。
指と舌でじっくりとほぐすように愛撫して、蜜を塗り広げるようにしながら、優しく、静かに挿入してきた。
内蔵が押し潰されそうなほどの、お腹が突き破られそうなほどの強引な挿入はない。膣が摩擦で火傷しそうなほどの激しい動きもない。
華奢な私に合わせて、小刻みに、リズミカルに、動いている。
茅萱としていた時よりも、さらに優しい。
私を気遣うようなセックスだった。
早瀬のサイズだから、それでもまったく痛くないわけではない。
しかしそれは、いつもの暴力的な激痛ではなく、快感をいや増すスパイスになるような、甘い甘い痛みだった。
私の身体を包み込むように抱き、何度も、何度も、キスを繰り返しながら、腰を優しく前後させている。
気持ち、よかった。
すごく、気持ちよかった。
これまで、早瀬とのセックスでは一度も感じたことのない、純粋な快感だった。
何度も何度も達して、だけどその度に、さらに快感が強まっていくようだった。
なのに――
私は、泣いていた。
もう涸れてしまったと思っていた涙が、とめどもなく溢れ続けていた。
けっして、気持ちよすぎて泣いているのではない。
かといって、いつものように痛みに泣いているわけでもない。
哀しいわけでもない。
なのに、涙が止まらなかった。
「いや……ぁっ! やめ……やめてっ! あぁぁっ、はや……せっ!」
愛撫がはじまった直後から、優しくて気持ちのいいその行為を拒絶し続けている私。
だけど、けっしてやめてはくれない早瀬。
その身体の下から逃れようとしても、優しく、だけどしっかりと包み込むように抱きしめて、けっして放してくれない。
「や……だってば! やめてっ、いつもみたいに、乱暴にしてよっ!」
泣きながら懇願する私。
「……だめ。今日は、こうするって決めたんだ」
優しい、だけど揺るぎない決意が感じられる声。
「わ……たしは、ら、乱暴に、めちゃめちゃに……陵辱、……っ、されたいの! こんなの……いやぁっ!」
「でも……北川、感じてる」
耳たぶを甘噛みしながらささやく。
「……感じてなんかない!」
「いつもより、もっと、濡れてる」
「濡れてなんか……」
ない、と言い張るのは無理があった。
今日は〈クスリ〉もローションもなにも使っていないのに、じゅぶじゅぶと湿った音がはっきりと聞こえている。お尻の下がぐっしょりと濡れているのを感じる。
「北川も、腰、動いてる」
「……っ!」
それも、否定することができなかった。
身体が勝手に、この絶え間ない快楽に応えていた。それが、さらに自分を昂らせていた。
「……っ」
反論する代わりに、早瀬の腕に噛みついた。なんの手加減もなく、力いっぱい歯を立てた。
それでも皮膚を浅く傷つけただけで、鋼のような筋肉を喰いちぎることはできず、早瀬は痛みなど微塵も感じていないかのように、優しいセックスを続けていた。
嫌、だった。
こんな風に、されたくなかった。
こんなセックス、これまで一度もしたことがない。
気持ちのいいセックスだけなら、いくらでもある。今よりずっと気持ちよかったことだって数え切れないほどだ。
だけど、違う。
パパとのセックスは死ぬほど気持ちいいけれど、それは近親相姦という罪。
援助交際でも身体の相性のいい相手に巡り会うことはあるけれど、それは売春という罪。
近親でもない、淫行でもない、不倫でもない、なんの後ろめたさもない相手。
お金も絡まない、犯罪ではない、なんの後ろめたさもない行為。
ゆきずりの相手でもない。
私に好意を持っている男に優しくされて。
そして、感じている。
それが、嫌だった。
どんなに激しい行為も、変態的な行為も、受け入れてきた。
だけど、たったひとつ、受け入れられないセックス。
それが、これだ。
愛情のこもった、優しい、気持ちのいいセックス。
こんなこと、したくない。
こんなこと、されたくない。
こんなこと、されてはいけない。
セックスは嫌なこと。
私にとっては罪の象徴であり、それ自体が罰でもある。
そうでなければならない。
セックスで気持ちよくなってはいけない。
悦んではいけない。
満たされてはいけない。
なのに……
どうして、こんなに気持ちいいのだろう。
どうして、こんなに感じてしまうのだろう。
嫌なのに。
心底、嫌なのに。
気持ちいいセックスなんて、したくない。
して欲しくない。
そんなもの、求めていない。
求めてはいけない。
なのに……
「やだってばっ! いやっ! 早瀬、お願いっ、やめてっ! いやぁぁ――――っっ!」
拒絶の言葉は、切羽詰まった悲鳴へと変わっていく。
あの、パパにされた、最悪の陵辱にも比類する悲鳴。
だけど、やめてくれない。
「許してっ! お願いぃっ! もうっ、もう……っ!」
やめて。
ゆるして。
もう……限界。
壊れてしまう。
私の中で。
なにか、が……壊れてしまう。
なのに、許してくれない。
やめてくれない。
こんなに優しいのに、私の言葉を受け入れてはくれない。
有無を言わさず、優しくて、気持ちよくて、だからこそ拒絶しなければならない行為を続けている。
それは、限りなく優しい陵辱だった。
「――――――っっっ!!」
胎内に注ぎ込まれる灼熱の奔流。
三週間の禁欲生活を取り戻そうとするかのような大量の精液が、私の中をいっぱいに満たしていく快感。
それでようやく、私は失神という一時的な救いを得ることができた。
どのくらい時間が過ぎたのだろう。
私は全裸のまま早瀬に腕枕されて、ぐったりとしていた。意識が戻ってからも、かなり長い時間、そうしていた。
「……怒ってる?」
優しい表情が見おろしている。
「…………ええ、すごく」
「でも……」
「……ええ、感じてたわ」
誤魔化しようがない事実を声に出して認める。
「……すごく、感じた。…………でも、あなた相手に感じてしまったこと自体が、言いようもないほどの屈辱よ」
「でも、好きな女の子には気持ちよくなってほしいじゃん?」
「……私は、あなたなんか、嫌いよ」
言いながら、勢いをつけて身体を起こし、早瀬から離れた。
激しい絶頂を迎えた後に特有の気だるさはあるけれど、いつものような、起き上がれないほどの肉体的なダメージはない。
腕を伸ばして、脱ぎ捨ててあった下着と制服を拾う。
「……どうして、こんなこと、したの?」
下着を着けながら訊く。
他の男ならいざ知らず、これまでのことを考えれば、まったく早瀬らしくない行動だった。
「もしかしたら、この方が北川は感じるんじゃないかって思って」
「……どうして、いまさら私なんかを気遣うの?」
「そりゃあ……多少は気遣うだろ、好きな女の子のことは。これまでがちょっと……いや、かなり、気遣いが足りなすぎたんだ」
「その方が……いいのに」
ソックスを履き、ブラウスを着る
「北川が……本当に、乱暴で痛いセックスの方が感じるっていうなら、そうするさ。でも、実際はそうじゃない。優しくした方が、感じてる。乱暴にされたがるのは、リスカと同じ、自傷行為の一種だろ?」
ブラウスのリボンを結んでいた手が思わず止まった。
早瀬を見る。遠藤や木野ならともかく、早瀬からこんな台詞を聞かされるとは思わなかった。
「…………」
「遠藤先生や木野にも、いろいろ相談した。その結論がこれだよ」
なるほど。
納得して、肩をすくめる。小さく溜息をつく。
そして、スカートを穿いた。
「……あなたたち、いつの間に結託したの?」
子供っぽい苦笑を浮かべる早瀬。
「少し前。三人で『北川を幸せにする会』ってのを結成したんだ。遠藤先生が顧問で木野が会長、そして俺が会員番号一番」
今度の溜息は、少し大きなものになった。
この三人に手を組まれてしまっては、鬱陶しいことこの上ない。
「北川に、幸せになって欲しいじゃん」
木野も似たようなことを言っていた。木野が会長で早瀬が会員ということは、言い出しっぺは木野なのだろう。早瀬の方から木野に相談を持ちかけるとは考えにくい。
「……いい加減にして欲しいわ。私には……幸せになる資格がないのに」
「そんなことないだろ。誰だって幸せになりたいに決まってる。実際になれるかどうかは、環境とか運とか能力とか努力とかに左右されるかもしれないけど、幸せになるのに権利も資格もいらないだろ」
早瀬とは視線を合わせず、鏡の前で服装を整える。
もういつでもホテルを出られる。
このまま帰ってしまおうかとも思った。
だけど――
立っていると、出されたばかりの精液が流れ出してくるのを感じる。下着が冷たく濡れて気持ち悪い。
なのに、それが〈スイッチ〉になってしまう。
セックス、したい。
なんだろう、この衝動は。
早瀬を振り返る。
いつの間にか服を着て、ベッドに座っていた。男子の着替えは、女子に比べれば手軽に済むのだろう。
早瀬の前に立つ。
屈んで、早瀬の顔に手を添える。
唇を重ねる。
舌を絡める。
股間に触れると、そこはまだ硬くて、大きく膨らんでいた。
「……もう一回、しよ?」
すごく、したくなっていた。下半身が疼いている。胸も張って、乳首が固くなっている。
早瀬だって、あの一回で満足してはいまい。
「服、着たのに?」
「着たままでいいじゃない」
ズボンのファスナーを下ろし、大きく反り返ったものを引きずり出す。
そして、早瀬の上にまたがる。ベッドに座ったまま抱き合う形になる。
私は、制服はもちろん、下着も脱がなかった。下着を少しずらしただけで、精液と愛液のカクテルを滴らせているところに早瀬の分身を当てる。
そのまま、腰を落としていく。
「んっ……く……ぅぅ……んっ!」
ゆっくりとした挿入。膣が押し拡げられていく。
いつものことながら、それは私には大きすぎるサイズだった。
下半身が引き裂かれるような感覚に襲われる。身体が内側から拡げられて、破裂してしまうような気がしてしまう。
痛くて、苦しくて、とても、熱い。
「……ぁ…………」
奥まで達しただけで、気が遠くなった。
無意識の行動で、早瀬にしがみつく。
貪るように唇を重ねる。
腰が勝手に蠢いてしまう。
服を着たままのせいで、クリトリスが擦られる感覚はいつもよりも強い。入口周辺への刺激も、悲鳴を上げそうなほどだった。
早瀬の腕が腰に回される。
私の身体をつかんで、ゆっくりと揺さぶる。
中が、かき混ぜられる。
ぬちゃぬちゃと湿った音が響く。愛液と精液が混じり合って、私の愛液だけの時よりも粘度の高い音だった。
「んぅ……んっ……ぅんんっ、ぁ……んっ!」
気持ちよすぎて、全身に鳥肌が立った。
身体が断続的に震える。
何度も意識が飛ぶ。
腰に回された手が、下へ移動していく。お尻を撫で、スカートをまくり上げてパンツの中に潜り込んでくる。
「あ……ぁっ! そ、こ……んぅんんっ!」
後ろの入口がくすぐられる。菊門がこじ開けられ、指先が押し込まれてくる。
指は一本だけで、挿入も第二関節くらいまででしかないけれど、なにしろ早瀬の太い指、質感は充分すぎる。前が塞がれている状態だから、なおさら圧迫感が強い。
「――――っっ!」
早瀬にしがみついて、悲鳴を抑えるために腕に噛みついた。
直腸内の指が、前とリズムを合わせて螺旋を描くように蠢いている。
括約筋が意志とは無関係に収縮し、太い指をぎゅうぎゅうと締めつける。
呼吸が止まる。
身体が痙攣する。
「北川って、実はお尻、弱いよな」
「…………ええ」
早瀬の胸に顔を埋める。
お尻を小刻みに振って、自分に、より強い刺激を与えようとする。
気持ち、よかった。
前も、後ろも、どうしようもないくらいに気持ちよかった。
「……正確には、前後同時に……っ、責められるのが……弱い、わ」
「じゃあ、こーゆーやり方、いいか?」
言いながら、腰を突き上げる。指を大きく回して中をかき混ぜる。
「――っっ! ……ぁっ、あなたの目には、どう映って?」
「いつもより、もっと感じてる」
「……そうかも……ね」
唇が、舌が、震えていた。
口を開くと、下の口よりも多くの涎がこぼれてしまう。
「……もう……ちょっとだけ……強く、速く、して……いき……そ……っ!」
リクエストに応えてくれる早瀬。けっして乱暴ではなく、私を感じさせ、悦ばせるために、動きを激しくしていく。
「あ……っ、んんっ、あ……ぁっ! あっ…………ぁっ……あぁっ!」
唇から漏れるのは、いつものような悲鳴ではなく、か細い、切ない嗚咽。しかし早瀬が相手の時は、〈普通に〉感じている時ほどそんな反応をしてしまう。
いつもの陵辱と比べれば、けっして大きな動きとはいえない。私に苦痛を与えないために、小刻みに震えるような動きを主体にしている。それでも早瀬の大きさと私の小ささを考えれば、普通の女の子なら悲鳴を上げるほどの刺激だろう。
しかし私にとって、それは純粋な快感だった。
しがみついていた腕にも、もう力が入らない。早瀬の腕に支えられていなければ、そのまま倒れてしまったかもしれない。
「――――ぃ、っっ!!」
視界がぼやける。
浮遊感に包まれる。
腕の筋肉が硬直して、早瀬の背中に爪を立てる。
一瞬後、全身から力が抜けていく。腕がだらりと下がり、首が傾く。
膣奥に、熱いものが噴き出してくる。
灼けるような、痺れるような、とろけるような感覚。
下半身の筋肉が、痙攣と弛緩を繰り返していた。
射精している間だけ、筋肉が盛り上がるほどに力が込められていた早瀬の腕。それもすぐに、優しく包み込むような抱擁に変わった。
脱力しきった私は、早瀬に寄りかかって荒い呼吸を繰り返していた。
額に、頬に、耳たぶに、くすぐるようなキスが降ってくる。
「やっぱり、このくらいの方が北川は気持ちよさそうだな」
「…………あなたは……こんなので、満足できるの?」
これまでの早瀬と違いすぎる、優しいセックスだった。世間一般の基準では特に優しいというほどではないかもしれないけれど、私たちの間では、ありえないほどの優しく静かなセックスだった。
とはいえ、私の質問はまったく無意味なものだった。
訊くまでもない。訊かなくてもわかる。
まだ私の中に在るものの大きさと硬さ、そして胎内を満たしている熱い粘液の量が、早瀬がどれだけ感じていたかを雄弁に物語っていた。
早瀬は、こんなセックスでもいいのだ。
私の身体を引き裂くような陵辱じゃなくても、ちゃんと感じて、興奮して、達することができるのだ。
「たまになら、うんと激しいのもいいかもしれないけど、どっちかといえばこっちをデフォにしたいな。これまでやってたようなのは……あれはただ自分の征服欲を満たしているだけっていうか、北川を虐めているだけっていうか……後で罪悪感が残るんだよな。こっちの方が……充実感があって、いい」
「……そう」
「北川だって……こういうのの方が、いいだろ?」
「…………どういう意味での〈いい〉かしら?」
私たちふたりの間には、根本的なくい違いがある。おそらくは早瀬に限らず、木野や遠藤との間にも。
「……今みたいにされるのは……そうね、すごく気持ちよくて、満たされて、幸せなだったわ」
実際、すごく気持ちよかった。いつになく感じてしまった。終わった後も早瀬に密着しているのは、快感のあまり腰が抜けて身体に力が入らないからだった。
「……こういう〈気持ちいい〉は……初めて、かも。パパとするのはすごく気持ちいいけれど、〈クスリ〉で無理やり引き出された、気が狂いそうになる暴力的な快感。それに、パパとするのはいけないことだし」
常に私を苛む罪の意識。気持ちいいほどに、感じるほどに、心が蝕まれていく。
「……援交でも、たまに、すっごく身体の相性がいい相手がいる。だけどもちろん、売春は犯罪よ。どっちにしろ、心が満たされるものじゃない。〈罪〉にならないセックスで、こんなに気持ちよくなったのは……初めて、だと思うわ」
そもそも、〈罪〉にならないセックスの経験自体が少ないのだ。
どうしてだろう、口元に笑みが浮かぶ。
早瀬の前でたまに見せる、皮肉な笑みではない。
パパに見せるような、甘えた笑みでもない。
もちろん、〈営業スマイル〉とも違う。
ごく自然に浮かんだ、静かな笑み。
それを見た早瀬はなにか勘違いしたのだろう、安堵の表情になる。
「…………でも、ね?」
表情を変えずに言う。
「……だからこそ、死にたい気分よ、今」
深呼吸をひとつ、ふたつ。
身体に力を入れて、ゆっくりと早瀬から離れた。私の膣中を満たしていたものが抜け出ていく。
「……幸せになんか、なりたくない。幸せなんて、いらない。私には、そんな資格はない」
まだ脚に力が入らなかった。無理に立ち上がることはせず、ベッドの端に腰かけていた早瀬の背後へ這うように移動した。
早瀬に寄りかかって、背中合わせに座る。
これで、いい。
これで、早瀬と目を合わせずにすむ。
「……私は、幸せになっちゃいけないの。でも、死ぬのもだめ……少なくとも、自殺なんて安易な逃げは許されない」
「北川……」
「……今日は、その話しをするつもりだった。あなたへの最初の質問は、単にその前振りだったんだけど……」
「……いちばん辛かった、こと?」
「……ええ。私が壊れてしまった、いちばんの決定的な理由。私にとっていちばん衝撃的な、いちばん辛かったこと」
壁のなにもない一点を見つめて、笑みを浮かべたまま淡々と言葉を紡いだ。
「それって……」
「小学生の時にパパにレイプされたこと、じゃないわ」
早瀬が予想したであろうことを、きっぱりと否定する。
「……そりゃあ、すごくショックだったし、傷つきもしたけれど……でも、それだけじゃない。……パパのことは大好きだったんだもの、ちょっぴり、嬉しかった。好きな人と初体験できて、ちょっぴり、幸せだった。友達の誰よりも早くに経験したことに、ちょっぴり優越感もあった」
その想いは、〈ちょっぴり〉ですらなかったかもしれない。自分でも認めようとしていないだけで、ショックと同じくらい、いや、それ以上に喜んでいたのかもしれない。
「……もっともっと……辛かったこと。私の、いちばんの罪。……私、ね……人を、死なせたの。殺した、っていう方が正しい表現かしら」
「――っ!?」
私の背中で、早瀬の身体が大きく揺れた。
「…………殺した、って……」
これまで訊いたことがないくらい、早瀬の声が強張っていた。
「……私の、赤ちゃん」
「――っっ!!」
さらに大きく背中が揺れる。ベッドが弾む。背後で、早瀬が振り返った気配がした。
「き……北川、それってまさか……」
「その、まさか」
早瀬が狼狽えるほどに、私の声は無機的になっていく。
「……パパにバージンを奪われた時、私はまだ初潮も迎えていなかった。だからもちろん、避妊なんてお構いなしに中出ししまくり。……っていうか、パパが私相手に避妊したことなんて一度もないわ。だから……排卵がはじまるのと同時に妊娠したようなものじゃないからしら」
当然、小学生の私は自分が妊娠したことなど気づいていなかった。そもそも生理だってちゃんと経験していなかったのだ。
「……何日か前から、なんとなくお腹が痛いとは思っていたけれど、あまり気にしてはいなかった。そんなある日、さっきの河川敷を歩いていて、途中で雨が降ってきて慌てて走り出して……いきなり、激痛に襲われた」
口に出したことで、忌まわしい記憶が甦ってくる。脳裏に深く刻み込まれた、けっして消し去ることのできない記憶。
涙が滲んでくる。
話題とは不釣り合いな微笑を浮かべたまま、涙が頬を伝う。
「……倒れたまま痛くて動けなくて……あそこからすごい量の血が出て……なにが起こったのかもわからなくて、ただうずくまって痛みに耐えていた。私にできたのは、携帯でパパに連絡したことだけ。パパが迎えに来るまで、雨の中、下半身が引き裂かれるような激痛に耐えながら、広がっていく血溜まりを見て泣いているしかできなかった。……怖かった……このまま、死ぬんだと思った」
その時はなにが起こったのかもわからなかったけれど、頭の奥でぼんやりと、これもきっと、いけないことをした罰なんだと想った。
「……パパが来てくれたところで安心して、気を失って……意識が戻った時には病院で、手当てされていて…………すべてが、終わった後だった」
そこで初めて、自分の身になにが起こったのかを聞かされた。
私の中に、小さな命が在ったこと。
それがもう、過去形になってしまったこと。
「その瞬間、衝動的に、近くにあった鋏をつかんで手首に突き立てていた。……それが、リストカット初体験。傷は深かったけれど、なにしろ場所が病院だったから死ねなかった。……パパと関係を重ねていたことでおかしくなりかけていた私の心は、この時、完全に壊れてしまった」
以来、自分に向けた破壊衝動が抑えられなくなっている。
「……それで、現在に至る……と。私は、〈子殺し〉という最大の罪を犯してしまった。だから、幸せになんてなっちゃいけないの」
幸せになってはいけない。
だけど、死ぬこともできない。
そんな、安易な逃げは許されない。
苦しまなければ、いけない。
「……い……いや……でも……、まだ生まれてない、ちっちゃな胎児だったんだろ? それなら……」
「……生まれてからが生命――それは男の理屈ね。女は、そうは想わない。お腹の中に在っても、それは自分の子供、新しい生命……そう感じるのが、女の本能よ。……きっと、これこそが男と女の心理のいちばんの違いじゃないかしら」
理屈ではない。
それが女の感覚であり、本能だ。
病院で目覚めて事情を知った時の喪失感は、言葉では言い表せない。
「で……でも、北川にとっては不可抗力じゃないか。自分の意思で妊娠したわけじゃない。自分の意思で中絶したわけじゃない」
「……不可抗力なら、過失なら、人を殺してもいいと?」
「い、いや……そういうわけじゃ……」
「……それに、必ずしも不可抗力とはいえないかもね」
パパが妊娠の危険を失念していたのか、それとも意図的に無視していたのかはわからない。
しかし私の方は、まったく意識していなかったわけではない。漠然とではあるけれど、認識していたことだ。
小学生だって、高学年にもなれば、それも女子であれば、性行為と妊娠、そして避妊についてのある程度の知識は持っている。
なのに私が妊娠の危険を、避妊の必要性を、あえて無視していた理由はいくつか考えられる。
単純に、生理もまだなんだから気にしなくてもいいという油断。
パパに嫌がられるかも、という不安。
そして……
パパと直につながりたい、胎内に射精して欲しい、……好きな人の子供が欲しい、という女の本能。
たぶん、どれかひとつの理由ではない。
こうしたことをはっきりと意識していたわけではないけれど、まったく気づいていなかったわけでもない。ただ、無意識のうちに気づかないふりを続けていたのだ。
「……人を殺すのが罪かどうかは、故意か過失かじゃないわ。殺すに足る理由があるかどうか、よ。たとえば、私がパパやあなたを殺しても、それだけの理由はあると思わない?」
「……俺もかよ」
重苦しい話題に耐えられなくなったのか、冗談めかした口調の突っ込みが返ってくる。それを無視して言葉を続ける。
「……でも、なんの罪もない、生まれてすらいない赤ちゃんを死なせる理由はどこにもない。レイプされて妊娠したのでもなければ、ね。だから私がしたことは、法的にはどうであれ、倫理的には……あるいは感情的には、なんの恨みもない相手を襲う通り魔殺人となんら変わらないわ。情状酌量の余地はまったくない」
「……いや……でも……その……」
「……人を殺した罪は、どうしたら償えるの? 金品に与えた損害なら、弁償もできる。だけど人の命なんて、どうやって贖えばいいの? 遺族に対して、じゃない。死んだ本人に対して、償う方法があるの?」
「…………」
返ってくる言葉はない。
微かな震えが背中に伝わってくる。
「……この先、生きるはずだった何十年もの時間を一方的に奪った罪は、なにをしても償うことなんてできない。どんな目に遭ったって償いになんかならない。私が自分を傷つけるのは、償いのためじゃない。ただ、自分を罰するため。償うことのできない罪を犯した罰として、永遠に苦しまなければならない。だから、死ぬこともできない。そんな一瞬の苦しみで終わらせるなんて許されない。だから……」
ベッドから降りて、鞄を拾って立ち上がった。
早瀬に背中を向けたまま、ゆっくりと、部屋の出口へと向かう。
「……だから……あなたや木野や遠藤の気遣いは……」
ひとつ、大きく深呼吸。
「……、とても、残酷だわ」
背後で、早瀬が立ち上がる気配がした。
振り返って視線を向ける。早瀬が動きを止める。上げかけた腕は私を捕まえようとしていたのかもしれないけれど、それ以上こちらへ伸ばしてくることはできずにいた。
「……木野や遠藤に、話してもいいわよ? こんな話、自分の口から二度も三度も繰り返したくないもの」
「北川……」
回れ右して、靴を履く。
早瀬が近づいてくるけれど、あと一歩のところで触れてはこない。触れられずにいる。
立ち上がって、もう一度、早瀬を見る。
まっすぐ、正面から見つめる。
腕を伸ばして、早瀬の頬に手を当てる。
その手に少しだけ力を込めて、早瀬を屈ませる。そうしなければ背伸びしても届かない位置にある唇にキスをする。
ごく軽い、微かに触れるだけのキス。
「……これで、終わり。……近いうちに、学校も辞めると思う」
「ど、どうして……」
口元に笑みが浮かぶ。
自然とこぼれた笑みだった。
「…………私、妊娠しているの。もちろん、パパの子供よ」
「――っ!」
早瀬が凍りついた。
こちらに伸ばしかけた手が止まる。
完全に表情が消える。
「だから……さよなら」
もう早瀬の顔は見ず、部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。
そのままドアに寄りかかって、ひとつ深呼吸をする。
ドアを隔てた室内からはなんの物音も聞こえない。早瀬は追ってこない。
そのことを確認して、歩き出す。
ホテルを出ると、雨が振りはじめていた。
その夜――
妊娠判定薬が、初めてはっきりと陽性を示した。
そうなることを予想し、心の準備もできていたはずなのに、それを見た瞬間、私は悲鳴を上げて泣き出していた。
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