終章

 次にパパからの連絡があったのは、二日後だった。
 その二日間、なにをしていたのかはまったく覚えていない。
 記憶があるのは、パパからのメールで我に返って、デートの仕度をはじめてからだった。その前の記憶となると、早瀬と別れてラヴホテルを出たところまで遡らなければならない。
 パパの性格を考えれば、あの陵辱の〈結果〉が判明する場に立ち会いたかったことだろう。しかし、まる一週間仕事を放り出して私を監禁していたツケが回ってきて、仕事に追われていたというわけだ。
 今日だって、必死にやりくりして半日の時間をなんとか捻出したものらしい。私と逢った後、すぐにまた空港へとんぼ返りだそうだ。
 私はいつものデートの時と変わらず、うんとおしゃれした。
 入浴も、お化粧も、髪のセットも、念入りに時間をかけて、服も下着も靴もアクセサリも、パパに買ってもらった中でいちばんお気に入りのものを選んだ。
 すっかり身支度を終えて、姿見の前でいちばん可愛い自分を確認していると、携帯の着信音が鳴った。急いでマンションの前に出る。ちょうど、パパの車が着いたところだった。
 今日は時間の節約のため、いつものように街中のカフェでの待ち合わせではなく、車でホテルに直行する段取りになっていた。
「……もっと早くに逢いたかったな」
 助手席に乗り込んで、いつものように少しだけ甘えるように頬を膨らませる。
 だけど、〈いつも通り〉でいられたのはここまでだった。
 パパの顔を見て、パパの手に触れられて、首輪を着けられたら、いきなり涙が溢れてきた。
 堪えようとしても、止められない。顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
 パパにしがみついて、貪るように唇を重ねる。
 そんな様子を、パパは優しい笑みを浮かべて見つめていた。頭を撫でられる。
「その様子だと、もう結果は出たのか?」
「……」
 こくん、とうなずく。
 手の甲で涙を拭う。
 ああ、もう。
 せっかく精いっぱいおしゃれしてきたのに、台無しだ。
「やっぱり間に合わなかったか。ぜひ、その瞬間を見たかったのにな」
「……やだ」
 拗ねたようにぷいっと横を向く。
「きっと、すっごいブスだったもん」
「莉鈴の泣き顔は、世界一可愛いよ」
 パパってば、本当にサドなんだから。
 私を泣かせるのも、笑わせるのも、思いのまま。
 子供の頃からずっと、私の心と身体を支配してきた人。
 だから、こんな仕打ちをされても、やっぱりパパに逢えると嬉しい。
 パパに触れられただけで泣きそうになってしまう。
 パパさえいればなにもいらない、って想ってしまう。
 これからまたパパに犯されることを、楽しみにしてしまう。
 差し出された〈クスリ〉のカプセルを、素直に飲み込んでしまう。
 下着を脱がされ、膣内に〈クスリ〉を挿入されても、抗うどころか、むしろ進んで腰を突き出して受け入れてしまう。
 結局、パパから逃れることなんてできないのだ。
 パパがそれを強要するのではない。私自身が、そう想っていた。


 車の中では泣いてしまったけれど、ホテルに着いた頃には落ち着いて、普段通りの態度を取れるようになっていた。
 部屋に入ると、いきなり服を脱がされた。
 全裸にされ、後ろ手に手枷を嵌められる。
 手枷の鎖が首輪につながれる。
 この頃にはもうすっかり〈クスリ〉が効いていて、心身ともに完全に準備ができていた。私にとっては、パパに拘束具を着けられることが既に愛撫だ。
 溢れ出た蜜が、内腿をぐっしょりと濡らしている。身体の芯が熱く火照っている。
 パパも溜まっていることだろうし、いきなり犯されるのかと思っていたけれど、その前にバスルームへと連れていかれた。
「じゃあ、パパにも見せてもらおうかな」
 そう言って手に持っているのは、封を切ったばかりの妊娠検査薬。
「……パパったら……ここで?」
 笑みを浮かべてゆっくりとうなずくパパ。
 もちろん、パパが見ている前での排泄なんて、これまで数え切れないほどに経験している。なのにどういうわけか、これはいまだに恥ずかしさを覚えてしまう。
 AV撮影ならなんとも思わないのに、不思議なものだ。だけど、その、恥ずかしいことに、ほのかな悦びを感じてしまうのもまた事実だった。
 家を出る直前にトイレに行ったばかりだけれど、いきんでおしっこを搾り出し、パパが持っている妊娠検査薬にかける。
 そして、待つこと数分間。
 くっきりと鮮やかに浮かびあがる、陽性の徴。
 どことなく残忍な笑みを浮かべて、それを私に見せつけるパパ。
 少し、涙が滲んでくる。ちょっとだけ、怒った表情を作る。
「……パパってば、本当にひどいんだから」
「そんなパパが大好きなくせに」
 相変わらずの笑み。まったく堪えていない。
 だけど、本当にひどいのは私だ。
 妊娠とか、流産とか。それは私にとってどうしようもない苦痛、これ以上はないトラウマなのに、パパにそうしたひどいことをされて、歪んだ悦びを覚えている部分がある。
 そして、大好きなパパの子供を身籠もったことに対する純粋な悦びもある。
 私の中に、パパが与えてくれた生命が、在る。
 それは自分の身体を引き裂きたくなるほどにおぞましくて、なのに、女の本能に根ざした至福でもある。
 前回の陵辱の後も、妊娠が判明した時も、涙の最後の一滴まで流し尽くすほどに泣いたというのに、こうしてパパに逢えると、また笑ってしまう。
 パパに抱きしめて欲しい。抱きしめたい。
 だけど腕を拘束されているから、それも叶わない。代わりに身体をすり寄せる。
 パパが腕を伸ばしてくる。私を抱きかかえ、ベッドへと連れていく。
 うつぶせに寝かされる。
 お尻を持ち上げられる。
 顔がシーツに押しつけられる。
 股間はもうぐっしょりと蜜を滴らせていて、身体に力が入らなかった。
「今日は時間が短いから、その分うんと激しくするぞ」
「……今日は、って……普段だって充分すぎるほど激しいんだけど?」
「それ以上、さ。莉鈴としたくてたまならなかったんだ」
「ん、……」
 膣内に、硬いものが挿入される。
 ローターやバイヴとは違う。小さなガラス瓶のような感触。
 なにか、液体が流れ込んでくる。
「――――っっ!?」
 それが、すごく熱く感じた。
「……やっ……なに、これ……っ」
 これまで感じたことのない、不思議な感覚だった。
 膣が、意志とは無関係に勝手に収縮していく。それも、ぎゅうぎゅうとものすごい力で。痙攣しているみたいで、痛いほどだ。
 自分の意志では不可能な締めつけだった。見えない手に膣を鷲づかみにされているかのように感じる。膣だけではない。子宮も、いや、下腹部の筋肉すべてが、それ自身の力で引き千切れそうなほどに収縮していた。
 熱い。
 胎内に熱湯を注ぎ込まれたかのよう。
 下半身が灼かれているかのよう。
「もともと締まりのいい莉鈴にこんなもの必要ないだろうけど、だからこそ逆に、どうなるか興味あるだろ?」
「ゃ……ぁ、ぁぁ……っ」
 パパのものが、力強く押しつけられる。
 だけど、なかなか入ってこない。
 焦らそうとしているわけではない。結果的にそうなってはいるけれど、意図した動きではない。
 初めて経験する〈クスリ〉の効果で、膣が強制的に収縮させられていた。それが狭すぎて、きつすぎて、なかなか挿入できずにいる。
 パパの言う通り、ただでさえ締まりのよさには自信がある。そこにこんな怪しげな〈クスリ〉を使われては、早瀬サイズでなくても挿入は困難だろう。パパだって、どちらかといえば大きい方なのだ。
「ぃ……ぎ……んんっ! ん……ぐ、ぅぅぅんっ! んぁぁぁ――っ!」
 文字通り、力ずくの挿入だった。
 膣が引き裂かれるような激痛に苛まれる。
 自分の意志で緩めることが、まったくできなかった。いつも以上に蜜は溢れ出しているというのに、普段、早瀬に乱暴に挿れられる時よりもさらにきつく、痛かった。
 それでも、容赦なく突き挿れられる。
「あぁぁぁ――――っ! ん、ぐぅ……んんんっ! ぅあぁぁっっっ!」
 奥の奥まで貫かれると、下半身が引き裂かれるようだった。
 涙が溢れ出る。
 シーツを噛みしめて痛みを堪える。
 初めての時を想い出させる痛みだった。不自然なまでに収縮した膣は、サイズとしては当時と同じくらいかもしれない。
 五年前との違いは、それでも感じていることだろうか。
 早すぎる初体験からまる五年。その間、開発され続け、調教され続けてきた身体。そして、強力で危険な〈クスリ〉。
 痛ければ痛いほど、感じてしまう、悦んでしまう。
 パパもそのことは百も承知だ。なんの手加減もなく、激しく犯してくる。
 こうして見ると、初めての頃はあれでも手加減して優しくしてくれていたのだと感じる。当時の私にとっては、それでさえ今以上の暴力だったのだけれど。
 激しく揺すられる腰。
 私の中で暴れているパパの分身。
 普段の〈擦られる〉という感覚ではない。締めつけがきつすぎるせいで、どれほど濡れていてもスムーズに滑る余裕がなく、膣の粘膜が剔られるかのようだった。
「んっ……んんっ、んあぁっぁぁぁっっ!」
 お尻に滴る、ひんやりとした感触。
 大量のローションに続いて、押し当てられる固い弾力。
 モーターの唸りを立てて、お尻の穴にねじ込まれてくるバイヴ。
 全身に鳥肌が立つ。
 断続的に意識が飛ぶ。
 ただでさえ、前と後ろの同時責めには弱いのに。
 ただでさえ、前を強引に犯されて、それだけでも気が遠くなりそうなのに。
 こんな状態でお尻も犯されたら、もう耐えられない。
 根元まで突き入れられ、お尻の奥で蠢くバイヴ。ぐるぐると回転して、膣内で暴れているパパと擦れ合う。
「いやぁぁぁっっ! あぁぁんっっ!」
 断続的に上がる悲鳴。
 ひと声ごとにヴォリュームは大きく、なのに声音は切なくなっていく。
 その声に誘われるように、パパの動きが勢いを増していく。がんがんと腰を叩きつけ、子供のように窄まった性器をめちゃめちゃに陵辱する。
 ひと突きごとに絶叫してしまう。
 それは快楽のためではなく、下半身を絶え間なく襲う激痛のため。
 なのに、それでも感じてしまう。
 ひと突きごとに達してしまう。
 快楽に酔いしれて、意識が朦朧としてしまう。
 ちらり、と壁の鏡に視線を向けた。
 俯せにされ、膝を立ててお尻を持ち上げられた格好で、背後から貫かれている。
 お尻には太いバイヴが突き刺さって、唸りを上げて蠢いている。
 全体重をかけて、身体ごとぶつけてくるようなパパ。汗が飛び散っている。
 大きな口を開けて悶え、泣き叫んでいる私。涙と涎と鼻水で顔中くしゃくしゃになっている。
 最初に宣言した通りの、激しい責めだった。
 パパのセックスは、いつも充分すぎるほどに激しいのに。
 終わった後はぐったりと疲れきって、全身がだるくて、激しく突かれた性器が痛いほどなのに。
 今日は、さらにその上を行っている。
 短い時間で、欲望と精力のすべてを叩きつけようとしている。
 私の身体のことなどお構いなし。
 だけど、これが、パパの愛情表現。
 本当にひどい人だ。
 小学生だった実の娘を犯して。
 首輪や、様々な拘束具を着けて。
 怪しげな、そしておそらくは違法な〈クスリ〉漬けにして。
 さんざん陵辱して、調教して。
 ただ、陵辱の一環として妊娠させて。
 だけどそれは、すべて彼の愛情表現だった。
 単に自分の性欲を満たすためだけではなく、私を愛しているからこそ、陵辱する。
 五年前の初体験からこれまで、いったいどれほどひどいことをされただろう。
 それでもパパに抱かれていると、感じられる。
 パパの愛情が。
 愛している、という想いがひしひしと伝わってくる。
 援交の〈パパ〉やAV男優、あるいはゆきずりの男たちとはまったく違う。そうした男たちの中には、優しい人も、セックスが上手な人も、身体の相性がいい人もいたけれど、パパとは違う。
 パパほど〈愛情〉が伝わってくる相手はいなかった。
 それは、他の男たちとは明らかに違う早瀬であっても、だ。
 先日の優しいセックスはすごく気持ちよかったし、彼の想いも伝わってきたけれど、それでもパパから伝わってくる想いとは違う。
 だから、ひどいことをされても、いや、されるほどに感じてしまう。
 満たされてしまう。
 幸せに想えてしまう。

 パパってば、本当にひどい人。
 だけど、誰よりも私を愛してくれている人。

 ぼんやりと、想う。
 これから、どうなるのだろう。

 この、お腹の子が生まれてきたら――

 それが女の子だったら、私と同じように、まだ子供のうちにパパの餌食にされるのだろう。きっと、ふたり一緒に犯されるのだ。
 男の子だったら、その子に、私を犯させるのかもしれない。ふたりがかりで私を陵辱するのだ。
 その光景を想像してみる。
 私の目の前で、小学生の女の子がパパに犯されて泣き叫んでいる光景。
 縛られていて、ただ見ている以外なにもできない私。
 小学生の男の子が、パパと一緒になって私を貫いている光景。
 パパと息子に、前後同時に犯されている私。
 考えるだけでもおぞましく、なのに、どこか甘美な想像。
 だけどそれは、まず間違いなく、訪れることのない未来。
 私は、そのことを確信していた。

 私の胎内に在るもの。
 とても愛おしくて、忌まわしいもの。
 誰よりも大好きで、だけど誰よりも憎んでいるパパの子。

 そして……生まれてくることはない子。

 そう。
 きっと、パパは、この子を殺すに違いない。
 だから今だって、妊娠したばかりの不安定な時期に、こんな激しいことをしている。それも、胎児には劇薬にもなりかねないほどの強い〈クスリ〉を使って。
 流産――それが、私にとっていちばん辛いこと。
 だから、そうする。
 そこまでして、早瀬との浮気に対する〈おしおき〉が完結する。パパに監禁されていた一週間は、そのおしおきの幕開けでしかない。
 何週間もかけた、長い、そして最悪のおしおき。
 その終幕が訪れるのも、もう遠いことではないだろう。

 やめて!
 やめて!

 心の中で叫んでいる〈私〉。

 やめて!
 乱暴なことしないで!
 赤ちゃんを殺さないで!

 泣き叫んでいる〈私〉。

 だけどその絶叫は、外へ届くことなくかき消されてしまう。
 口から発せられるのは、もっと大きな別の声。

 もっと、もっと!
 もっと、激しく犯して!
 もっと、めちゃめちゃに犯して!
 もっと、もっと、感じさせて!
 赤ちゃんも、私も、死んでしまうくらいに!

 そう叫んでいる〈私〉。

 明らかに狂っている。
 五年前に狂ってしまった〈私〉。 
 だけどこの〈私〉こそが、今の〈北川莉鈴〉の支配者だ。
 理性と良識を叫ぶ〈私〉は少数派でしかない。今にも消えてしまいそうな、ほんの小さな小さな欠片だった。

 ……もう……いいかな。

 そう、想う。
 五年前のあの日以来、私はパパを愛しつつ、パパに反抗もしてきた。パパ以外の男性との乱れた性生活がその顕れだ。
 だけど、そろそろ諦めてもいいのかもしれない。
 パパに降参する頃合いなのかもしれない。
 パパが、いればいい。
 パパだけ、いればいい。
 他に、なにも、いらない。
 赤ちゃんも、木野も、遠藤も、早瀬も。
 なにも、いらない。
 激しすぎる責めの中、そう想いながら、痛みと快楽のために気を失った。


 夢を、見ていた。

 雨の中、血を流しながらうずくまって、泣いている夢。
 あの、忌まわしい日の夢。

 冷たい雨の中、手首から血を流して、歩いている夢。
 早瀬と会った日の夢。

 共通点は、雨と、紅い色彩。
 なぜ、こんな夢を見るのだろう。

 意識が戻って、その理由がわかった。
 雨音が鼓膜を震わせている。
 これのせいか――と。
 ぼんやりと、想う。
 目を開ける。

 ぼやけた視界が明瞭になるにつれて、その認識が間違いだと気がついた。
 私がいるのは、ラヴホテルのベッドの上。たとえ外が雨だったとしても、その雨音はほとんど聞こえない。
 雨音だと思ったのは、シャワーの水音だった。
 視界の中にパパの姿はない。ことが終わってシャワーを浴びているのだろう。
 首を巡らして、時計を見る。
 いつの間に気を失っていたのだろう。ホテルに入ってから、ずいぶん時間が過ぎていた。もう、パパは空港へ向かわなければならない時刻だ。急がなければ間に合わないかもしれない。
 ベッドに横たわる私は全裸で、首輪も着けられたままだったけれど、腕の拘束は解かれていた。
 身体を起こそうとする。
 だけど、全身がだるい。力が入らず、起こしかけた身体がベッドに沈んだ。
 下半身に、生理痛にも似た鈍い痛みがある。
 微かに顔をしかめる。
 息をついて、もう一度、ゆっくりと身体を起こした。
「…………はぁ」
 小さく深呼吸。
 下半身を襲う、鈍い、だけど嫌な気配をまとった痛み。
 あの日の激痛に比べたら、ほんの微かな痛みだけれど、

 おそらく――

 それが意味するところは、同じだった。

「――――っっ?」
 不意に、間近でガラスの器を落として割ったような音が響いた。
 驚いて、びくっと震える。
 周囲を見回す。
 なにも見あたらない。
 考えてみれば、ラヴホのベッドの周囲に、そんな壊れものが置いてあるはずがない。
 無表情のまましばらく考えて、それが、実際に耳に聞こえた音ではなかったと結論づけた。
 それは、私の中で発した音。
 私の中で、なにかが、壊れた音。
 それでも、この痛みに対して特にショックを受けたとは感じていなかった。
 鏡を見ても、表情は変化していない。まるで、早瀬を相手にしている時のような無表情だ。
 それでもやっぱりショックだったのだろうか。予想し、そして覚悟もしていたことなのに。
 鏡に映る、能面よりも無表情な顔。
 こんなの、パパの前で見せる顔じゃない。
 鏡に向かって、無理に笑顔を作ってみる。だけど、顔が引きつってうまく笑えなかった。
 のろのろと、ベッドから降りる。
 スカートを拾い上げ、ポケットに手を入れる。
 取り出したのは、小さなピルケース。中には、錠剤を砕いた不揃いな粉末が入っていた。
 冷蔵庫を開ける。
 ビールの五○○ml缶を一本取り出す。
 缶を開け、ピルケースの中身を落とし込む。細かな泡が、缶の口まで盛りあがってくる。
 ケースをポケットに戻すと、グラスをふたつ、テーブルに並べる。
 ソファに腰を下ろす。
 シャワーの音が止まり、パパがバスルームから出てきたところで、ビールをグラスに注いだ。
「莉鈴、起きてたのか」
「……うん、いま、起きたとこ」
 手早く身体を拭いて、服を身に着けていくパパ。
「身体、辛いだろ。しばらく休んでいっていいぞ」
 優しく、気遣うような台詞。
 辛いのは、全部パパがやったことなのに。
 だけどやっぱり、これがパパの愛情表現だった。
 愛しているからこそ、陵辱する。
 私が他の人を愛することも、他の人に愛されることも、けっして許さない。
 いいとか悪いとかの問題ではなく、パパは〈こういう人〉なのだ。
 これが、私のパパ。
 最愛の、パパ。
「……うん……そうね。独りになって、少し泣きたい気分かも」
 引きつった笑みで応える。
 服を着たパパが隣に座る。その腕に体重を預ける。
「いいな、それ。泣き顔はぜひ写メで送ってくれよ」
「……パパったら」
 腕に、軽く頭突き。
 本当に、根っからのサドなんだから。
 だけど私は、そんなパパのもの。
 好きで好きで堪らない。
 憎くて堪らない。
 もう、どうしていいのかわからない。
 だから、ビールを注いだグラスを手に取り、ひとつをパパに渡した。
 ふたつのグラスが軽く触れ合って音を立てる。
 少しだけ口に含んで、やっぱりその苦さに顔をしかめてしまう。
 パパはひと息でグラスを空にした。空いたグラスにお代わりを注いであげる。
 もしかすると、ビールはあんな風に飲むものなのかもしれない。苦いからといってちびちび飲むから、余計に苦さが気になるのだ。パパのように一気に飲んで、味よりも炭酸の喉ごしを楽しむのがビールの正しい飲み方なのかもしれない。
 自分のグラスを取り、半分くらい一気に飲んでみた。
 ちびちびと飲むよりは、まし、かもれない。あくまでも〈美味しい〉ではなく〈まし〉というレベルだけれど。
「莉鈴がビールなんて珍しいな」
 パパと一緒の時にアルコールを飲むことは珍しくないけれど、私の好みは甘いワインとか、果汁たっぷりのチューハイとかカクテルとか、とにかく甘いものだった。
 要するに、味覚がまだ子供なのだ。大人のように、苦いお酒の美味しさはよくわからない。
「……最近、少し、飲むようにしてる。パパと同じもの、飲めるようになりたいから」
 もっと、パパに近づきたい。パパのことを知りたい。パパと一緒になりたい。
 そんな想いがあるのは事実だ。けっして、口からでまかせではない。
 だけど、それだけの理由ではないのもまた事実だった。
「可愛いこと言うじゃないか」
 大きな手が頭に置かれる。
 優しく撫でられる。
 セックスの時は乱暴だけれど、それ以外で私に触れるパパはとても優しい。
 嬉しくて、頬が熱くなってくる。
 それを隠すために、もうひと口ビールを飲んで俯く。
 パパは二杯目もあっという間に飲み干した。
 空いたグラスにおかわりを注ぐ。
「なあ、莉鈴。やっぱり、一緒に暮らさないか?」
 三杯目を半分ほど空けたところで、パパが唐突に言った。
 これまでにも、何度かあったお誘い。
 その都度、断わってきた誘いだけれど。
「今の仕事がひと段楽したら、もう少し時間に余裕ができると思うし」
「……うん」
 私は、小さくうなずいた。
 白旗を掲げた気分だ。
 中途半端に距離を置こうとしたから、いけないのだ。
 もっと早くに、どちらかはっきりさせるべきだった。
 パパから完全に離れるか、パパの手の中に収まるか。
 私には、もう、パパしかない。
 ならば、後者を選ぶしかない。
「……でも、パパのマンションからだと、学校が遠くなるわ。……通えない距離ではないけれど」
「近くの学校に転校すればいいじゃないか。今度は女子校にしようか」
「……パパってば、それが目的ね?」
「ああ、やっぱり、共学校に行かせたのは失敗だった」
 早瀬の存在を、まだ警戒しているようだ。
 その点では、確かに、パパは私のことをよくわかっている。ある意味、私自身よりも。
 パパを除けば、早瀬は唯一〈特別〉な異性だった。
 これまで認めようとはしていなかったけれど、否定はできない。私以上に、パパはそれを見抜いていた。だから、普段の援交とは比べものにならないくらい怒ったのだ。
「……いちばん好きなのは、パパだよ」
「もちろん、それは知ってるさ。だけど二番目がいるのは我慢がならない。パパと、その他大勢どんぐりの背比べ、じゃないと」
「……パパってば、本当にやきもち妬きなんだから」
「莉鈴だってそうだろ」
「……パパの娘だもん」
 悪戯な笑みを浮かべて、グラスの底にわずかに残っていたビールを飲み干した。
 缶にまだ少し残っていたビールを、ふたつのグラスに均等に注ぐ。
「だから……一緒に暮らす条件。みーことは、ふたりきりで会わないで。私も一緒の時なら、いい」
「ああ」
「そして……ママとはもう絶対に会わないで」
 ママのことを持ち出せば少しは驚くかと思ったのだけれど、これくらいで狼狽えるような甘いパパではない。
 いつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべたまま、表情は微塵も変わらなかった。
 パパも、ママも、私より大人で、私より嘘が巧いのだ。
「ああ、いいよ。パパにとっても莉鈴が一番なんだから」
 優しくうなずいて、ビールを飲み干すパパ。
 グラスを置いて、私を抱き寄せる。
 耳たぶと、頬と、唇に軽くキス。
 首輪を外す。
「じゃ、行ってくる。一週間くらいで帰るから、そしたら引越しの件を話そう」
 ちらりと時計を見て言う。もう、かなりぎりぎりの時刻らしい。
「……うん。いってらっしゃい、気をつけて」
 小さく微笑んで手を振る。
「……パパ」
 部屋を出て行こうとするパパの背中に、もう一度だけ呼びかける。
 振り向いたパパに、静かな笑みを向ける。
「……愛してるわ、パパ」
「愛してるよ、莉鈴」

 それが、パパと交わす最後の言葉だった。


 パパがいなくなった後、しばらくの間、脱力したようにソファにもたれていた。
 だけど、いつまでもこうしてはいられない。
 のろのろと立ちあがる。
 性器から流れ出るねっとりとした感触が、内腿を滴り落ちていく。
 指で拭いとり、顔の前に持ってくる。
 白く濁った粘液で汚れた指。
 その中に――深紅の筋が――混じっていた。
 もう、衝撃もなかった。私の中では覚悟ができていたことだ。
 指を、口に含む。
 生臭い、錆びた鉄の味。
 それは本来、けっして美味しいものではない。なのに、さっきのビールよりもずっと美味しく感じた。
 二度、三度、指を運ぶ。
 流れ出した精液。
 胎内に残った精液。
 鮮血の混じった精液。
 残らずかき出し、拭いとる。
 最後の一滴まで、飲み下す。
 その〈儀式〉を終えたところで、バスルームに入った。
 シャワーを浴びる。
 肌に染み込んだパパの温もりを洗い流す。
 流れ出た精液と血の痕跡を洗い流す。
 お湯を浴びながら、大きく溜息をついた。
 身体がだるい。
 下腹部の痛みも相変わらずだ。
 全身が倦怠感に包まれている。
 そして、アルコールの影響も加わって、眠い。
 シャワーを浴びながら眠ってしまいそうだ。立っているのも辛くなってきたのでバスルームを出た。
 ベッドを見おろす。
 先ほどまでの激しいセックスで乱れたベッド。
 汗と涎と涙と愛液と精液が染み込んだシーツ。
 このまま、倒れて眠ってしまいたい。
 だけど、そういうわけにもいかない。
 わずかに残った気力と体力を振り絞って、服を着る。
 だけど、もう限界。
 鞄から剃刀を取りだし、手首に当てた。
「――っ!」
 久しぶりに感じる、熱く鋭い痛み。
 少しだけ、意識が覚醒する。
 あれだけ大きな罪を犯してしまったというのに、不思議と自傷の衝動はなかった。
 あの行為自体が、大きな罪であると同時に、耐え難い苦痛を伴う〈罰〉であったためかもしれない。
 今はただ、痛みで意識を保ち続けるためだけに切った。
 一度、小さく深呼吸。
 鞄を拾い上げ、部屋を出る。

 だけど――

 いったい、これからどこへ行けばいいのだろう。


 ホテルを出ると、外はもう暗くなっていた。
 まだ夕方といってもいい時刻だけれど、秋になって陽が短くなっているのだろう。不気味なほどに低く空を覆っている黒い雲が、それに拍車をかけている。
 いつの間にか、雨が降り出していた。
 雨足はかなり強い。もう、傘なしで歩いている人の姿は見あたらない。
 それでも、私はそのまま歩き出した。
 すぐに、全身がずぶ濡れになる。濡れた服が重い。
 周囲には、傘を売っているコンビニもある。
 客待ちのタクシーもちらほら見かける。
 ファーストフード店には空席もある。
 もちろん、お金は充分にある。
 だけど、全部、無視。
 雨の中をのろのろと歩いていく。
 寒い。
 もう残暑の季節も終わり、気温は日々下がっている。今日は特に気温が低いようだ。
 実際には気温だけの問題ではなく、精神的な要因が大きいのかもしれない。
 心の中は、空っぽ、だった。
 もう、なにも残っていない。
 すべてを失った。すべてを捨てた。

 寒い――

 〈クスリ〉もアルコールも抜けかけて、いちばん寒く感じる時間帯だ。
 そして、眠い。
 どうしようもなく、眠い。
 一歩進むごとに、まぶたが重みを増していく。
 それに比例して、歩みが遅くなっていく。
 人目につかない路地に入ってもう一度手首を切ったけれど、剃刀のささやかな痛みでは、もう気休めにもならなかった。
 意識が朦朧としてくる。
 視界がぼやけてくる。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 眠い。
 寒い。
 ふたつの単語だけを頭の中で繰り返しながら、のろのろと歩いていく。
 どれだけ歩いたのか。
 どこを歩いているのか。
 どこへ向かっているのか。
 まったく認識していない。
 ただ、半分眠ったような意識の下で、ゆっくりと脚を動かしていた。

 今が真冬だったらよかったのに――

 ぼんやりと、想う
 そうしたら、このまま眠ってしまえば死ねたかもしれない。
 北海道や東北ならいざ知らず、東京の秋では通報される前に凍え死ぬことは難しいだろう。

 もう、いいかな。
 もう、死んでもいいかな。

 ぼんやりと、想う
 もう、なにも残っていない。
 生まれることなく失われてしまった生命を痛む想いすら、湧いてこない。
 心の中は、完全に空っぽだった。
 すべて、失くした。
 なにもかも、捨ててしまった。
 もう、なにも残っていない。

 どこへ行けば、死ねるだろう。

 ぼんやりと、想う
 人目につかず、人に迷惑をかけず、ひっそりと消えるように死ぬにはどうしたらいいだろう。
 小さな剃刀なんかじゃ死ねない。もっと大きな刃物を用意しておけばよかった。
 だけど、今の朦朧とした私に刃物を売ってくれる店を見つけるのは難しいだろう。

 困った、な。

 考えようにも、もう頭が働かない。
 眠い。
 眠ってしまいたい。
 だけど、このまま眠ってしまうのはだめ。
 それではいつか目覚めてしまう。
 いま望んでいるのは、二度と目覚めることのない眠りだった。
 そのためには、まだ、眠るわけにはいかない。
 だけど、もう、身体が動かない。
 頭も、もう、ほとんどものが考えられない。
 視界も霞んでいる。

 どうしようもなく立ち往生してしまったところで――

「……北川!」
 いきなり、腕を掴まれた。
 万力のような手が、頽れそうになった身体を支える。
 聞き覚えのある声が、溶けかかった意識を少しだけ覚醒させる。
「……はや……せ……?」
 間違えようのない、忘れようのない、大きな身体、太い腕。
 忘れてしまいたかったけれど、私の中に、彼を忘れようとしない〈私〉がいる。
 意識を集中して、早瀬に目の焦点を合わせる。
 もう帰宅した後なのか、制服ではなく普段着だった。
 そう認識したところで、いま立っている場所が、早瀬の家の前だと気がついた。
「……な……ん、で……?」
 なぜ。
 どうして。
 無意識のうちに、ここに……こんなところに、来てしまったのだろう。
 嗚咽が漏れる。
 涙がこぼれる。
 泣いているのは、悔しいから。
 そして、哀しいから。
 今度こそ、終わりにできると思ったのに。
 すべてが終わると思ったのに。
 どうして、こんなところに来てしまったのだろう。
 どうして、彼に見つけられてしまったのだろう。

 それは……そうなることを望んでいる〈私〉がいるから。

 私の中に無数に在る〈私〉の中に、ひとり。
 他の全員がすべてを諦め、すべてを捨ててしまった中で、ひとりだけ。

 ――泣き叫んでいる。

 助けて、と。
 誰か、私を助けて、と。
 ここから助け出して、と。
 泣きじゃくって、叫んでいる。

 早瀬は複雑な表情を浮かべて、口を開きかけては閉じる、という動作を何度も繰り返した。
 言いたいことがありすぎるのかもしれない。結局、出てきた言葉は、この状況ではもっとも当たり障りがないと思われるものだった。
「……うちで、雨やどりしてけよ」
 ややぶっきらぼうな口調。
 腕を掴んだ手にはかなりの力が込められていて、痛いほどだった。
 強引に、引っ張っていこうとする。
 しかし、私の脚は動かない。

 ――さて、

 この場合、どうすればいいのだろう。
 いったい、なんて応えればいいのだろう。
 唇を開こうとすると、口元に引きつった笑みが浮かんだ。
「……もしかして、下心とか、ある?」
 いつかと同じ台詞。
 だけど、ほんの数ヵ月の間に、ふたりの関係は大きく変わってしまった。あの出会いは、もう遠い昔のことのように感じられた。
「ああ、下心だらけだ」
 早瀬は躊躇いもなく答えると、動こうとしない私の身体を抱き上げた。
 雨の中、小走りに家へ向かい、玄関に飛び込む。
「…………もう、ここには来ないって、言ったわ」
 ほんの、微かな声。それでも早瀬の耳には届いたらしい。
「知ったことか。……部屋に入らなきゃいいだろ。その台詞を言ったのは俺の部屋なんだから。家には来ない、とは言ってないぞ」
「……屁理屈」
「うるさい。とにかく、まず温まれ。すっごい冷たいぞ、お前」
 問答無用でバスルームへと連れていく。
 脱衣所で私を下ろし、給湯器のスイッチを入れる。
 脚にはもう体重を支える力も残っていなくて、早瀬の手が離れると同時にその場に座り込んでしまった。
 腰を下ろしてしまうと、睡魔がさらに勢いを増す。
 瞼が下がってくる。
「……北川?」
 そんな様子を見て、早瀬がまた手を差し伸べてきた。
 服を脱がしていく。
 ぐっしょりと濡れた服が剥ぎ取られたせいで、裸でいる方が暖かく感じた。
 下着を脱がされたところで、早瀬の手が止まる。
「……北川……、生理、か?」
「………………ん」
 下着が血で汚れていたのだろう。説明するのも面倒なので、曖昧にうなずいておいた。
 冷静に考えれば、今の私に生理が来るわけないのだけれど、男の早瀬ではそこまで頭が回らないのかもしれない。
 早瀬は私を脱がし終えて、自分も服を脱いでいく。裸になって、私を抱いてバスルームに入る。
 タイルの上に座った私に、温かい飛沫が降りそそいでくる。
 先刻までの、冷たい雨の飛沫とはまるで違う、身体の中に染み込んでくるような温もり。
 全身に万遍なくお湯がかけられていく。
 その途中で、早瀬は左手首の傷を確認している。すぐに手当てが必要なほどの怪我ではないと判断したのか、傷はそのままにしてシャワーを優先した。
 芯まで冷えきっていた身体が、徐々に温まっていく。
 しかし、そのせいでさらに眠くなってしまう。
 瞼を閉じて、早瀬に寄りかかるような体勢になる。
 肌が直に触れ合う感覚が心地よい。
「北川……具合、悪いのか?」
 早瀬が訝しげに訊いてくる。
 さすがに、単に寒いとか疲れているとかだけではなく、様子がおかしいと気づいたようだ。
「……眠い……だけ。…………睡眠薬……飲んだから……」
「――っっ!」
 早瀬が息を呑む。
「北川、まさかっ!?」
 切羽詰まった口調。慌ててバスルームを飛び出して119に電話しそうな勢いだったけれど、間一髪、脚にしがみつくようにして止めるのに間に合った。
「…………勘違い……しないで。普通に……規定量くらい、しか……飲んでない」
「あ、……そ、そうなのか? 本当に?」
 肩を乱暴につかんで、身体を揺するように何度も念を押す早瀬。
 半分眠ったような状態のまま、こくん、とうなずく私。
 遠藤から数日おきにもらっていた睡眠薬は、実際のところ、木野のおかげで使わない日も多かった。
 だから遠藤の思惑に反して、手元にはまとまった量が残っていた。
「……ただ……眠いだけ……危険は、ないわ。でも……車を運転する場合は、どうかしら?」
「…………、北川……?」
 早瀬の眉間に皺が寄る。
「……パパの運転って……普段からすごく乱暴で、スピードを出すの。……激しいセックスで疲れた後に……睡眠薬入りのビールを、私の何倍も飲んで…………そんな状態で、急いで車を走らせて……」
 口元がほころび、歪んだ笑みが浮かぶ。
 ふふっと笑いが漏れる。
「……いったい……どうなるのかしらね?」
 きっと、なにも起こらない。
 空港まで、なんとか持ちこたえるかもしれない。
 どうしても眠ければ、車を停めて仮眠をとるかもしれない。
 事故を起こしたとしても、エアバッグとシートベルトで助かるかもしれない。

 だけど……

 そうじゃない、かも、しれない。
 対向車線に飛び出して、大型トラックと正面衝突することだってあるかもしれない。

 実際のところ、どうなるのかはわからない。
 だけど、私の中では、パパは死んだ。
 私が、殺した。

「ど……どうして……」
 早瀬の声は、微かに震えていた。
 目を開ける。
 バスルームの鏡に、私が映っている。
 狂気を孕んだ笑みを浮かべている。
 早瀬が恐怖を覚えるのも無理はない、と納得してしまう表情だった。
「……どうして?」
 首を傾げて、早瀬の台詞を繰り返す。
「私とパパの関係を知っているあなたが、それを訊くの?」
 パパにどれだけひどいことをされてきたか、早瀬はよく知っている。
 むしろ、私自身よりも理解できるのではないだろうか。私は、自分がどれほどパパのことを愛しているか知っているから。
「あ……いや、そうか……そうだよな」
 自分に言い聞かせるように、言葉を絞り出す早瀬。
 その腕の中で、もたれかかってまた目を閉じる。
 睡魔がさらに勢力を増して押し寄せてくる。
 お湯の温もり。
 早瀬の体温。
 心地よくて、もう、夢の中にいるような感覚だった。
「……私、パパのことが好きよ。無理やり妊娠させられて……無理やり流産させられて……それでも、世界でいちばん、誰よりも愛してる。……悪いけど、パパに比べたらあなたの地位なんて〈その他大勢ではない〉っていう程度のものだわ」
「……そりゃ、まあ、そうだろうけど」
 うなずきつつも、少し傷ついたような口調になっている。感情を表に出さないようにしているけれど、完全には隠しきれていない。
「……そして……愛しているのと同じくらい、パパのことが大嫌い。この世の誰よりも憎んでいる。一度や二度殺したって、ぜんぜん足りないくらい」
 そんな感情をグラフにしたら、プラスもマイナスも極限まで振り切った線になるだろう。平均すれば〈ゼロ〉であっても、線が上下に振れない〈その他大勢〉への想いとはまったく違う。
「……それは……危ういバランスの綱渡りみたいなもの……五年以上も続けてきたんだもの、……一度くらい、踏み外すことだって、あるわ」
 下が見えないほどの高所での綱渡り。一度踏み外してしまえば、もう戻ることはできない。奈落まで墜ちるしかない。
 それで、一巻の終わり。

 ――の、はずだったのに。

 墜ちかけた私を捕まえて放さない、強靱な腕がある。
 小さな私の重みなどなんでもないという風に、微塵も揺るがない鋼のような筋肉の塊。
 早瀬が、私を抱きしめる。
「男の理屈と、女の本能……この前、そんな話をしたよな?」
「…………ええ」
「確かに、その通りだ。北川のこと、遠藤先生や木野にも話したんだ。ふたりとも、俺なんかよりもずっとショックを受けてた。理性ではともかく感情的には、もうだめかもって思ってる雰囲気だった」
「……でしょう?」
 遠藤や木野は、理解してくれる。
 女、だから。
 これで私のことを諦めてくれれば、余計なしがらみがなくなる。

 なのに――

 早瀬だけは、私を抱く腕にさらに力を込めている。
「だから……俺なんだよ。今の北川に必要なのは「それがどうした」って言える、男の理屈を押しつけることだ」
 けっして乱暴ではない、しかし、けっして放さないという強い想いが込められた抱擁。
「……胎児とも呼べないような、小さな細胞の塊が死んだからって、なんだっていうんだ。俺にとってはそんなものより北川の方が大切だ。それは……生まれてこなきゃ、それは生命じゃない」
「…………だから……そんなの、女には受け入れられない理屈だって」
「そうだな。なんたって男は、毎日のように、何億っていう数の細胞を無為に死なせて平然としてるんだから」
 一回の射精に含まれる精子の数は、億の単位になる。それは、すべて生きている細胞なのだ。
「……あなたの場合、並の日本人とは桁が違いそうね」
「それは、単なる一個の細胞だ。だけど、まるで単細胞生物のように、俺の身体から独立して活動してる。中学の時、好奇心から自分の精液を顕微鏡で見てみたことがあるんだ。なんかちっちゃなものが、無数に蠢いてた。ほとんど動かない身体を作る細胞と違って、いかにも〈生きてる〉って感じだった。でも俺は、精子の死なんて悼まない。毎日、出したいだけ出してやる。……それも、できれば北川の中がいいな」
 力強く私を抱きしめたまま、首筋に唇を押しつけてくる。
「……そう……男って、そうよね。毎日、億単位の死を平然と受け流してるのよね。当然の、日常生活の一部として」
「……女だってそうさ、自覚してないだけで。北川は、ヨーグルト食う時に乳酸菌の死を悼むのか? 生きたまま腸に届くなんて謳い文句、あれ、嘘だぞ。何十万、何百万って乳酸菌のほとんどが、腸に達する前に死滅するんだ」
「…………やめてよ、ただでさえヨーグルト苦手なのに、食べられなくなるじゃない」
「理屈の上では、そうなるんだ。感情的には受け入れられないだろうけど。……それでも、構わない。北川が受け入れようとしなくても、俺がつかまえていて、この価値観を無理やり押しつけるから」
 言葉が、理屈が、通じなければ、力ずく。
 ある意味、とても男らしい傲慢さともいえる。
 しかし今の状況において、それもひとつのやり方かもしれない。いくら正論を積み重ねたところで、今の私は聞く耳を持っていない。
 感情的には、絶対に納得できない、受け入れられない。
 だから、無理やり、力ずくで押しつける。
 遠藤や木野にはできないだろう、男の早瀬ならではの傲慢で強引な解決策。
 それはけっして根本的な解決ではないし、唯一無二の正しい解決策でもない。
 しかし、力が常に正義ではないように、時には力でしか解決できないこともある。
「もう、絶対に放さない。俺がいる限り、北川の、心も、身体も、絶対に死なせない」
「……なんで……よ…………」
 そんな早瀬の想いを拒絶したいのに、できない。
 木野や遠藤の腕ならなんとか振りほどけても、私の細腕では、この豪腕から逃れることはできない。
 そしてなにより、私の中にひとりだけ、助けを、早瀬を、求める〈私〉がいる。
「……なんで……そうまでこだわるのよ」
「北川のことが好きだから。それ以上の理由がいるか?」
 まるで考えることを放棄したかのような、単純明快な答え。
 単純すぎるが故に、反論することも難しい。
「……私なんて……絶対に狂ってるし、頭悪いし、淫乱だし、カラダ売ってるし、抱かれた男なんて数え切れないほどだし、それに、実はすっごい我侭だし、自分勝手だし、嫉妬深いし……そして……人殺し、だし……」
 おそらく早瀬は、そうした言葉のひとつひとつに反論することもできただろう。
 しかし彼が選んだのは、言葉の代わりに、私を抱きしめる腕にさらに力を込めることだった。
 痛いほどの、苦しいほどの、一方的な、なのに優しい抱擁。
「そりゃ正直に言えば、北川のこと、嫌なところもあるさ。俺以外の男として欲しくない、とかな。我ながら面倒な女に惚れちまったって思うこともある。……だけど、それ以上に好きなところの方が多い。好きと嫌い、差し引きでプラスなら〈好き〉だろ」
 返事の代わりに、早瀬の腕に力いっぱい噛みついた。
 なんの手加減もしない。
 口の中に、血の味が広がっていく。
 顎の力を緩め、傷から流れ出た血を舐めとる。
「……こんなこと、されても?」
「俺は北川に、もっと痛いことしてきたし……これからも、たぶん、たまにはするし」
「…………」
 もう、だめだ。
 いつ眠りに落ちてしまってもおかしくない今の状況では、早瀬の力に対抗することはできない。
 とりあえずは降参するしかなかった。それが今だけの一時的な撤退なのか、それとも全面降伏なのか、目覚めてみなければわからないけれど。
「……もう、いい……この前の宣言は撤回。……もう……起きていられない……ベッド、連れてって」
「ああ」
 早瀬はシャワーを止めると、私を抱いてバスルームを出た。
 バスタオルで簡単に私の身体を拭いて、また抱き上げて自室へと連れていく。
 ベッドの上にそっと横たえ、自分はベッドの端に腰を下ろして、私の頭を優しく撫でる。
 無意識のうちに、その手を掴んで指を口に含んでいた。それはフェラチオを模した愛撫というよりも、本能のまま乳首に吸いつく赤ん坊のような動作だった。
 しばらくそうしていて、薄く目を開けて早瀬を見あげる。
「…………添い寝」
 自分で思っていたよりも、甘えた声になった。
「……いいのか?」
「……誰か……いてくれないと、眠れない」
 それは多分、早瀬でなくてもいいのだろう。だけど、今ここには早瀬しかいない。
 だから、早瀬でいい。
 早瀬がいい。
 やや遠慮がちにベッドに入ってきた大きな身体に、しっかりとしがみつく。
 筋肉に覆われた広い胸に顔を埋める。
「……あなた……すっごい莫迦よ。私……パパも、赤ちゃんも……私の、愛した人を、みんな殺しちゃった」
 言葉にすると、また、涙が溢れてくる。
「…………きっと……次は、あなたね」
 もう、誰も死なせたくない、殺したくない。
 なのに、心の奥底、ずっと深いところに、それとは真逆の衝動を抱えた〈私〉がいる。
 黒い感情が渦巻いている。
 パパ、そして自分の赤ちゃん。
 最愛の人を殺してきたのだから、次に愛した人も殺さなければならない――と。
 そんな、想い。
 それが、愛していることの証。
 私の、愛情表現。
 パパの娘だから、愛情表現はやっぱり歪んでいる。
「……心配するな」
 早瀬の指が、軽く頬をつまんだ。
「その時は、返り討ちにしてやるから。……それで、いいんだろ?」
 冷静に考えればかなり物騒な台詞。
 だけど、私にとってそれは甘い愛のささやきであり、また、心やすらぐ優しい子守唄でもあった。
「……ん」
 小さくうなずいて、
 口元に笑みを浮かべて、

 そして、私は、眠りについた。

前の章 目次

(c) yamaneko nishisaki all rights reserved.