悠樹たちを乗せた車はしばらく走って、古くからの高級住宅地の一画に立つ、和風の邸宅で停まった。
 庶民の悠樹にとっては民家であることさえ信じられないような広さの敷地だったが、老舗の高級料亭のような立派な門に『嘉~』という表札が掲げられていたところを見ると、愛姫の家なのだろうか。
 高橋に促され、神流を抱きかかえたまま車を降りる。
 玄関で悠樹たちを出迎えたのは、二人のメイドだった。
 メイドといっても、秋葉原のメイド喫茶にいるような萌えを強調したものではなく、バッキンガム宮殿で働いているのが似合いそうな、派手さはないが伝統が感じられる正統派の容姿だ。もちろん悠樹は、コスプレではない『本物』のメイドを目の当たりにするのは初めてだった。
 家の大きさといい、使用人がいることといい、愛姫は正真正銘のお嬢様なのだろうか。確かに、高貴な雰囲気を漂わせてはいる。
 広い応接間に通される。悠樹の感覚では『広大な』と表現したくなる広さだ。
 神流を抱えたまま、勧められたソファに腰を下ろす。柔らかなソファに身体が埋もれる。
 神流はそのあたりに放り出しておけばいい、と愛姫は敵意のこもった口調でいったが、まさかそんなわけにはいかない。愛姫が神流に対して殺意を抱いている以上、意識のない神流は常に傍に置いておくべきだと思われた。
 幸い、小柄な神流はさほど重くない。というよりもむしろ軽い。
 出血はほぼ止まっていたが、まだ意識は戻らないようだ。高熱に冒されている時のように、紅い顔で苦しそうな呼吸をしている。
 もう夜も遅い。小柄なメイドが、悠樹と高橋にコーヒーを出してくれた。愛姫は紅茶党のようだ。
 もう一人の、細身でショートヘアのメイドが、まだ出血し続けていた悠樹の腕の怪我を手当てしてくれた。
「……で、いったいなんだったんですか、あれは?」
 ひと段落ついて、コーヒーカップが半分ほど空になってからようやく口を開いた。気になって仕方ないことではあったが、ここまでなかなか訊ける雰囲気ではなかった。
「なにに見えた? 君は、どう思っている?」
 穏やかな口調で応えたのは高橋だった。
 愛姫は相変わらず無表情を装っているが、やや不機嫌そうに見える。黙ってカップを口に運んでいるのは、悠樹の質問に答えない口実づくりかもしれない。彼女がまともに相手をしてくれることは、あまり期待できそうにない。
「なに、って……」
 逆に訊き返されて、一瞬答えに詰まった。
 先ほど見た光景を思い出す。
 人間が、突然狼に姿を変えて、女性を喰い殺した。
 それが意味するところは明白だが、口に出してしまうとあまりにも非現実的だ。
「お……狼男?」
「そうだね」
 高橋がうなずく。
「男とは限らないから、正確にはワーウルフとかライカンスロープとか呼ぶべきかな。もっと正確にいえば、すべてが狼とは限らないし、獣の姿に変化するとも限らないんだが。しかし、伝説やフィクションの中にしか存在しないと思われているそうした怪物は、実在するんだ」
「……とても信じられない、っていいたいところですね」
 常識で考えれば、そうだ。
 しかし、自分の目で見てしまった。
 人間の姿から、狼に変身した男。
 金色の狼の姿から人間の女の子になり、また狼に変身し、最後にまた女の子の姿になった神流。
 そして、不可思議な方法で狼を殺した愛姫。
 どれもこれも、これまでの悠樹の常識ではあり得ない、超常の出来事だった。
 とても信じられない。
 だけど目の当たりにした以上、存在を認めないわけにはいかない。 
「ああいった怪物たちを、我々は〈鬼魔〉と総称している。有史以前から、世界中に存在していた魔物たちだ」
 たしかに、獣と人間のふたつの姿をとる魔物の伝説は世界中でポピュラーなものだ。狼をはじめ、虎、蝙蝠、馬、南米ではジャガーや海豚まで、様々な動物がそのモチーフとなっている。
 なぜ、世界中に同じような伝説が残っているのか。「それが実在したから」というのも解釈のひとつだろう。
「鬼魔には狼以外の姿をとるものも多いが、共通する特徴がある。人間はもちろん、同形態の獣も遙かに凌駕する身体能力を持つ。人間の姿になれる。小さな刃物や拳銃程度では傷も負わせられない。強力な武器を用いても、常軌を逸した生命力と回復力のため、とどめを刺すのは極めて困難だ」
 指折り数えながら話す高橋。
「そして……これがいちばん重要な点だが、鬼魔は、人間の血肉を喰らう」
「――っ!」
 あの、公園で見た衝撃の光景が脳裏に甦る。
 思い出しただけで胃液が逆流しそうになる。
 そう。狼は、人間の女を喰っていた。
 伝説に登場する獣人も、その大半が人間に害なす存在だ。
「けっして、人間が主食というわけではない。生命活動を維持するだけなら人間と同様の食事でも問題はなく、人肉にこだわる必要はない。しかし人間の肉や体液は、鬼魔の能力を飛躍的に向上させる霊的な力を持つ。その効果は……君にわかりやすくいうなら、アスリートのドーピングというよりも、ゲームのパワーアップアイテムのようなものだな」
「そんなに……極端な違いが?」
「だから、鬼魔は人間を狙う。しかし、鬼魔の数は人間に比べればごくわずかだ。だから気づかれない。普通の事故や自殺、あるいは失踪者の数は、日本だけでも年間何万人といる。その中に紛れてしまう程度の数だ。とはいえ、年間四桁の犠牲者は、無視できる数ではない」
「四桁? 事故や自殺、失踪が何万人いたとしても、千人も殺されていたら隠しようもないでしょう?」
「普通の獣による被害なら、そうだろうな。しかし、相手が鬼魔となると事情が違う。超常の力と、人間と同等の知能を併せ持っている上に、人間を魅了する能力を持っているんだ。力ずくで襲う必要はない。当然、証拠を残す可能性は低くなる」
「魅了……?」
 訊き返したところで気がついた。
 サキュバスやインキュバスはもちろん、アハ・イシカ、そしてメジャーなドラキュラ伯爵など、人間の異性を誘惑して獲物とする魔物の例は多い。
 初対面の相手でも簡単に魅了できるとしたら、人気のないところに誘い出して襲うことも簡単だろう。死体を上手に処分すれば、単なる失踪として扱われ、大きな事件にはならない。
「人間社会に対する致命的な脅威、というほどではないが、しかし放置しておけるものでもない。だから、人間たちは昔から、鬼魔と戦い続けてきた。それは現代でも変わらない。人間の脅威となる鬼魔と戦い、同時に、鬼魔の存在を隠すことが僕らの仕事だ」
「隠す? どうして隠すんですか?」
「鬼魔の存在が公になることで起こるパニックによる被害の方が、実際の鬼魔による被害よりも遙かに大きくなると予測されているからだ。なにしろ、精密検査でもしない限り人間と区別がつかないんだ。ひとつ間違えば、中世の魔女狩りの再現になる」
「仕事、っていいましたよね? つまり高橋さんは本物の警官で、鬼魔との戦いが公的な任務なんですか?」
「そう。表向きは対テロリスト専門の部署ということになっているが、実際は鬼魔がらみの事件を扱っている。まあ、一般市民の中に紛れ込んだ脅威という点では似たようなものだ」
「じゃあ、彼女……愛姫は?」
 高橋の身分が本物だとすると、高校生の愛姫が正式な『同僚』ではあり得ない。しかし公園での様子を見る限り、協力して鬼魔と戦っているのは間違いない。
 ちらりと愛姫を見る。相変わらず不機嫌そうな表情で、悠樹を無視している。
「鬼魔と戦う能力を持った、数少ない人間の一人だ。伝説の狼男や吸血鬼がそうであるように、現実の鬼魔も簡単には殺せない。ナイフはおろか、拳銃ですらほぼ無力だ。22口径では玩具も同然で、大口径の拳銃でも鬼魔にとってはかすり傷だ。一般的な9ミリパラベラム弾では足止めにもならない」
「もっと強力な……ライフルとか機関銃なら?」
「多少なりとも有効なダメージを与えようと思ったら、50口径の対物ライフルや重機関銃、あるいは爆弾が必要になる。息の根を止めようと思ったら、灰になるまで焼き尽くすか、全身が肉片になるまで重火器で破壊し尽くすしかない。街中でそんなことができると思うか?」
「無理、ですね」
 鬼魔の存在を秘密にしたいのであれば、日本では拳銃すら容易には使えない。銃の使用が珍しくない米国でも、街中で重火器を使うのは難しいだろう。
「よほどの非常事態でもない限り、重火器で鬼魔と戦うのは現実的な選択肢ではない。しかし鬼魔がオカルト的な存在であるのと同様に、奴らを倒せる超常の能力を持った人間も存在する」
「それが、愛姫だと?」
「姫ちゃんはその第一人者だよ。嘉~の家は何百年も前から鬼魔と戦ってきた一族なんだ。ほとんどの場合、鬼魔との戦いはそうした人間に頼らなければならない。僕らの仕事はそのサポートが主だな」
「なるほど……」
 もう一度、愛姫を見る。たしかに、いわれるまでもなく神秘的な雰囲気をまとっている。巫女装束を着せたら似合うかもしれない。
「退魔の力を持つ者の多くは、単に、鬼魔に普通にダメージを与えられるというものだ。だけど、嘉~家の人間の力は特別なんだ」
「特別って?」
「嘉~の血は、普通の人間とは比べものにならないくらい鬼魔を惹きつけ、力を与える」
「いや……それって、かえって不利なんじゃ?」
「もちろん、それだけじゃない。嘉~の血は鬼魔に力を与える分、鬼魔を傷つける能力に関してもずば抜けている。なにより嘉~の一族ならではの能力として、自分の血肉を与えた鬼魔の肉体を、自由に操ることができる。姫ちゃんが狼を倒すところを見たか?」
 先ほどの、戦いの光景を思い出す。
 愛姫は刀で自分の腕を傷つけ、刃に血を付けていた。その刀で狼を斬りつけていたが、与えたのはほんのかすり傷だけだった。
 そして……
「死ね、っていってた」
「そう。だから狼は死んだんだ。姫ちゃんの言葉に従って、ね。〈魅魔〉と呼ばれている極めて特殊な能力だ。鬼魔を魅了し、操ることができる。とはいえ、言霊だけで即死させるほどの強力な力を持つのは、嘉~の一族の中でもごく一部の人間だけだがね」
「……」
 高橋のいう通りなら、とんでもない力だ。たしかに、それなら街中でも魔物たちを殺すことが可能だろう。自分の血を付着させた武器でわずかな傷でも与えれば、それで致命傷にできるのだ。
 とはいえ、実行するには勇気がいる。いくら鬼魔に対する必殺の武器があるとはいえ、刀の間合いは、相手の牙や爪とさほど変わらない。そして素速さや腕力という点では、人間は鬼魔にはとうてい及ばない。なのに愛姫は、怯む様子など微塵も見せずに狼たちと渡り合っていた。
「すごいんだな、愛姫って」
「……なにを、他人事のように」
 久しぶりに愛姫が口を開いた。相変わらずの冷たい口調だった。
「貴方も、魅魔の力を持っているはずです」
「へぇ…………、って、えぇっ? なんだって!?」
 一瞬、なにをいわれたのか理解できなかった。まったく予想もしていなかった台詞だった。
 愛姫が言葉を続ける。
「貴方の腕に咬みついた狼が、「やめろ」といった時に動きを止めました」
「あ……いや、でも、偶然じゃね?」
「それに、その狼」
 悠樹の腕の中で眠っている神流を指差す。
「貴方のこと、妙に気に入っていました」
「それは……ほら、俺にひと目惚れしたとか?」
 そんな台詞は完璧に無視される。
「狼の姿では、鬼魔としてはかなり小柄な個体です。なのに、ふた回り以上大きな相手と互角に戦っていました。相手も人間の血に不自由している個体ではないのに、あり得ないことです」
 同種の獣同士の戦いでは、普通、身体の大きさの差がそのまま強さの差となる。それは鬼魔同士の肉弾戦でも同様なのだと愛姫はいった。
「そこで、貴方の血を口に含んでみたのです。間違いありません。ただの退魔の力ではありません。魅魔の力を持つ血です」
「そんな……だって、魅魔の力を持っているのはこの家の一族だけじゃないのか?」
「魅魔は極めて珍しい力だが、完全に嘉~家限定ってわけではない。突然変異か、あるいは記録から漏れている古い分家からの隔世遺伝か……それはいま調べている」
「調べて?」
 高橋はポケットから、スマートフォンと思しき携帯端末を取り出した。
「犬神悠樹、五月二十日生まれの二十歳。都内の私立大学の三年生、経済学部。中学生の時に両親を事故で亡くし、母親の妹である叔母に引き取られた。今は都内のマンションで、叔母と従妹との三人暮らし。両親の遺産と保険金で、経済的には特に問題はなし。父親は大手電機メーカーの社員で、母親は専業主婦だった。どちらも嘉~家や、他の退魔師の一族との直接のつながりは確認できていない。ちなみに、犬神というのは母方の姓だな」
 端末の画面を読み上げる高橋。
 驚いた。学生証を見せてから今までのわずかな時間で、個人情報は丸裸にされているらしい。これが国家権力の力か、とぞっとする。
「君と、嘉~家とのつながりは今のところ確認できていない。だけど、なんらかの関連があるはずだ」
「なにを根拠に?」
「犬神というのは、狼のことです。偶然にしては、できすぎではありませんか?」
 血を思わせる深紅の瞳が、まっすぐに悠樹を見つめていた。


 遅くなったので、その夜は嘉~家に泊めてもらうことになった。
 正確には、帰してもらえなかったというべきだろう。今は高橋の部下が、悠樹の素性を調べているらしい。そちらがひと区切りつくまで、ちょっとした軟禁状態だ。
 意識を失ったままの神流も、別室に監禁されているはずだ。愛姫と悠樹の血を染み込ませた、鬼魔の力を抑える首輪を嵌められ、結界を張った部屋に閉じ込められている。
 神流と引き離されることに不安はあったが、危害は加えないと愛姫が――渋々ではあるが――約束してくれたので、受け入れることにした。
 あてがわれた客間で、布団に横になっている悠樹。
 もう真夜中過ぎだが、まったく眠くはなかった。今日はいろいろと衝撃的な出来事が多すぎて、神経が昂って眠るどころではない。
 布団から起き上がって、窓を開けた。南に面した部屋なのだろう。大きな満月が空の高い位置にあるのが見えた。
「そういえば、伝説のワーウルフは満月になると力が強まるんだっけか……」
 今日が満月であることと、今夜の事件と、なにか関連があるのかもしれない。
 もしかしたら、神流と出会ったことにも。
 月明かりに照らされて輝いていた、黄金色の狼の姿を思い出す。
「大丈夫かな……可愛い子だったよな」
 初めて見た瞬間から、魂が囚われるような魅力を持った金色の瞳。
 今になって思えば、当然のことだ。相手は、人間を魅了して誘い出し、喰い殺す力を持った魔物なのだから。
 しかし、あの雄の狼たちはともかく、神流もそうだとはいまだに信じられない。
「どう見たって、とびっきり可愛い女の子だよな……」
「それって、ボクのこと?」
「――っっ!?」
 自分ひとりしかいないはずの、しかも深夜の部屋で、なんの前触れもなしにすぐ背後からの声。
 驚きが大きすぎて、悲鳴も上げられなかった。大きすぎる悲鳴に喉を塞がれてしまったかのようだった。
 弾けるような動作で振り返る。
 すぐ目の前に、月明かりを反射して黄金色に輝く大きな瞳があった。
「か……神流?」
 いつの間にか、背後に神流が立っていた。それも、身体が触れそうなほどの至近距離だ。
 見ると、部屋のドアが開いていた。小柄な女の子がぎりぎり通れるかどうか、というくらいに。
 しんと静まりかえった深夜だというのに、まったく気づかなかった。物音をいっさい立てず、気配すら感じさせずに部屋に入ってきたというのだろうか。
 人間にできることではない。
 全裸のまま寝かされていたはずの神流は、細身のサマーセーターと長いスカートを身に着けていた。スカートが長すぎるところを見ると、愛姫の服だろうか。タイトスカートは動きにくかったのか、横の部分を切り裂いて、深いスリットの入ったチャイナ服のようになっていた。
 そして、首には深紅の首輪。愛姫の説明によれば、この封印は神流本人では外せないのだという。
「か……神流、どうして……」
 どうして、ここにいるのだろう。
 意識を失っていて、しかも、結界を張った部屋に閉じ込められていたはずなのに。
「動けるようになったから、帰ろうと思って。その前に、お礼をいっておかないとね」
「お、お礼?」
「ボクのこと、庇ってくれたでしょ?」
 にぃっと、悪戯な笑みを浮かべる神流。大きな瞳の輝きが増す。
「き、聞いてたのか?」
 完全に意識を失っていたと思っていたのに。
「ん、動けなかっただけで、いちおう、ぼんやりと意識はあったよ。だから……お礼?」
 神流がさらに距離を詰めてくる。
 大きな胸が触れてくる。
 両腕が、悠樹の首に回された。
「こーゆーコトで、お礼になる?」
 小さく首を傾げる神流。唇の間隔はもうほんの数ミリしかない。唇の動きによって生まれる空気の流れさえ感じられる。
 黄金色の瞳が、視界いっぱいに広がっている。
 唇が、触れた。
 軽く触れたところで一瞬だけ動きが止まり、すぐに力強く押しつけられた。
 腕に力が込められ、しっかりと抱きしめられる。
 堪えるように、悠樹も神流を抱きしめた。身体の奥から、そうしたい衝動が湧き上がっていた。
 腕の中にすっぽりと収まる、小さな身体。なのに、胸が当たる感触はこれ以上はないくらいに明瞭だ。空気を入れすぎたソフトテニスのボールのような、柔らかいのに弾力に富む膨らみだった。
 身体が熱くなる。
 健康な二十歳の男子として、当然、可愛くてスタイルのいい女の子は大好きだ。しっかりと抱き合って濃厚なキスを交わしていれば、冷静ではいられない。
 発育のよすぎる胸を除けば、小柄で華奢で童顔で、むしろ子供っぽい神流。なのに、どうしようもなくそそられてしまう。特にロリータ嗜好はないはずなのに。
 舌を伸ばし、神流の口中に挿し入れる。
 その瞬間、舌に鋭い痛みが走る。
 神流の鋭い犬歯が、舌に突きたてられていた。鉄錆の味が口の中に広がっていく。
 なのに、その痛みさえ気持ちいい。いっそう興奮してしまう。
「ん……ぅ、ん……ユウ、キぃ……」
 神流の吐息も熱い。
 潤んだ瞳で頬を紅潮させ、さらに身体を密着させてくる。脚を絡ませるように下半身を押しつけてくる。
 神流の体温を感じて、下腹部が大きさと硬さを増していく。
 キスだけでは我慢できない。むしろ、よりいっそう昂るだけだ。
 もっと、もっと、神流を感じたい。男性器のサイズに比例するように、そんな衝動が膨らんでいく。
 神流の背中に回していた手を、下へ滑らせていく。
 お尻の膨らみに手をかけて、下半身を押しつけるように抱き寄せた。
「あ、ん……」
 胸に比べると、けっして大きくはないお尻。しかし心地よい弾力が手に伝わってくる。
 嫌がっているのか、それともさらなる快感を求めているのか、身体を捩る神流。その動きがまた下半身を刺激する。
「神流……いいか?」
 だめ、といわれたら無理やり押し倒してしまいそうなくらいに昂っていた。とはいえ、拒絶されないだろうという予感、いや確信があった。
「ボクと……えっち、したいの?」
 答えの代わりに、抱きしめる腕に力を込めた。
 したい。
 神流を抱きたい。貫きたい。
 もう我慢できない。
「……ボク……男の人と、こーゆーコトするの……初めて、なんだ。でも……ユウキとだったら、いい……かも?」
 触られて感じているのか、神流は切なげな声でささやく。
「やさしく……して、くれる?」
「ああ」
「うんと、気持ちよく……して、くれる?」
「もちろん。一緒に、気持ちよくなろう」
「うン……イイ、よ」
 一瞬だけ目を伏せた神流は、すぐに顔を上げてまっすぐに悠樹を見つめた。貴金属のような大きな瞳に、悠樹が映っている。
 口元に、微かな笑みが浮かんでいる。
「あ……その前に、首、ちょっと苦しいんだ。少しだけ、緩めてくれる?」
「……ああ」
 いわれるままに、神流の首に手を伸ばした。
 細い首を彩る深紅の首輪はけっして首を締めつけているわけではなく、見た目にも充分な余裕がありそうな留め方だったが、悠樹はなんの疑問も感じなかった。
 指が、首輪の留め金に触れる。
 その瞬間――

 バチィッ!

 静電気の放電による痛みを、何倍にも強くしたような衝撃が走り、反射的に手を引っ込めた。
 その痛みが、悠樹の意識を覚醒させる。
「……ちぇっ、あの女、性格悪いんだから」
 神流の表情が変化していた。
 一瞬前までの、はにかみながら色っぽく瞳を潤ませた顔ではない。血の滴る生肉の塊を前に舌なめずりしている肉食獣のような、獰猛な笑みだった。
「神流……お前……」
 なにが起こったのか、悠樹も理解した。
 鬼魔は人間を誘惑し、その心を操ることができる。神流は悠樹を操って、自分では外せない首輪の封印を解かせようとしたのだ。
 愛姫に警告されていたのも関わらず、すっかり神流の術中にはまって、なんの疑問も抱かずに首輪を外そうとしてしまった。そうした事態も想定していたのだろう。先ほどの衝撃は、首輪を外そうとした場合に働くトラップに違いない。
「これ、外してくれる?」
 獣の笑みを浮かべたまま、神流が小さく首を傾げる。
「い……いや、それは無理だ」
 愛姫たちに、固く禁じられている。
 力を抑える封印を施していない鬼魔がどれほど危険な存在か、寝る前にさんざん聞かされた。悠樹は心情的には神流の味方だが、それでも今は封印を解くわけにはいかない。
 むしろ、神流のためにも封印は必要といえる。封印を施すことを条件に、愛姫は神流を生かしておくことを許してくれたのだ。
 神流の口調も、首輪を外してくれることを本気で期待しているようではない。
「……ま、そうだろうね。じゃあ……これ、ボクに似合ってる?」
 自分の首輪を指差して訊いてくる。
 うなずく悠樹。
「似合ってる……っつーか、なんか、すっげーエロい」
 つい、本音が口から出てしまう。
 派手な容姿の神流だから、大型犬用と思われる首輪もアクセサリーとしてよく似合っていた。日本人離れした白い肌に、深紅の首輪が映える。そしてなにより、ややSの気がある悠樹にとって、可愛らしい女の子に首輪という倒錯したシチュエーションはたまらない。
 子供っぽい神流なのに、ひどくエロティックな印象だった。
「やっぱり、エロいよね? ボクもそう思った。でもまあ、似合ってるっちゃ似合ってるし、とりあえずはこのままでいっか。斬新なアクセサリってことで」
 小さく肩をすくめた神流は、開けたままの窓に近づき、こちらに振り返って窓枠に腰かけた。
 月光を背に、小柄な少女のシルエットが浮かびあがる。
「……あの女に邪魔されたくないし、続きはまた今度ね。じゃあ、『おやすみ』、ユウキ」
「あ……おい!」
 神流が窓から外に飛びだした。
 一度、地面を軽く蹴っただけで、嘉~家の敷地を囲んでいる高い塀も軽々と跳び越える。
 人間には真似のできない身体能力だった。
「……あの首輪、鬼魔の力を抑えるんじゃなかったのか? つか、そもそも神流は閉じ込められていたんじゃないのか?」
 とにかく、愛姫に知らせる必要があるだろう――そう思ったのに。
 脚を踏み出そうとした瞬間、不意に、猛烈な眠気に襲われた。
 意思に反してまぶたが重くなる。脚から力が抜ける。
 立っていることもできなくなって、布団の上に倒れ込んだ。
「こ……れ、は……?」
 たちまち、意識が溶けていく。
 別れ際の神流の「おやすみ」という言葉が、人間を操る鬼魔の能力の片鱗だと気がついたのは、翌朝、目を覚ましてからのことだった。

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