バイトの帰り、悠樹はまた公園の中を歩いていた。
 仕事が終わった後、バイト仲間と話し込んで、すっかり遅くなってしまった。外はもう真っ暗だ。
 白色LEDの街灯の無機的な光が、人の気配のない公園をぼんやりと照らしている。
 周囲に人の姿はない。もともと平日の夜に人通りの多い場所ではないが、今夜は特に人の気配がないように感じる。
 こんな時に、女の子とふたりだったらいい雰囲気になるだろうな、などと思う。
 人通りはないし、ベンチや小さな林、あるいは植え込みの陰など、〈お楽しみ〉に最適な場所はいくらでもある。
 残念ながら、今の悠樹は独り身だ。結子など、大学に仲のいい女友達はいるが、まだ友達以上の関係にはなっていない。
 ふと、夕方にここで出会った美少女のことを思い出す。
 嘉~、愛姫。
 男としてはぜひともものにしたい美少女だった。しかし、普通の男女交際でキャッキャウフフできるような相手ではないだろう。
 見るからに高嶺の花すぎる。親しくなるのも難しそうだ。
 なにかあれば連絡を――といっていたが、事件などなにもなかった。ほんの少しでも変わったことがあればそれを口実に電話してみようと目論んでいたのだが、バイト先である運送会社の倉庫で、いつも通り荷物の仕分けの仕事。なにも変わったことなどなかった。これでは愛姫に連絡を取るのも難しい。
 なにしろ、気軽に誘える雰囲気の相手ではない。先刻の、とりつく島のない素っ気ない態度を考えると、彼女と付き合う自分の姿を想像するのは困難だった。ベッドの中の愛姫の姿など、想像しようとすることすらできないほどだ。
 そんなことを考えながら歩いていると、かすかに声が聞こえた。
「……ぁ……ゃ、ぁぁっ!」
 甘い、切ない、女性の声。
 思わず脚が止まる。なんの声か、わからないほどウブではない。
 人気がないのをいいことに、夜の公園でイイコトをしているカップルがいるのだろうか
 なんとなく、面白くない。
 自分は独り者なのに。
 今日はとびっきりの美少女に玉砕したのに。
 今夜はバイトで、ひとり寂しく帰るところなのに。
 むかつくから、盗撮してネットにばらまいてやろうか――などと不届きなことを考える。
 それを実行するかどうかはともかくとして、とりあえず覗いてやろう。こんな野外でやっている方が悪いんだ――と、自分も夜の公園でした経験があることは棚に上げて正当化。
 気配を殺して、声のする方へと近づいていった。
「……あぁっ! あぁぁんっ! ……す……ごいぃっ、あぁぁっっ!」
 だんだん、声が大きくなってくる。
 鼻にかかった甘ったるい声。
 心底、気持ちよさそうな声。
 嫌がっているような様子はない。犯罪の可能性はなさそうだ。だとすると、やっぱりただの青姦好きのカップルだろうか。ならばこちらも遠慮なく覗くことができるというものだ。
 芝生の上に、重なるふたつの影が見えた。
 悠樹は慎重に近づいて植え込みの陰に身を潜めると、息を殺して様子を窺った。
 芝生の上で、四つん這いになっている女。
 その背後から覆いかぶさるような体勢で、女を貫いている男。
 女は、悠樹よりも少し年上のように見えた。二十代半ばくらいの、OL風の女性。スーツ姿で、スカートがまくり上げられて白いお尻が露わになっている。
 男は大柄で筋肉質で、まるで外国人プロレスラーのような体格だった。大きな手で女の腰を鷲づかみにして、削岩機のような力強さで腰を叩きつけている。
「はぁぁっ! す、ごいっ! すごいぃっ! こんなっ……あぁぁぁんんっ! こんな、すごいのっ……はじっ、めてぇぇっ!!」
 すましていればそれなりに美しいであろう顔を歪ませ、髪を振り乱して悶えている女。
 その下腹部には太い杭のような男性器が突き入れられ、猛スピードで往復している。ディーゼルエンジンのピストンのように力強い動きだ。
「あぁぁ――っっ!! いっイクぅぅっ! もっ、もうぅぅっ! うぁぁぁっ、あぁっ、あぁぁぁ――――っ!!」
 屋外だというのに、なんの遠慮もなく絶叫して喘いでいる。人がいないことを意識しての行動とは思えない。ただただ、快楽に狂っているようだ。
 身体を仰け反らせる。
 自分から腰を押しつけて、痙攣しているかのように激しく振る。
 だらしなく開いた口から涎を垂れ流し、白目を剥いている。
 女の、あまりに激しい感じっぷりに、悠樹は呆気にとられていた。
 青姦とは思えない。普通、屋外でする時はあまり声を出さないように気を遣うものだろうに。そんなことも考えられないくらいに感じているようだ。
 ふと思い出して、携帯電話を取りだした。この暗い場所で、携帯のカメラでちゃんとした写真が撮れるかはわからないが、とりあえず試してみることにしよう。距離はあるし、女が大声で喘いでいるから、シャッター音に気づかれることはあるまい。
 そう考えて携帯電話を開いたところで――
 しかし、手が止まった。
 驚きに目を見開く。
 信じられない光景が、悠樹の視界に飛び込んできた。
 男の姿が、変化していた。
 もともと大きかった身体が、さらにひとまわり大きく膨らんだように見えた。それが目の錯覚ではない証拠に、服が裂ける。
 露わになった肌が、不自然に濃い体毛に覆われていく。
 顔の形も変わっていく。耳の位置が頭の上へ移動し、三角形になる。口吻が伸びて、大きく裂けた口には鋭い牙が並んで……。
 数回、瞬きをする間に、男は大きな獣に姿を変えていた。
 その姿は巨大な犬……いや、狼だろうか。しかし、動物園で見たことのある狼よりもふたまわり以上大きい。光の加減か、灰色というよりも、銀色に近い毛皮をまとっている。
 悠樹は驚愕のあまり固まっていた。視線は、眼前の信じ難い光景に釘付けのままだった。
 女は相変わらず、悲鳴じみた喘ぎ声を上げながら腰を振っている。何度も背後を振り向いて、自分の背後で起こっている変化に気づいていないはずはないのに、驚くそぶりもない。ただ、快楽を貪っている。
 そして、男……いや、狼は……
 口を、大きく開いた。
 並んだ鋭い牙が、街灯を反射して白く光る。冷たい、不吉な光だった。
 牙が、背後から、女の首に突き立てられる。
 顎が、閉じられる。
 その瞬間、女は悲鳴ではなく、ひときわ大きな嬌声を上げていた。
 だらしなく開かれた口から、血飛沫が噴き出す。
 牙が、さらに喰い込む。
 骨が砕ける鈍い音とともに、女の声が途切れた。
 顎が完全に閉ざされる。
 細い首が喰い千切られる。
 芝生の上に転がる生首は、偶然、悠樹にまっすぐ視線を向ける角度で止まった。
 息絶える瞬間の、快楽に浸っていた顔のまま。
「ぅ……ぁ……ぁ…………」
 悲鳴を上げなかったのは幸いだったが、それは自制心の賜物ではなく、単に、驚愕と恐怖のあまり声も出せなかっただけのことだった。
 歯がカチカチと鳴っている。
 腕が、脚が、ぶるぶると震えている。
 目の前では、巨大な獣が、息絶えたばかりの女の骸を貪り喰っていた。
 生肉を喰い千切り、血を啜る、ぐちゃぐちゃ、びちゃびちゃという湿った音を聞いているだけで、気を失いそうになる。胃の中のものが逆流し、喉まで込みあげてくる。
 この場を離れなければならない。逃げなければならない。
 そう思っているのに、腰が抜けたように芝生の上に座り込んだまま、身体が動かせない。
 せめて腕だけでも動かせないか……そう思ったところで、携帯電話を握ったままでいたことを思い出した。そして、はっと気づいた。
 愛姫がいっていた『事件』とは、このことではないだろうか。
 いや、そうに違いない。
 生命に関わるような、だけど警察にもいえないような事件――まさにその通りではないか。
 人が殺された、という点では間違いなく警察沙汰だ。しかし110番に電話して「男が狼に姿を変えて、女を喰い殺しました」なんて、通報できるわけがない。頭がおかしいか、イタズラ電話と思われるのがオチだ。
 思うように動かない震える手で、必死に携帯を操作する。
 アドレス帳から愛姫を選ぶのにも、震える右腕を左手で押さえつける必要があり、それでもひどく手こずった。
 指が震えてキーがうまく打てない。
 なんとか発信ボタンを押した後、呼び出し音が鳴りはじめるまでの一秒間、そして五回の呼び出し音が鳴る時間が、ひどく長く感じた。
 呼び出し音が途切れる。
『はい、嘉~です』
 聞こえてきたのは、無機的で抑揚のない、しかし美しい女性の声。
 間違いない、愛姫だ。
 携帯電話のマイクに口を近づけ、口元を手で覆うようにして声を絞り出す。
「……あ、お、俺、犬神、だけど。ゆ、夕方に公園で会った……」
『はい』
「じ、じ、事件が、……お、狼が……いや、男がいきなり狼に変わって、女を、く……喰ってるんだ! し、信じられないだろうけど、ほ、ホントなんだ!」
 抑えようとしても、自然と声が大きくなってしまう。
「いえ、信じます」
「……え?」
 最後の声は、携帯電話のスピーカーと同時に、背後からも聞こえた。
 反射的に振り返る。
 いつの間に近づいていたのだろう。すぐ後ろに、携帯電話を耳に当てた長身、長髪の女の子が立っていた。
「よ……愛姫?」
「ここにいてください。すぐに終わりますから」
 悠樹の方を見ずにいう。その深紅の瞳は、まっすぐ狼に向けられていた。
 携帯電話をポケットにしまい、手に持っていた布袋の紐を解く。中から現れたのは最初に想像したような竹刀ではなく、白木の鞘に収められた日本刀のように見えた。
 鯉口を切り、ゆっくりと刀を抜く。
 刀身がぎらりと光る。その迫力は、真剣としか思えなかった。
「――っ?」
 その刃を、愛姫は鞘を持つ自分の左腕に押しつけた。
 刀を引く。腕に、刃に、微かな紅い筋が残る。そして、また、刀を鞘に戻した。
 そんな行動の意味がわからずに呆然としている悠樹を残して、愛姫は狼に向かって歩を進めていった。
 一見ゆっくりとした、滑るような足どり。しかし予想以上の速度で狼との距離が縮まる。
 足音が聞こえたのか、それとも気配を感じたのか、狼が顔を上げた。夜行性の獣らしく銀色に輝く瞳が愛姫の姿を捉え、微かな唸り声を上げる。
「最期の食事の時間は、終わりです」
 愛姫の声には、気負いも緊張も感じられなかった。これまでと同じ、抑揚のない無機的な口調だ。
 対して狼は、敵意のこもった声で低く唸る。
 刀の柄に右手を添え、わずかに姿勢を低くして、滑るように足を進める愛姫。それは明らかに武術を修めた者の動きだった。
 刀を抜かないまま狼との距離を詰めていく。抜刀術で挑もうというのだろうか。
 二人、いや一人と一匹の距離が五メートルを切った瞬間、狼が動いた。
 獣ならではの瞬発力で、予備動作なしで一気に跳びかかる。
 同時に、愛姫の右腕が動く。
 なにが起こったのか、悠樹の目では捉えきれなかった。まさに、電光石火の出来事だった。
 キィンッ!
 鋭い金属音。
 刃と、狼の牙がぶつかり合った音。
 狼が飛び退き、また二人の距離が開く。愛姫は、大きく振りあげた刀を鞘に戻した。
 狼は口のあたりを斬られたのか、わずかに血を流していた。とはいえ、かすり傷でしかなさそうだ。ダメージを与えるどころか、ただ怒りを増幅させただにしか見えない。
 次の攻撃を仕掛けるためか、姿勢を低くして後ろ脚のばねを溜めている。
 対して愛姫は低くしていた姿勢を伸ばし、戦いの構えを解いていた。
 腕から力が抜け、右手は柄に添えてもいない。それでも深紅の瞳だけは、力強く狼を捉えていた。
 狼の足が地面を蹴る。
 しかし、愛姫の言葉の方が早かった。
「死になさい」
 静かに、そういった。
 けっして大きくはない声。
 しかし、強い意志が込められた言葉。
 愛姫の言葉に従うかのように、今まさに愛姫に飛びかかろうとしていた狼の身体が地面に転がった。
 勢いあまって二回転し、最後に小さく弾んで動かなくなる。
 その瞳からは輝きが失われ、だらしなく開いた口から長い舌が力なく垂れ下がっていた。
 ぴくりとも動かない。
 呼吸すらしていない。
 悠樹の目には、息絶えているように映った。
 しかし、死因がわからない。口の傷はごく浅いもので、致命傷にはなり得ない。他に傷があるようにも見えない。
 刃に毒物を塗っていたのだとしても、こんな短時間で効果が現れるとは考えにくい。大型獣を毒矢で狩る場合など、仕留めるまでに短くても数時間、長ければ数日もかかるものだ。刀で浅く斬りつけた傷で、一分と経たずに死に至らしめる毒など聞いたことがない。
 腰を抜かしたまま、狼の骸を呆然と見つめる悠樹を、愛姫が振り返る。
「終わりました」
 それだけいって、また携帯電話を取りだした。
「…………愛姫です。こちらは終わりました。狼の死体がひとつ。犠牲者の女性がひとり……はい、間に合いませんでした。それと……」
 一瞬、言葉を切って、深紅の瞳をちらりと悠樹に向ける。
「少々訳ありと思われる目撃者がひとり、こちらは無傷です。後の処理をお願いします…………あ、いいえ、待ってください」
 急に、愛姫の口調が変化した。
 微かに目を細めて周囲を見回す。その表情は狼と対峙していた時よりも険しく、緊張感が漂っていた。
「……獲物は五、六体です。後で連絡しますので、待機していてください。それまで、絶対にこちらへ来てはいけません」
「……え?」
 通話を打ち切った愛姫が近づいてくる。悠樹も、彼女の変化の理由に気がついた。
 いつの間にか、不穏な気配に包まれていた。
 周囲の暗がりに目をこらす。
 わずかな街灯の明かりを反射して光る獣の瞳。
 それが、一対、二対、三対……
 ぐるりと周囲を見渡して、計六対の瞳に取り囲まれていることを確認した。
 じわじわと距離をつめてくる、輝く瞳。やがて身体も見えてくる。
 いずれも、先ほどと同じような姿形の、大きな狼たちだった。
 狼の群が、悠樹と愛姫を包囲している。
 その中の一頭が群のボスだろうか。ひときわ大きく、他の狼たちとは体格にひとまわり以上の差があった。
 油断なく周囲に目を配りながら、刀の柄に手をかける愛姫。先ほどよりも緊張しているのか、表情が硬い。
「狼に包囲されるというのは、最悪の状況ですね」
 独り言のようにいう。
 確かにその通りだ。狼は本来、群れで狩りをする獣だ。六頭の狼に取り囲まれている今の状況、危険度は先ほどの一対一での対峙の比ではあるまい。
「……立てますか?」
 狼のボスに視線を向けたまま、悠樹にいう。それは質問というよりも「立ちなさい」という命令のように聞こえた。
「あ……ああ……」
 いわれて気がついた。男が狼に変身した時に、腰を抜かして座り込んだままだった。
 脚に力を込める。まだ少し震えていたが、なんとか立ち上がることはできた。
 だからといって事態が好転したわけではない。狼を相手に、人間の脚力で走って逃げられるものではない。そもそも周りは完全に囲まれてしまっている。
「包囲が解けたら、全力で逃げてください。運がよければ助かるかもしれません。公園の正面入口近くに、警官がいます」
 愛姫が刀を抜いた。
 また、自分の腕に刃を押しつけて引く。
 刃に、かすかな紅い痕が残る。
「……運が悪ければ?」
「それまで、です。私としても、運のない人間のフォローはできません」
 あっさりという。
 その平然とした口調が、かえって悠樹の不安をかき立てた。
 愛姫は本当に、ただ真実を口にしたに過ぎない。気休めをいう余裕もない証だ。先ほどの電話も、今がどれほど危険な状況かを表していた。
『絶対にこちらへ来てはいけません』
 仲間と思しき相手との通話で、そういっていた。
 それはつまり、仲間の加勢があっても不利な状況が変わらないという意味だ。加勢があれば状況が好転するのであれば、迷わずに呼ぶところだろう。しかし加勢があっても圧倒的不利が変わらないのなら、単に犠牲者が増えるだけだ。
「……行きます」
 愛姫が地面を蹴って跳ぶ。
 同時に、その方向にいた狼の一頭が跳びかかる。
 刀が閃く。
 甲高い叫び声は、愛姫ではなく狼のものだった。
「死ね!」
 短い言葉が、愛姫のもの。
 浅く斬られただけのはずの狼が、着地と同時に地面に転がった。最初の狼と同じだ。
 悠樹は今度こそ確信した。
 狼を倒しているのは、刀傷ではない。
 理屈はわからない。しかし、狼を死に至らしめているのは、愛姫の言葉なのだ。「死になさい」が「死ね」に変わったのは、余裕のなさの表れだろう。
 愛姫が走る。
 残った狼たちが愛姫を追う。
 とうてい逃げ切れない。人間と狼では速度が違いすぎる。
 たちまち取り囲まれる。
 狼は一頭減ったが、代わりに、愛姫はひとりきりで包囲される形になった。
 一対一なら、愛姫は狼よりも強いのかもしれない。既に、二頭の狼を倒している。
 しかし、五頭に一斉に跳びかかられたら、盾にするものもないこの場所で、ひと振りの刀では対応しきれまい。
 狼たちの巨体を考えれば、長身ではあっても細身の愛姫など、簡単に引き倒されてしまうだろう。そうなったらもう為す術はない。
 理屈はわからないが、愛姫は言葉で狼を倒している。しかしそのためには、刀で傷を負わせることが必要なのだろう。そうでなければ、刀など持つ必要はない。包囲されても、ただ「死ね」と命じれば済む話だ。
 悠樹が見る限り、愛姫が置かれた状況はほとんど好転していない。ひとつだけ救いがあるとしたら、狼たちが愛姫を追ったため、悠樹が包囲の輪の外に取り残されたことだろうか。今、悠樹を狙っている狼はいない。
 今なら、逃げられる。
 しかし、動けなかった。
 怖じ気づいて脚が竦んでいた、というわけではない。脚が震えていたのは事実だが、動けないほどではない。
 逃げられない理由は、他にあった。
 気づいてしまったから。
 口では冷たいことをいっていた愛姫だが、自分が囮になって狼を引きつけ、悠樹を逃がそうとしている――と。
 なにも知らずにいたら、逃げていたかもしれない。しかし気づいてしまった以上、男として、年上として、人喰い狼の群の中に女の子をひとり残して逃げられるわけがない。
 かといって、ここにいても悠樹にできることはなかった。この巨大な狼に素手で立ち向かうなんて論外だし、周囲に武器になりそうなものもない。
 自分の無力さを実感してしまう。だからといって、愛姫を見捨ててひとりで逃げることもできっこない。
 愛姫を囲んでいた狼のうち、真後ろにいた一頭が跳びかかった。それでも、背中に目があるかのように反応して刀を振る。
 しかし、狼の動きはフェイントだった。切っ先が届かないぎりぎりのところで跳び退き、同時に死角から他の狼が襲いかかる。
 愛姫はその奇襲にも素晴らしい反射神経で対応したものの、狼の方がわずかに速かった。これまでのように斬ることができず、崩れた体勢でまっすぐに突く形になる。
 狼の爪が愛姫を引き裂くぎりぎりのところで、刀身が狼を貫いた。
「死ね」
 愛姫がつぶやく。
 声はけっして大きくないのに、不思議と、力強さが感じられる言葉。
 愛姫の言葉には、狼を殺す力が込められていた。
 串刺しにされた狼が身体を強張らせ、血を吐いて絶命する。
 しかし、愛姫は過ちを犯していた。
 群のボスらしき、ひときわ大きな狼が襲いかかってくる。それが見えていても、狼を貫いた刀は振ることができない。肉塊を貫いた刀身は、筋肉が締まって容易に抜くこともできないのだ。
 微かに、しかし明らかに、狼狽の色を浮かべる愛姫。
「――っ、砕けろっ!」
 切羽詰まった声で叫ぶ。
 刀に貫かれていた狼の骸が、細かな肉片となって四散した。
 しかし、もう間に合わない。
 狼の巨体が愛姫に迫る。
 そして――
「う……わぁぁぁっっ!」
 叫んだのは悠樹だった。
 愛姫の危機を察した瞬間、悠樹はボス狼に跳びかかっていた。
 頭で考えての行動ではない。反射的に身体が動いただけだ。武器も、作戦も、なにもない。ただ身体ごとぶつかって、狼と一緒に転がった。
 鋭利な刃物のような狼の牙が愛姫を引き裂くことだけは辛うじて避けられた。しかし、悠樹の状況は危機的だった。
「ぅぐわぁぁぁぁっっっ!!」
 腕に激痛が走る。
 当然、体勢を立て直したのは狼の方が先で、大きな顎が悠樹の左腕を捕らえていた。
 皮膚が裂け、牙が腕に喰い込む。
 鮮血が噴き出す。
 長い牙は骨にまで達し、悲鳴も上げられないほどの激痛に襲われる。
 骨が軋む。
 今にも腕が喰い千切られそうだった。
「や……やめろぉぉぉ――っっ!!」
 無事な右手で狼の顎を押し返しながら絶叫する。
 まさかその叫びが聞き入れられたわけではないだろうが、狼の動きが止まり、ほんの少し、顎の力が緩んだような気がした。
 この隙になんとか腕を引き抜けないか――そう思った瞬間。

 黄金色の疾風が、視界に飛び込んできた。

 狼の咆吼が鼓膜を震わせる。
 血飛沫が視界を覆う。
 突然の出来事だった。なにが起こったのか悠樹が理解するには、数瞬の時間を必要とした。
 それは、新たな狼の出現だった。
 群の中にはいなかったはずの、黄金色の毛皮の小柄な狼が、ボス狼の喉に喰いついていた。
 そのまま全体重を乗せて身体を捻り、ボス狼の巨体を放り投げる。
 地面に叩きつけられた狼はすぐに立ち上がったものの、首からは少なからぬ鮮血を滴らせていた。
 金色の狼は、まるで悠樹を護るかのように前に立ちふさがっていた。
 突然、その姿が変化する。
 先刻、悠樹を驚かせたのとは逆の変化。
 鮮やかな黄金色の毛皮が消えていき、前脚と後脚が伸びて二本脚で立ちあがる。
 瞬きを一度する間の出来事だった。
 美しい金色狼は、一瞬で、鮮やかな黄金色の髪を持つ、全裸の小柄な女の子の姿になった。
 街灯の光に浮かびあがる白い肌が眩しかった。
「か……か、神流?」
 無意識に、そんな言葉が口をついて出た。
 いってから思い出した。それが、知らないうちに携帯電話のアドレス帳に登録されていた名前であることを。
 そのひと言が引き金となって、今朝の記憶が、奔流のように甦ってきた。


 その少女は、黄金色の瞳をしていた。
 ひどく、印象的な容姿だった。
 たとえば、日本人離れした鮮やかな金髪。短めのくせ毛は、巷でよく見かける脱色したような色褪せた金髪ではなく、金塊を思わせる、重厚な、濃い、黄金色。
 しかし、はっとするほど可愛らしい童顔は日本人的だ。白い肌も、あくまでも日本人の範疇での白さだった。
 とはいえ、生粋の日本人だという確信も持てなかった。
 力いっぱい抱きしめたら折れそうなほどに細いウェストの位置は高く、ミニスカートの裾から伸びた伸びた脚はすらりと長い。
 その割に身長はさほど高くない。目測で百五十センチあるかないかだろうか。十代半ばの女の子としては、むしろ小柄な方だ。それなのに胸ははちきれそうなほどに丸く大きくふくらんで、これ以上はないくらいの存在感を主張している。
 身に着けているものも、中身に劣らず人目を惹いていた。
 名前を聞けばこのあたりで知らぬ者はない、某有名お嬢様学校の制服。伝統あるワンピース型のセーラー服は近年デザインが変更されて、ウェストが絞られスカートが短くなり、オリジナルのレトロな雰囲気を残しつつも今風になってよりいっそう可愛くなったと巷では評判だ。
 少女はそんな制服のスカートをさらに短く改造した上、左右の長さがまるで違うソックスを履いていた。右はオーバーニーソックスなのに、左はくるぶしまでしかない。それなのに柄は同じなのだから、着替える時に慌てて間違えたのではなく、意図的なファッションなのだろう。
 それによって、ただでさえ長くて綺麗な脚が、よりいっそう視線を惹きつけるものになっていた。
 しかし――
 その少女のいちばんの特徴は、鮮やかな金髪でも、長い脚でも、大きな胸でも、それを包む伝統のセーラー服でもなかった。
 それは、瞳。
 髪と同じ、金塊を思わせる深い黄金色の瞳。
 獰猛な肉食獣を彷彿とさせる、危険な、なのにどうしようもなく魅力的な瞳。
 その大きな瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
 力強い視線に、心が奪われる。まるで魂を鷲づかみにされるようだ。
 いったい、少女はいつからそこにいたのだろう。
 こんなに目立つ美少女、百メートル先を歩いていても気がつきそうなものなのに、実際には、その存在に気づいた時にはすぐ目の前に立っていた。
 一歩前に出て腕を伸ばせば届く距離。
 そして、少女はその通りのことをした。
 腕が身体に回される。
 その細い腕からは想像できないくらいに力強く、抱きしめられた。
 空気を入れすぎたソフトテニスのボールのようなふくらみが、腹に押しつけられる。
 上気した顔が、至近距離からこちらを見あげている。
 黄金色の視線に射貫かれる。
 腕が勝手に動く。
 無意気の動きで、小さな身体を抱きしめる。
 ただそれだけで、射精してしまいそうなほどに気持ちよかった。
 顔が熱い。心臓が破裂しそうだ。高熱にうなされているかのように、頭がくらくらする。
 美しく可愛らしい顔が近づいてくる。鼻先が触れそうな至近距離だ。犬のようにふんふんと鼻を鳴らして、悠樹の匂いを嗅いでいる。
 悠樹も、少女の香りに心を奪われていた。シャンプーや化粧品の香りとはなにか違う、意識がとろけてしまうような香りが、くせのある柔らかそうな金髪から漂っていた。
「オマエ、すっごいいい匂いがする。……ちょっと、味見」
 少女が背伸びをする。両腕が首に回される。
 顔が、さらに近づいて――
 唇が、重ねられた。
 柔らかく滑らかな感触が押しつけられている。
「――っ!」
 次の瞬間、鋭い痛みが走った。
 唇を噛まれた。
 ふざけての甘噛みなどではない。鋭い犬歯が、血が滲むほどに強く突き立てられている。
 なのに、その痛みはひどく甘美な感覚だった。痛みのためではなく、快感のために背筋がぞくぞくした。
 唇が、さらに強く押しつけられる。
 舌が、唇を割って侵入してくる。
 長い舌は、悠樹の唾液を、そして咬まれた傷から滲み出た血を、貪るように蠢いていた。
「ふ……ふぁぁぁ……」
 唇を離して、少女は感極まったように溜息をついた。
 瞳がとろんと潤んで、妙に色っぽい。
 唇の端に残った血の痕を、舌を伸ばしてぺろりと舐めとる。
「……すっごい……あっまくて美味しい……こんなの初めて」
 うっとりとした表情でつぶやく。悠樹にいわせれば、少女の微かに開かれた唇から漏れる吐息こそ、気が遠くなるほどの甘い香りを漂わせていた。
 首に回されていた腕が解かれる。その手は悠樹の身体をまさぐり、ジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。
 悠樹は抗いもせず、ただぼぅっと立ち尽くしていた。少女は勝手に携帯電話を操作している。
「犬神悠樹……ユウキ……か、ふぅん」
 キーを押し、独り言のようにつぶやく。
 さらに、携帯電話を操作しながらいう。
「ボクは、カンナ……瀬田 神流」
 携帯電話をポケットに戻すと、悠樹の手を取った。
 頬を赤らめ、はにかんだような笑みを浮かべる。
「……あっち、行こ? ここじゃ、誰か来たら見られちゃうし?」
 手を引いて歩き出す神流。悠樹は自分の意志を持たない人形のように、ただ黙って従った。
 向かった先は、十数メートルほど離れたところにある、公園の中の小さな林だった。ひときわ大きな樹の陰に隠れるように、悠樹の身体を太い幹に押しつけた。
「……もう、一回」
 また、抱きしめられた。
 小さな身体と、不釣り合いなほど大きな胸が、押しつけられる。
 また、キスされた。
 長い舌が挿し入れられ、悠樹の舌と絡み合った。
「ん……んん……」
 甘く、切ない吐息。
 小刻みに震える、小さな身体。
 わけもわからないまま、悠樹はただ本能的に神流の身体に腕を回していた。
 しっかりと抱き合い、唇を重ね合う二人。
 まるで久しぶりに再会した熱愛中の恋人同士のように激しい抱擁であり、濃厚なキスだった。
 こんなキスは初めてだった。
 過去に付き合っていた女の子は何人もいるし、キスはもちろんセックスの経験だって多い方だろう。
 だけど、こんなに気持ちのいいキスは初めてだった。
 抱き合ってキスしているだけで、気が遠くなるほどに気持ちいい。のぼせて倒れてしまいそうだ。
 ジーンズの中では、男の象徴がこれ以上はないくらいに大きく、そして硬くなっていた。それをさらに昂らせるかのように、神流が身体を擦りつけてくる。悠樹も下腹部を押しつける。
 下半身が痺れる。もう、これだけで射精してしまいそうだ。
 神流も興奮しているのだろうか。悠樹の口の中で舌を激しく動かしながら、荒い呼吸をしている。頬も、燃えるように紅潮している。
 悠樹も、神流の動きに応えて舌を絡める。お互いの唾液を貪り合う。
 甘く、感じた。
 神流の唾液は、とても甘かった。
 舌が痺れるほどに甘く、ストレートのウォッカのように熱い。
 舌から、内頬の粘膜から、体内に染み込んでくるようだ。アルコールよりも媚薬よりも強く、身体が、心が、昂っていく。
 本当にこのまま達してしまうのではないか――そう思った時、腕の中の小さな身体が強張って痙攣し、やがて全身から力が抜けていった。
「ふぁ……ぁ、んぁぁ…………ヤバイ、よ……これ……」
 焦点の合わない瞳で、熱く甘い吐息を漏らして、神流は足元に頽れた。そのまま倒れそうになって、悠樹の脚にしがみついてかろうじて身体を支えている。
 しかし、それはある意味、さらに危険な体勢だった。顔が、悠樹の股間近くにある。今は厚いデニムの生地の上からでも、大きく膨らんでいるのがはっきりわかる状態だった。
「ふわぁ……ぁ? ……もっと……美味しそうなニオイがする……」
 鼻を、股間のふくらみに押しつけてくる。犬のようにフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
 その微かな刺激だけで達してしまいそうだった。
 黄金色の瞳が、上目遣いに見あげてくる。口元には悪戯な笑みを浮かべている。白い指がジーンズのファスナーにかかり、ゆっくりと引き下ろしていく。
 神流の顔が赤みを増した。もう顔だけではなく、耳まで真っ赤になっている。
 引きずり出された男性器は、自分でもびっくりするくらいに力強く勃起し、反り返ってまっすぐに上を向いていた。びくびくと脈打って、先端から透明な雫を滴らせている。
「え……と……えへ、これ…………食べちゃって、いいんだよね?」
 神流の言葉に促されるように、悠樹は無言でうなずいた。
 今が登校中だとか、ここがいつ人に見られるかわからない朝の公園だとか、相手が初対面の見知らぬ女の子だとか、そんなことは意識の片隅にも上らなかった。ただ、神流が次に与えてくれるであろう快楽のことしか考えられなかった。
 神流が長い舌を伸ばす。先端をぺろりと舐められる。
「うぁ……っ!」
 ただそれだけで、身体に電流が走ったような衝撃だった。そのひと舐めで射精しそうになった。
 神流もぶるっと震えて、甘い声を漏らした。
 ちらり、とこちらを見あげる。
 一瞬だけ躊躇いの表情を見せて、しかし、一気に口に含んだ。
「あ……ぁぁ……っ!」
 身体から力が抜ける。
 舌が絡みついてくる。
 熱い唾液が染み込んでくるようだった。
 あまりの気持ちよさに、反射的に腰を突き出していた。
 いきなり喉奥まで肉棒を突き入れられ、神流は驚いたように目を見開いた。しかしすぐにうっとりとした表情に変わり、唇を、舌を、動かしはじめた。
 小さな唇がきゅっと窄められ、根元が締めつけられる。
 長い舌がねっとりと絡みついて蠢いている。
 強く吸われ、ペニス全体が熱く火照った粘膜に包み込まれる。
「ん……っ、んぅんんっ、ん、ふぅんん……っ!」
 神流は腕を回して、悠樹の下半身にしがみついていた。自分から顔を押しつけて、根元までくわえ込んでいる。
 喉奥まで呑み込まれた亀頭が強く締めつけられる。その感覚がまた堪らない。
 苦しそうな表情で、しかし頬を上気させて夢中で男性器をくわえ込む神流。それは男を悦ばせるためのフェラチオというよりも、お腹を空かせた赤ん坊が母親の乳首に吸いつくような、本能に突き動かされた動作だった。
 黄金の瞳が、ちらちらと悠樹を見あげている。肉食獣のようなその瞳に見つめられるだけでどんどん昂ってしまう。
 もう我慢できない。
 経験は豊富な方だし、けっして早漏などではないはずなのに、もう限界だった。
 神流の頭を鷲づかみにして、ぐいぐいとねじ込むように思い切り腰を突き出す。苦しいとも気持ちいいとも取れるようなくぐもった声を漏らし、神流は悠樹の脚にしがみついている腕に力を込めた。
「あぁぁっ! ぅあぁぁぁっっ!」
 喉の奥まで突き入れたところで、爆発が起こった。
 精液が一気に噴き出していく。
 こんなに大量に出したことなどない、という勢いの射精だった。大量の精液が一気に尿道を通過する痛いほどの刺激に、気が遠くなる。脚から力が抜けて、寄りかかっていた樹の幹に体重を預けた。
 びくっ、びくっ、びくんっ!
 何度も、何度も、身体が痙攣する。その度に、濃厚な白濁液が噴き出して、神流の口中を満たしていく。
 いつまでも止まらないような感覚だった。
「んっ、んンヴぅ……んぅんんっ!」
 射精の度に、神流も身体を震わせる。
 喉が上下して、口から溢れそうな大量の精液を飲み下していく。その刺激が、さらなる射精の引き金となる。
 いったい、どれだけの時間続いたのだろう。
 津波のように押し寄せた快楽の奔流がようやく治まると、全身の体力、精力が奪い尽くされたような疲労感に襲われた。
 なのに、神流の口の中に在るものは萎えるどころか、さらに勢いを増して、小さな口を再び陵辱しようとしていた。
 潤んだ大きな瞳が見つめている。
 絶頂を迎えた後のような、焦点の合わない、しかし満足感に溢れた瞳。その目は苦しいほどの射精に抗議するどころか、もっと飲みたいと切望しているようだった。
 その望みを叶えてやりたい、と思う。
 それが、悠樹の望みだった。
 もっと、飲ませたい。
 もっと、気持ちよくなりたい。
 口でちょっと舐められただけで、こんなに気持ちがいいなんて。
 ならば、この子の胎内に挿入して同じようにたっぷりと注ぎ込んだら、いったいどれほどの快楽が得られるのだろう。
 精巣が空になるまで注ぎ込んでやりたい。神流の子宮をいっぱいに満たしてやりたい。
 そんな衝動に駆られる。
 神流の頭を掴んでいた手が、無意識に移動していく。細い首筋をくすぐる。くすぐったそうに、そして嬉しそうに、首をすくめて身を捩る神流。
 さらに、手を下へ移動させていく。セーラー服のスカーフの下に隠れたボタンを探り当て、いちばん上のボタンを外す。
 微かな戸惑いと、その何倍もの期待を含んだ瞳。
 黄金色の瞳に操られるように、ふたつめのボタンに指をかける。
 その瞬間――
 不意に流れ出す、場違いな軽快な音楽。
 神流の顔から妖艶な笑みが消え、はっと我に返る。慌てた様子で、スカートのポケットから携帯電話を取りだした。
「うわっ、やっばい! もうこんな時間? チコクしちゃう!」
 慌てて立ちあがり、膝の汚れをぱたぱたと払い落としてから悠樹に視線を戻した
 また、頬が紅く染まる。
 恥ずかしそうに悠樹に背中を向け、制服のボタンを留めて乱れたスカーフを整えた。
 それからまた、悠樹を振り返る。
 目の前まで近づいてくる。
 背伸びして、ちょんと軽く触れるキス。
 顔に浮かんでいるのは、照れたような、子供っぽい可愛らしい笑み。先刻までの、意味深な、なにか悪だくみしているような妖艶な笑みとはまるで違っていた。
 一歩離れて、手を身体の後ろで組む。
「そのうち、また逢おうね、ユウキ。それまで……ボクのことは忘れて?」
 妙な、力を感じる言葉だった。
 悠樹は無言のまま、操られるようにうなずく。
 回れ右して、ミニスカートの裾をひるがえして走り出す神流。それきり、一度も振り返りもしない。
 その姿が視界から消えるまで、ただぼんやりと神流の後ろ姿を見つめていた。

 そして――
 
 神流の言葉通りに、絶対に忘れられないようなこの出来事を、悠樹はきれいさっぱり忘れてしまった。


 不意に、思い出した。
 記憶の波が押し寄せてくる。
 どうして、忘れていたのだろう。
 どうして、忘れていられたのだろう。
 今朝の、あの、衝撃的な出来事を。
 彼女の姿を見て、すべてを思い出した。
「か……か、神流?」
 名前を呼ぶ。
 瀬田 神流――それがこの、黄金の髪と瞳を持つ少女の名前だった。
 ボス狼と対峙していた全裸の少女がこちらを振り返る。
「あ、思い出したんだ?」
 にぃっと、悪戯な笑みを浮かべる。
 子供っぽい、だけど魅力的な笑み。
 大きな、黄金色の瞳が印象的だった。まるで金塊のように輝いている。
 絶対に忘れられないはずのこの瞳を、どうして忘れていたのだろう。
「……カンナ、貴様、どういうつもりだ?」
 悠樹の思考を遮ったのは、ボス狼の声だった。狼の姿で、しかし明瞭な人語を発していた。神流がまた狼の方に向き直る。
「どういうつもり? それはボクの台詞だよ?」
 神流は日本人の女の子としても小柄な方だし、金色の狼の姿だった時も、ボス狼との体格差は歴然だった。なのに、自分よりも遙かに大きな狼相手に、まったく怯む様子もない挑発的な口調だった。
「ユウキはボクの獲物だよ? ちゃんと、ボクの匂いをつけてあったでしょ? 獲物の横取りは大罪だっていったのは、カミヤシ、あんたじゃん」
「貴様、誰に向かってものをいっている?」
 返ってくるのは、いかにもボスらしい、尊大な口調。
 当然だ。本来、同種の獣同士では、体格差がそのまま力と地位の差になる。群の中でひときわ大きなボス狼と、他の狼と比べてもひとまわり以上小柄な神流、普通に考えれば序列ははっきりしているはずだ。
 なのに神流は、自分の方が圧倒的な強者であるかのように振る舞っている。自信に溢れたその様子は、強がりやはったりには見えなかった。
「自分より強い者は敬え。これもあんたの教えじゃん。目の前にいる相手の強さも計れないくらいモウロクしてンの?」
 嘲るようにいうのと同時に、また神流の姿が変化する。
 一瞬で、金色の毛皮に包まれた狼の姿になった。その変化は、最初に見た狼よりもずっと速かった。
 間髪入れず、矢のような速度でボス狼に跳びかかる。
 相手も迎え撃つ。
 ガキィッ!!
 牙と牙がぶつかり合い、硬い金属のような音が響いた。
 ぱっと離れる二頭の狼。
 着地と同時に地面を蹴って、またぶつかり合う。
 鋭い牙が並んだ顎を大きく開き、長い爪で武装した前脚を振るう。
 二頭は何度もぶつかり合い、爪が、牙が、互いの厚い毛皮を切り裂いていく。
 人間にはとても反応できない速度だった。なにが起こっているのか、目で追うことすら困難だ。
 だから激しい戦いも、実際の時間はごく短いものだった。ほどなく二頭は大きく距離を空けて動きを止めた。
 金色の狼は、肩から背中にかけて、深い傷を負っていた。
 巨大な灰色狼は顔に深傷を負い、右目が剔られていた。
 荒い呼吸をしながら睨み合っている。深傷を負ってもなお、体力の回復を図りつつ相手の隙を窺っているようだ。
 二頭の戦いに終止符を打ったのは、他の狼の絶叫だった。
 反射的に声のした方を見ると、愛姫の刀が、一頭の狼を両断していた。
 ボス狼が、微かに眉をひそめたように見えた。小さな唸りを上げる。それが合図であるかのように、残った二頭の狼が身を翻して走り出した。ボス狼も後に続く。
 三頭は、たちまち闇の中に消えていった。
 愛姫が大きく息を吐き出し、刀を握っている手から力を抜いた。
 傷ついた金色狼が、悠樹の元に戻ってくる。目の前で姿を変え、また、金髪の美少女の姿になる。
 しかし、深々と剔られた肩から背中にかけての傷はそのままだ。他にも、背中の傷よりは浅いものの、かすり傷とは呼べない傷がいくつも刻まれ、身体中血まみれといってもいい姿だった。
 ふらつく足どりで悠樹の前に立つ。
 人懐っこい笑みを浮かべる。
 そのまま、神流の身体から力が抜けていった。倒れそうになる身体を反射的に抱き支えた時には、神流は意識を失っていた。
「……その狼は、貴方の知り合いですか?」
 愛姫が近づいてくる。先ほどまでの緊張は解いているが、まだ刀は収めていない。
「えっと……知り合い、っていうのとはちょっと違うけど……」
 どう説明したものか、間を置いて考える。腕の中の神流を見おろしながら、言葉を組み立てる。
「……今朝、この公園で会った。もちろん、狼じゃなくて人間の姿で、ちゃんと服も着てて……。どういうわけか、今まで忘れてたんだ」
「忘れさせられていたんです。それが、こいつらの力です」
「忘れさせられて? それって、どういう……」
 顔を上げた悠樹の視界に映ったのは、物騒な光景だった。愛姫が、こちらに向かって刀を構えている。今まさに、神流を貫こうとしているかのように。
「や……やめろ!」
 思わず、意識のない神流を庇うように抱きしめた。
「手負いの今なら、手強い狼も簡単に始末できます」
 愛姫の声は、ひどく冷たかった。
「な……なんでだよ!? この子は、俺たちを助けてくれたじゃないか!」
 神流が飛び込んでこなければ、少なくとも悠樹は確実にボス狼に喰い殺されていただろう。あの状況では、愛姫だって劣勢を覆すのは困難だったはずだ。形勢を逆転できたのは、神流のおかげに他ならない。
 しかし愛姫は、まるで親の仇と対峙しているかのような表情で、神流に剣先を向けていた。その構えにはまったく揺るぎがない。
「助けた? 違います。それがいっていた通り、単に自分の獲物を横取りされないように戦っただけです」
「そ、それでも! 動機はどうあれ、結果的に命の恩人には変わりないだろ! それに、すごく可愛い女の子じゃないか。殺す必要なんてないだろ!」
 必死に神流を庇う。まぎれもなく、愛姫は本気だ。人間の女の子ではなく、狼を相手にしていた時と同じ目を向けている。
「形の上では命の恩人だろうと、見た目がどうであろうと、狼は、人間の敵です。あと、ひとつ忠告しておきますが、異性に対して節操がない人間は、狼たちのかっこうの獲物です」
 抑揚のない、静かな口調。しかし強い意志が感じられる。
 言葉に込められた感情は――おそらく、憎しみ。
 いったいなにが起こっているのか、悠樹にはまだ理解できていないが、愛姫にとって狼たちが敵であることだけはわかる。とはいえ、とびきり可愛い女の子にしか見えない神流が目の前で殺されるなんて、絶対に受け入れるわけにはいかない。
「それでも……あの狼たちは、人間の敵かもしれない。だけどこの子は、今はなにも悪いことはしてない。本人が弁解もできないこの状況で、それでも神流を殺そうというのなら……君がやろうとしていることは、あの狼たちと変わらない」
「――っ!」
 夕方も今も、無機的といっていいほどに感情を表に出さず、無表情を貫いてきた愛姫が、初めて、ひと目でわかるほどに感情を露わにした。
 怒りの形相。
 それさえも美しい。
 肩がかすかに震えている。しかし、刀を構えた腕は動かない。
 昂った感情を鎮めようとしているかのように、大きく深呼吸する。勢いにまかせていった悠樹の言葉が、思いのほか効いているようだった。
 鋭い深紅の視線が悠樹を射貫く。
 このまま神流と一緒に斬られるかもしれない――そんな心配をしてしまうほどの表情だった。
 それでも愛姫は、大きく息を吐き出すと、刀を持った腕を下ろした。怒りと憎しみに満ちた視線を向けつつも、戦いの最中に放り出した鞘を拾って刀を収める。
 どうやら思いとどまってくれたらしい。悠樹も安堵の息を漏らす。それでようやく、腕の中の神流の様子を確認する余裕が生まれた。
 狼の姿から変化したために全裸で、白い肌が目に眩しい。ボス狼との戦いで身体中傷だらけで、色白なだけに身体を汚している深紅の血にはよりいっそう不安感を煽られる。そして、高熱にうなされいるような苦しげな表情を浮かべていた。
 さすがに全裸のままで放置しておくのもどうかと思い、悠樹はとりあえず自分のジャケットを脱いで羽織らせてやった。血で汚れることなど気にしてはいられない。
 その間に愛姫は、また携帯電話を取り出していた。
「……今度こそ終わりました。回収をお願いします。仕留めた狼が四体。三体を逃がしました。今夜のところは脅威にはならないと思います。それから、訳あって生け捕りにした狼が一体。ちょっと普通ではない個体です。あとは先刻いった通り、犠牲者がひとり。そして……かなり訳ありと思われる目撃者がひとり。……ええ、怪我はありません」
 通話を終えると、愛姫はまた近づいてきた。表情は険しいままだったが、刀は収めたままなので問題はないだろう。
 なにやら、怪訝そうな顔で悠樹を見つめている。
 手を伸ばして、神流を抱きかかえている腕の傷に指先で触れた。
 悠樹の血に濡れた指先を、口に含む。
 微かに眉をひそめ、しかし、なにか納得したような表情になった。
「……なるほど、そういうわけですか」
 小さくうなずき、血の色の瞳を悠樹に向ける。
「……貴方、今夜、なにが起こったのか理解していますか?」
「い、いいや。全然、まったく、わけがわからん。ちゃんと説明してもらえるんだろ?」
 愛姫は、すべてを理解しているはずだ。悠樹が巻き込まれることまで見通していたのだ。
「ええ。どのみち、このまま帰すことはできません。しばらく私たちにつきあってもらいます」
「私たち?」
 訊き返すと同時に、電話のことを思い出した。話していた内容から察するに、近くに仲間がいるのだろう。そういえば、公園の入口に警官がいるといってたような気がする。
 そう考えていると、エンジン音が聞こえてきた。
 本来は車の乗り入れが禁止されている公園内で、ライトがいくつが動いている。
 黒塗りのセダンが一台。それに続いて、公園の芝生や植木の手入れを請けおっている造園業者のトラックが二台。
 しかしトラックの荷台から降りてきたのはどう見ても造園業者などではなく、物騒な装備に身を固めた機動隊員たちだった。
 セダンから降りてきたスーツの男が指示を与えると、機動隊員たちは、喰い殺された女性と、愛姫に殺された狼の死体を、手際よくトラックの荷台に載せていく。
 スーツの男が悠樹たちに近づいてくる。三十歳くらいの、エリート官僚を彷彿とさせる雰囲気の男だった。背は高い方で、なにかスポーツをやっていたと思しき筋肉質の身体つきをしている。
「姫ちゃん、怪我はないか?」
「はい、大丈夫です」
「で、生け捕りにした狼と目撃者ってのは、これか?」
 神流を抱えた悠樹に視線を向ける。愛姫が小さくうなずく。
「今は意識を失っていますが、かなり問題のありそうな個体です。〈首輪〉を用意してください」
「わかった。目撃者の方は?」
「名前は、犬神悠樹。他の詳しいことは聞いていません。その前に、狼の群れに襲われたので。ただ……」
 その先は急に声が小さくなり、愛姫が話す内容は悠樹の耳には届かなかった。
 男は眉をひそめ、やはり怪訝そうな表情を悠樹に向けた。
「犬神くん、だっけ? 身分を証明できるものは持っているか? ああ、僕はこういう者だ」
 男が内ポケットから取り出したのは、悠樹にとってテレビドラマや映画では何度も目にしているものの、実物を見るのは初めての品――警察手帳だった。
 手帳を開いて、身分証を提示してみせる。じっくりと読んでいる精神的な余裕はなかったが、『高橋光一郎』という名前は読み取ることができた。
「け、警官? いったい、これはなにが起こってるんです?」
「長い話になるから、説明は後だ。身分証は持っているかい?」
 静かだが、有無をいわさぬ雰囲気を持った口調だった。警察官に逆らってもいいことはあるまい、と素直に学生証を取り出した。
「犬神悠樹、二十歳、大学生か。よし」
 メモをとって、学生証を悠樹に返す。
「もうしばらく付き合ってもらうことになるが、外泊しても構わないかな?」
「ひと言、家に連絡入れれば問題ないです。つか、俺だって事情を説明してもらわないと帰るに帰れませんよ」
 腕の中の神流を見おろす。
 彼女は、あの狼たちは、そして愛姫は何者なのか。
 なにも聞かずに帰るなんてできるわけがない。
「そうだな。君には聞いてもらわなきゃならない話がある。が、それは後だ。今は早々にここを引き払わなければならない」
 そういうと、高橋は車に戻ってなにかを持ってきた。
 悠樹は見たものを理解するために、二度、三度、瞬きする。そのくらい、この場にそぐわない品に思えた。
 それは、一本の首輪だった。深紅の、大型犬に着けるような首輪だ。
 首輪を愛姫に渡す。愛姫が、その首輪を神流の首に嵌めた。
「な……なにしてるんだ?」
 まるで血で染めたような、深い紅の首輪。普通に考えれば、特殊な性癖がない限りは人間の女の子に着けるものではない。
「首輪、です。狼の力を削ぐための封印です」
 いわれてよく見ると、さらに濃い紅で、なにやら文字のような、しかし悠樹には読めない不思議な記号が描かれている。
「でも、この子は……」
「狼、です。人間ではありません。貴方も見たでしょう?」
 反論を探している悠樹を無視して、きっぱりといいきる愛姫。有無をいわさぬ強い口調だった。
 悠樹の腕の傷に触れ、血で汚れた指を首輪に押しつける。深紅の首輪に、微妙に濃さの違う指の痕が残った。
「じゃあ、行こうか。車に乗ってくれ」
 死体の回収を終えたトラックが走り出すと、高橋が悠樹を促した。口調は穏やかなのに、逆らえない迫力がある。
 悠樹は仕方なく、神流を抱いたままセダンの後席に乗り込んだ。高橋が開けた反対側のドアから、愛姫が乗ってくる。ドアを閉め、自分は運転席に収まる高橋。まるで名家の令嬢とお抱え運転手、といった光景だ。ふたりの様子を見る限り、これが当たり前のことらしい。
 いったい、ふたりはどういう関係なのだろう。
 いったい、愛姫は何者なのだろう。
 わからないことばかりだ。だから今は、おとなしくついていくしかない。
 車が走り出す。
 傷ついた神流の負担にならないよう、できるだけ揺らさないように腕で支えてやろうとしたが、初めて乗る高級車のサスペンションは、そんな気遣いは無用のものだった。しかし、傷だらけ、血まみれの神流を放っておくこともできない。
「この子、手当てしてやらないと……」
「必要ありません」
 愛姫が冷たい口調でいう。悠樹に対しては無機的な愛姫だが、〈狼〉に対しては敵意を露わにする。
「でも、こんな大怪我……」
 悠樹の目には、生命に関わりそうな重傷に映る。
「狼、です。人間ではありません」
 愛姫はもう一度繰り返した。
「そのくらいの傷で死ぬなら、私たちも苦労しません」
「気になるなら、血の汚れだけでも拭いてあげるといい」
 高橋は愛姫のようには露骨な敵意は抱いていないようで、ハンドルを握ったまま、真新しいタオルを渡してくれた。
「そうすれば、手当ての必要がないと納得できるだろう」
「え?」
 いわれた通り、血まみれの神流の身体を拭いてやる。
 驚いた。
 肉が深々と剔られるような大怪我だったはずなのに、ほとんどの傷はもう出血しておらず、いちばん深い傷も、じんわりと血が滲む程度でしかなかった。
「これって……」
「だから、いいました。それは人間ではないと」
 愛姫の口調は、必要以上に冷たかった。

前の章 次の章 目次

(c) yamaneko nishisaki all rights reserved.