13

 二学期が始まって、少し経った頃。
 私はいつものように体育の授業をさぼって、屋上でひとり時間を潰していた。
 転落防止用の金網に寄りかかって文庫本を開いていたけれど、実際のところそれはポーズだけで頭の中ではまったく関係ないことを考えている。
 それはもちろん宏樹のこと。
 あの日以来、宏樹との関係は比較的うまくいっているように思う。
 ほとんど毎日、口でしている。以前のように無理やり強要されるのではなく、自分の意志で「してあげて」いるのだ。
 入浴の終わりに宏樹が黙って私の前に立つ。それが合図。
 私もなにも言わずに宏樹の股間に手を伸ばす。それは既に大きく固くなっていて、手の中でぴくぴくと震えている。
 しばらく手で握ったり、擦ったり、その固い弾力を楽しんでから口に含む。
 口の中いっぱいに膨らんでいる男性器を強く吸い、舌を絡め、内頬を擦りつける。
 自分にできる精一杯のテクニックを動員して奉仕する。
 ずいぶん慣れてきたと思う。
 最初の頃のように気持ち悪くなることもない。
 自分の意志で、かつ自分でコントロールできる体勢ですると、根元までくわえるのもさほど辛くはなかった。
 やがて宏樹は射精に至る。
 それを口で受けとめ、一滴残らず飲み下す。もう吐いたりしない。美味しいと思っているわけではないが、宏樹が気持ちよくなってくれた証を飲み込むことで、ひとつの仕事をやり遂げたという達成感を覚えるのだ。
 実の弟に対する口での奉仕。
 その行為が好きかといわれると疑問が残るが、かといって嫌々しているというわけでもない。これまで一方的に負担をかけていた私が宏樹に対してしてあげられることがある。宏樹を悦ばせることができる。その満足感は、姉弟で性的な行為をすることへの抵抗感よりも強かった。
 もちろん昨夜もした。
 思い出すと感覚が甦ってくる。固い弾力のある、口の中で脈打っている熱い肉の塊。それに舌を絡める。口全体で包み込む。内頬を滑る男性器の感触は心地よくさえあった。
 目を閉じて記憶を反芻する。淫猥な記憶に身体の芯が熱くなってくる。その行為を再現するように、口の中で舌が動く。呼吸が速くなってくる。
 邪魔が入らなければ、学校の屋上で自慰行為に及んでいたかもしれない。危ないところだった。妄想に夢中になっていて、近づく足音を聞き逃していた。
 不意に日が陰ったように感じて目を開く。
 こうして屋上でくつろいでいる時間を邪魔するのは、大抵は竹上である。しかし今回は違った。意外な顔を目にして、二度、三度、瞬きを繰り返した。
 垣崎だった。どうしたのだろう、向こうだって今は授業中だろうに。
 予想外の展開に戸惑っていると、垣崎の方から口を開いた。
「……ちょっと、お話ししてもいいですか?」
 固い表情。なにか怒っているようにも見える。
「……なに?」
 やっぱり意外だった。普段はあえて私の存在を無視しているような垣崎の方から話しかけてくるなんて。
 見おろされるのは好きではないので、立て掛けておいた杖に掴まって立ち上がった。それでもまだ垣崎の方が頭半分以上も背が高い。
 不機嫌そうな顔の垣崎。怒っているような、あるいはなにか思い詰めているような。
「宏樹のこと?」
 垣崎の用なんて他にあり得ない。
「その……あたしがこんなこと言うのもどうかと思うけど」
「……うん?」
「お姉さん、宏樹くんに甘えすぎじゃないですか?」
 責めるような口調だった。
「だって、ちょっと杖をつくくらいで、外出だって普通にできるんでしょう? それなのに宏樹くんに……」
 なるほど。
 だいたい予想した通りの内容だ。
 先日のあの一件、垣崎はかなりおかんむりのようである。当然だ。自分とエッチしている最中の彼氏が姉の送り迎えのために中座なんて、普通の女の子なら我慢がならないだろう。
 どうしても、絶対、の事情ではない。垣崎の言う通り、私だってその気になればちょっとした外出くらいは一人でもさほど不自由なくできる。
 宏樹が過保護なのだ。
 それが心地よいために、私もつい甘えてしまうのだ。
 二人きりの時に行われている行為を知らなくても、他人から見たら私たち姉弟はちょっと不自然かもしれない。少なくとも、彼女が嫉妬するくらいには。
 垣崎の言い分はもっともだった。その気持ち、理解はできる。
 宏樹は必要以上に私を甘やかしている。
 私は必要以上に宏樹に甘えている。
 どちらにとってもいいことではない。
 自分のことはできるだけ自力でするべきなのだ。その方が身体のためにもいい。
 宏樹も必要以上に私と接触するから、姉弟で性的関係を持ってしまうのではないだろうか。入浴や着替えを手伝っていては、健康な高校生男子としては欲情してしまっても仕方がない。
 だから。
 もっと距離を置くべきなのだ。宏樹と私は。
 もっと普通の姉弟になるべきだ。少なくとも、恋人よりも姉を優先するようではいけない。
 だけど……
 だけど。
 不愉快、だった。
 目の前では垣崎がまだなにやらまくし立てているが、私はもう聞いてはいなかった。
 不愉快、だった。
 垣崎に言われたくはない。
 それが正論であり、垣崎には言う権利があるとしても。
 垣崎には言われたくない。ううん、他の誰であっても。
 理屈なんかどうでもいい。
 私には宏樹が必要なのだ。
 傍にいて欲しい。
 他の誰よりも私を大切にして欲しい。
 私のものであって欲しい。
 それは決して恋愛感情ではないが、それでも独占欲は存在する。何年もの間、宏樹に頼り切って生きてきたのだ。いまさら宏樹なしの生活なんて考えられない。
 多分、垣崎の言うことはもっともだ。『彼女』の言い分としては。
 だからこそ、面と向かって言われると不愉快だった。
 垣崎にそれを言う権利があったとしても、私には聞いてやる義理はない。
 だから、いつまでも黙ってはいなかった。
「……そうね。あなたの言うことももっともだと思う」
 皮肉っぽい笑みを浮かべて私は言った。
「でも、あなたに言われる筋合いはないんじゃないかな?」
「え?」
「他人のあなたには関係ないことでしょ? これは、私と宏樹の問題」
 一語一語、力を込めて言った。「他人」と「関係ない」の部分を特に強調して。
 垣崎は言葉を失っていた。驚いて目を見開いている。
 多分、言い返されるなんて思っていなかったのだろう。
 小柄で、華奢で、見るからにひ弱そうな私。垣崎のような連中はみんなそうだ。自分より弱い者にだけ強い態度をとれる。
「な……」
 口をぱくぱくとさせている垣崎。しかし言葉が出てこない。
「確かに、私は必要以上に宏樹に甘えてるかもしれない。だけどあなたには関係ない」
 私は言葉を続ける。
「第一、私が強要してるわけじゃないもの。私に言うのは筋違いじゃない? なにも言わなくても、宏樹が自主的にしてくれてることなんだから」
 もう止まらなくなっていた。今までなにも言わずにいたけれど、垣崎の存在は本当に目障りだったのだ。家にまで押し掛けてきて、私も腹に据えかねていた。
「私はなにも強要していない。お願いする必要すらないんだから。宏樹がなんでも自分から進んでやってくれるのよ? 身の回りのことはなんでも。出かける時は必ず送り迎えしてくれるし、身の回りのことも全部やってくれる。髪のセットも、お化粧も、それに着替えの手伝いも……ね」
 垣崎の顔色が変わる。送り迎えなどはともかく着替えというのは初耳だろう。『彼女』としては聞き流せることではない。
「それだけじゃない。お風呂だって毎晩、宏樹に入れてもらうの」
 これは決定的だった。垣崎の身体が強張る。表情が引きつる。
「身体中、隅々まで、宏樹が洗ってくれる。でも宏樹ってば、エッチな部分にばかり時間かけるんだよねー」
 意図的に笑いながら言った。「仕方ないんだから……」と年上の余裕を見せて。
 垣崎はもう顔面蒼白だった。今にも貧血で倒れそうな様子である。
「宏樹の洗い方って、エッチだけど気持ちイイんだー。私もヘンな気分になっちゃう。もちろん宏樹もね。私を洗いながら、アレが大きくなってるの。だから洗ってくれたお礼に……ね?」
 その先はあえてはっきりとは言わず、なにかをくわえて舐める仕草をして見せた。
 多少の脚色はあるが嘘ではない。入浴時にエッチな部分を触られることも、それが気持ちいいことも、宏樹にフェラチオしていることもすべて事実なのだ。
「……う……うそ」
 呻くような声。垣崎の脚はがくがくと震えている。
「嘘じゃないよ。宏樹に訊いてみたら? あ、言えないか。実の姉に毎晩口でしてもらってるだなんて『彼女』には言えないよねー」
 彼女、の部分にわざとアクセントをつける。垣崎が宏樹の彼女であっても、自分だけが特別と思うなという意味を込めて。
「第一、最初は宏樹の方から無理やり襲ってきたんだもの、言えるわけないよねぇ。ま、今じゃ私も喜んでしてあげてるんだけど。とっても気持ちよさそうにしてくれるから嬉しくって。口の中いっぱいに出されたものを、一滴残らず飲んであげるの。で、お風呂から上がったら寝室に連れていかれて……ねぇ?」
 嘘はついていない。たとえそれが、意図的に誤解させようとした発言であったとしても。
 実際には、寝室に戻ったら身体を拭いてもらって、髪を乾かしてもらって、パジャマを着せてもらうだけ。寝室でエッチしてると勘違いするのは聞く者の勝手だ。
「う、うそよっ! そんなこと、あるわけないじゃないっ!」
 垣崎は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。涙が溢れ出している。
「どうして?」
 私は平然と応える。
「どうして、あるわけないって? 実の姉弟だから? 近親相姦なんて、そんなに珍しいことでもないんじゃない? 親が留守がちの家で、年頃の男女が二人きりなんだもの」
「だ、だって! ……嘘よっ! そんなの嘘! 嘘つきっ!」
 ガシャン!
 背後で金網が大きな音を立てる。垣崎にいきなり胸ぐらを掴まれ、力いっぱい金網に押しつけられたのだ。もしもこの金網がなかったら、そのまま屋上から突き落とされていたほどの勢いだった。
「嘘っ! 嘘っ! 嘘っ! 宏樹くんがそんなことできるはずがない! この嘘つきっ!」
 頬を殴られる。よろけて倒れそうになるところを、金網に掴まってなんとか踏みとどまった。
 垣崎を挑発し始めた時から、こうした展開はある程度予想していたことだった。一、二発、殴られてやってもいい。垣崎が怒れば怒るほど、私に暴力を振るうほど、状況は私に有利になるのだから。
「あんたなんか……あんたなんか……、いなけりゃいい。事故で死んじゃえばよかったのにっ!」
 また襟を掴まれる。頸動脈が絞められる形になって、息が苦しくなってきた。
 私を睨みつける垣崎の目が尋常ではなかった。正気を失った、血走った目。
「……死ねばいいのよ! あんたなんかっ! あんたなんかっ!」
 両手で首を絞められる。
 これはちょっと危険かもしれない。挑発しすぎただろうか。
 だけど私の頭は冷静だった。まだ余裕があった。垣崎なんかに殺されるはずがない、という確信から生まれる余裕が。
「あんたが死ねば、宏樹くんは……」
 手に力が込められる。視界が暗くなってくる。
「……殺人は……リスクが大きすぎる……と思うけど?」
 一応言ってはみたが、そんな正論が通じる精神状態ではあるまい。
「平気よ。ここから突き落として、障害を苦にしての自殺って遺書でも残しておけば。ワープロ打ちなら筆跡もばれない」
 まずい、かもしれない。これだけ逆上しているのに、変なところで冷静だ。
 私は書き物の時、たいていパソコンを使う。元が左利きで、怪我の直後はまともに字を書くこともできなかったので、授業中でもノートパソコンの使用を認められているくらいだ。遺書がワープロ打ちでも、私を知っている者なら特に不自然とは思わないだろう。
 もしかすると、垣崎は以前にも考えたことがあるのかもしれない。
 ……私の存在を排除することを。
 実行する気はなくても、単なる妄想としてくらいなら。
 本気、なのかもしれない。秘かに望んでいたことを、実行するきっかけを与えてしまったのかもしれない。
 視界が暗くなってきた。
 このままではまずい。垣崎なんかにいつまでも好きにさせておくのも癪だ。
 だから――
 右手をポケットの中に滑り込ませる。
 取り出したものを垣崎の身体に押しつけ、スイッチを押す。
 小さな破裂音。
 垣崎の身体がびくっと痙攣する。首を絞めていた手が離れ、崩れるようにその場に倒れた。
「……あ……ぁ、う……」
 言葉にならない呻き声を洩らし、小刻みに震えている。
 私が握っていたのは小さなスタンガンだった。一年ちょっと前だろうか、護身用にと宏樹が買ってくれたものだ。なにかあった時に「走って逃げる」という選択肢を選べない私にとっては心強い味方だった。
 屋上のコンクリートに横たわって痙攣している垣崎を見おろしながら、呼吸を整える。
「……障害者相手なら、力ずくで簡単に言うことを聞かせられると思った? あんまり舐めないでよね。こっちはハンデがある分いろいろ考えてるんだから」
 用の済んだ武器をポケットにしまい、代わりにもうひとつの武器を取り出す。
 ポケットや鞄に容易に隠せる程度には細身だけれど、人を傷つけるには充分な刃渡りと鋭さを持ったナイフ。
 たたんである刃を口にくわえて開く。午後の強い陽射しを反射して輝くナイフを、垣崎の鼻先に突きつける。
「ねえ? あなたが私を殺すよりもずっと簡単に、私はあなたを殺せるの。わかってる?」
 涙ぐんだ、怯えた瞳が向けられる。逃げようにも、身体は痙攣するばかりでいうことをきかないようだ。
「はっきり言う。あなた目障りなの。私の……私と宏樹の前から消えて。口で言うより、二度と宏樹の前に出られないような顔にする方が早い?」
 刃を立てて、動けない垣崎の頬に押しつける。このままナイフを前後どちらかに軽く動かすだけで顔に大きな傷が残るだろう。
 思うように身体が動かない中で、自分の生命を他人に握られる恐怖。
 私が何度も感じてきた屈辱。
 少しは思い知ればいい。
 実際のところ、垣崎を傷つけるつもりはなかった。物的証拠が残ればこちらに不利になる。垣崎ごとき、ちょっと脅してやれば充分だと思っていた。そうすればこの先、少しは目障りではなくなるだろう、と。
 だけど――
「相変わらず怖いヤツだな、オマエは」
 背後から不意に声をかけられて、びっくりして振り向いた。驚くのは当然だ。垣崎のことに夢中になっていて、第三の人間が傍にいることなどまったく気づいてはいなかった。そもそも今は授業中である。
 しかし声の主は竹上だった。私なんか比べものにならないくらい、授業中に教室以外の場所にいることが多い人物だ。
 校舎の中に通じる扉の前に立って、いつものようにニヤニヤと笑いながらこの光景を面白そうに眺めている。
「な……なにやってんのよ、こんなところで」
 ナイフをポケットに隠しながら言った。普段「おとなしくて目立たない」存在である私が動けない女の子にナイフを突きつけている姿を見られるなんて、ちょっとどころではなく気まずい。
 竹上に対しては今さら隠しても意味はないのだが、女の子としてのたしなみである。
「なにやってんの、か。それは俺のセリフだと思うが?」
「……あんた、最初から見てたんでしょ?」
 あまりにも絶妙なタイミングでの登場。そうでなければ説明がつかない。
「や、途中から。お前が首絞められてたあたりかな」
「見てたんなら助けなさいよ!」
「知ってるからな。助ける必要はないって」
「……」
 そこで言葉を失った。竹上の言う通りだ。宏樹を除けば、私が隠し持っている『武器』の存在を知っている唯一の人間なのだ。
 無言で竹上を睨みつける。もう少しなにか言い返したかったが、うまい言葉が見つからなかった。
 だからそのまま立ち去ろうとした。落ちている杖を拾う。
「で、これ、どうすんだ?」
 竹上が、まだ動けずにいる垣崎を指差す。
「知らない。放っておけば?」
「それもどうかと思うが」
「知らない。私には関係ない」
 竹上がなにを言わんとしているのか、もちろんわかっていた。だけど、そのことにはあえて触れなかった。
 垣崎がひどい目に遭えばいいという気持ちはもちろんあるが、女としてはその行為を推奨する気にもなれない。だから「私には関係ない。竹上が勝手にやったこと」というスタンスを取るしかなかった。
「じゃ、好きにさせてもらうか。こんな美味しいシチュエーション、放っておく手はねーよな」
 竹上の大きな身体が垣崎の上に覆い被さる。セーラー服をまくり上げ、仰向けになっていてさえ存在感を失っていない大きな胸を乱暴に掴んだ。

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