11

 垣崎が家に遊びに来た。
 初めてのことだった。これまで外では時々デートしていたらしい二人だが、家に来たことはない。
 プール以来ほとんど会っていなかったみたいだから、業を煮やしたのかもしれない。宏樹の反応を見るに、どうやら約束もなしにいきなり押し掛けてきたという雰囲気だ。
 やや困惑したような表情を浮かべながらも、宏樹は垣崎を自室へ通す。
 一瞬だけ、私と目が合う。
 敵意のこもった挑戦的な視線と、そしてどことなく勝ち誇ったような表情を残して、垣崎は宏樹の部屋へと消えていった。
 私も自室に戻ってパソコンの前に座ったが、どうにも執筆に集中することができなかった。
 胸の奥に、なにかもやもやとしたものがある。
 はっきり言ってしまえば不愉快だった。
 垣崎が宏樹の恋人であることは構わない。外でいくらデートしようと好きにすればいい。
 だけど家には来て欲しくない。
 あまり出歩けない私にとって、ここは数少ない縄張り、私のテリトリーなのだ。
 それを他人に侵されたくはない。家にいる時の宏樹は、全部私のものでなくてはいけない。
 勝手な言い分と自覚しつつも、不快な気持ちを消し去ることはできなかった。考えないようにしても二人の様子が気になってしまう。
 なにを話しているのだろう。
 なにをしているのだろう。
 いつの間にか耳をそばだてていた。息を殺して、聴覚に全神経を集中してしまう。
 すると――
 微かに、垣崎の声が聞こえた。
『……ぁ……ん、あぁん……はぁ……』
 瞬間、身体が硬直した。腕に鳥肌が立つ。
 甘ったるい、鼻にかかった声。
 泣いているような、それでいてとても嬉しそうな声。
 なんの声か考えるまでもない。
 エッチ、しているのだ。
 宏樹の部屋で。
 宏樹と垣崎が、エッチしている。
 立ち上がって、部屋のドアをそっと開けて顔を出した。不明瞭だった声が、少しだけはっきりと聞こえるようになる。
『ん、……あはぁ……ぅん…………気持ちイ……イイのぉ』
 間違いない。
 エッチ、している。
 宏樹と、垣崎が。
 直線距離ならほんの数メートルしか離れていない場所で。
 私はドアノブを握りしめたまま固まっていた。身体が動かない。
 ショックを受けている自分に気がついて、少しだけ驚いた。
 こんなの十分に予想できていたことではないか。
 健康な高校生の男女。しかも女の子は胸が大きくて色っぽくて、なにより宏樹のことが大好きなのだ。
 なにもない方がおかしい。
 だけど、私はひどく傷ついていた。
 どうして、なのだろう。
 垣崎とエッチしているなら、どうして宏樹は私にあんなことをするのだろう。
 私は嫌なのに。したくないのに。
 どうして無理やりさせるのだろう。
 垣崎にしてもらえばいいではないか。
 例えば、彼女がエッチさせてくれなくて性欲を持て余しているというのならまだ話はわかる。だけど、ちゃんとエッチさせてくれる可愛い彼女がいるのに。
 単なる気まぐれなのだろうか。思い通りにできる女が身近にいるから、という理由だけで私を犯しているのだろうか。たまのつまみ喰い感覚で。
 そんなの我慢できない。
 実の姉に対して禁断の恋愛感情を抱いているから、とか。
 本命の彼女がさせてくれなくて性欲を持て余しているから、とか。
 そんな理由があると思っていたからこそ、苦しいことも、痛いことも、なんとか我慢してきたのだ。
 なのに。
 宏樹はその気になれば、垣崎と好きなだけエッチできる。あの子ならきっとフェラチオだって喜んでするだろう。お喋りな彼女の舌は私よりもずっと器用そうでもある。
『くっ……はぁん、あぁっ……あんっ! ……やぁぁ……すごい……はあぁっかっ、感じちゃう……』
 だんだん声が大きくなってくる。わざと私に聞かせようとしているかのように……というのは考えすぎだろうか。
 その声を聞いているうちに、涙が滲んできた。
 大好きな彼氏に気持ちのいいエッチをしてもらって幸せそうな垣崎。
 実の弟に乱暴に犯されている私。
 おまけに、たったひとつの小さな縄張りまで奪われようとしている。
 あてつけのように、いやらしい、気持ちよさそうな、幸せそうな声を聞かされている。
 両手で耳を塞ぐ。それでも大きな声は完全には遮断できない。
 いやだ。
 いやだ。
 聞きたくない。
 聞きたくない。
 こんなところにいたくない。
 私は回れ右すると、財布と携帯電話と杖を持って部屋を出た。
 出かけよう。どこでもいい。この家以外の場所なら、あの声が聞こえない場所ならどこでもいい。
 精一杯の早足で廊下を歩く。宏樹の部屋の前を通り過ぎる時には両手で耳を塞いでいた。
 ただでさえ足元がおぼつかないのにそんな歩き方をしたためだろう、よりによって部屋のドアの前で大きな音を立てて転んでしまった。
 人の足音に驚いた鈴虫のように、垣崎の声が止む。ドアが開いて宏樹が顔を出す。
「……出かけるのか」
 廊下にうずくまっている私を見て、いつもと変わらぬ愛想のない声で訊いてくる。私は黙って、ただ小さくうなずいた。
 ひどく惨めな気分だった。
「送ってってやるよ。駅でいいのか?」
「いい、いらない!」
 腕を取って立ち上がらせようとする宏樹。その手を振り払おうとしたが、太い腕に有無を言わさず抱えられてしまう。
「悪い。姉貴送ってくるからちょっと待ってて」
 宏樹は軽々と私を抱き上げて、背後を振り返って言う。
 ドアの隙間から部屋の中が少しだけ見えた。下着姿でベッドに座っている垣崎が、鬼のような形相で私を睨んでいた。


 地下鉄駅近くにあるコーヒースタンドで、アイス・カフェ・ラテのグラスを前にぼんやりとしていた。
 これからどうしよう。
 なにも考えていなかった。ただ垣崎の声を聞きたくなくて家から逃げ出してきただけなのだ。
 私を駅まで送って、宏樹は急いで帰っていった。
 今頃、邪魔者のいなくなった家で先刻の続きをしているのだろうか。
 垣崎を放って私を送った代償に、うんとサービスしてあげてるのかもしれない。
 むしゃくしゃする。
 垣崎に、私の聖域を土足で汚されてしまった気分だ。
 嫉妬、なのだろうか。
 そうかもしれない。
 宏樹に対して恋愛感情はないとはいえ、これは一種の嫉妬だ。
 あそこは私の居場所だ。
 宏樹は私のものだ。
 そうでなければいけない。
 私にとって、私が生きていく上で、宏樹は不可欠な存在なのだから。
 垣崎に盗られたくはない。それも、私のテリトリーの中で。
 今ごろ二人は何をしているのだろう。
 考えまいとしても、そのことが頭から離れない。
 口でしてあげてる?
 もう挿入している?
 ベッドの上で二人の身体が絡み合っている?
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 唇を噛む。血が滲むほどに。
 どうして宏樹は、私には乱暴なことをするのだろう。
 私じゃなくてもいいのに。
 ちゃんと、合意の上でエッチする相手がいるのに。
 憂鬱だ。
 家に帰るのが憂鬱。
 次にさせられる時のことを考えると憂鬱。
 だって宏樹には、喜んでしてあげる女の子がいる。
 積極的に違いない垣崎に比べたら、私の口なんて気持ちよくないだろう。無理やりさせられた上に他の女の子と比べられて下に見られるなんてことになったら、あまりにも惨めすぎる。
『そりゃ、お前がヘタだからだろ』
 ふと、竹上の言葉を思い出した。
『コーチ、紹介してやろうか? 知り合いの風俗嬢に、すっげーフェラのうまい奴がいるんだ』
 ……できるの、だろうか。
 プロの風俗嬢の手ほどきを受ければ、私でも宏樹を気持ちよくさせてあげられるのだろうか。
 垣崎よりも?
 ……
 ……バカ?
 思わず苦笑する。
 私ってば、バカなことを考えている。
 わかっている。そんなこと頭ではわかっている。理性ではわかっている。
 だけど手は勝手に携帯電話を取りだして、アドレス帳から竹上の名を選んでいた。

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