期末試験も終わり、もうすぐ夏休みというある金曜の夜。
 居間で新聞を読んでいた私は、観たかった映画が封切りされていることに気がついた。以前から楽しみにしていたのに、試験勉強のごたごたで失念していたのだ。
 明日は休みだから、観に行こうか。
 とはいえ、この身体でバスと地下鉄を乗り継いで街の中心部まで出るのも億劫ではある。身体が不自由だと、ついつい出不精になってしまう。服や本やCDなどの買物も、通販を利用することが多い。
 ちらりと、テレビを観ている宏樹の顔を見た。
 頼んで連れていってもらおうか。いや、それは迷惑だろう。
 こんな時、つい宏樹に頼りそうになるのは私の悪い癖だ。本当は自分の力で出歩くべきなのだ。
 通学は仕方がないとしても、個人的な理由の外出まで宏樹の手を煩わせるのは悪い。それに明日はデートかもしれない。先刻、垣崎から電話があったみたいだから。
「なにか?」
 視線に気づいた宏樹がこちらを向いた。
「……ううん、なんでもない」
 私は曖昧に首を振った。宏樹の視線が私の手元に向けられる。
「その映画、観たがってたな」
「ん、まあね」
 ずいぶんと目ざといものだ。いくらか驚きつつうなずいた。
「明日、朝十時でいいか?」
 宏樹はなんの前振りもなく、そう切り出してくる。
「映画観てから昼メシの方が、のんびりできるだろ」
「……連れていってくれるの?」
「どうせ、明日は買物に行こうと思ってたからな。ついでだよ」
「いいの? 他になにか用事があったんじゃないの?」
「いや、別に」
「……じゃ、お願い」
 結局、甘えてしまうのだ。
 宏樹が嘘をついているとわかっていても。
 その少し後、垣崎に断りの電話をしているを聞いてしまった。だけど、聞かなかったふりをした。なにも言わない方がいいのだろうと思った。
 たまに、思わなくもない。
 無愛想を装っているくせに、宏樹は私に気を遣いすぎではないだろうか。
 決して喜んでやっているようには見えない。
 垣崎に対するような、愛想のいい表情なんて見せない。
 なのにいつだって私のことを最優先してくれる。
 もしかしたら、宏樹なりの贖罪のつもりなのだろうか。
 父と私が事故に遭ったことには、宏樹が関わっていた。あの日私たちは、熱を出した宏樹のために近くのドラッグストアへ薬を買いに行くところだったのだ。
 あるいは、私に性的な悪戯をしていることに対する後ろめたさがあるのかもしれない。
 真相はわからない。
 理由はどうでもいい。
 誰が見ても魅力的な女の子である垣崎よりも、私のことを優先してくれる。そのことにささやかな優越感を覚えていた。


 翌日はいい天気だった。
 ありがたいことだ。普段から杖という余分な荷物を抱えている私にとって、それに傘が加わるのは憂鬱以外のなにものでもない。それに好天で暖かい日の方が身体の調子もいい。
 簡単に朝食を済ませて宏樹に着替えを手伝ってもらう。いや正確にいえば、ほとんど宏樹に着替えさせてもらっている。
 パジャマが脱がされブラジャーを着けてもらう。弟に下着を着けてもらう姉というのもどうかと思うけれど、器用な宏樹に任せた方が形が綺麗なので、私服で外出する時は頼ってしまうことが多い。
 宏樹の手が、乳房とその周辺を撫で回す。周囲の肉を集めてカップに収め、綺麗に形を整える。お世辞にも豊かとはいえない私の胸が一回り大きくなっていた。
「どうだ?」
 黙って鏡を見ていた私に宏樹が訊く。
 弟の手で着けられたブラについてのコメントを求められると、さすがに恥ずかしい。平静を装うのには少なからぬ精神力を必要とする。
「……ん、いいよ。相変わらず上手だね」
「慣れてるからな」
 年頃の女の子の胸を触っていたというのに、普段となにも変わりない素っ気ない口調。弟と性的な関係を持つことに抵抗はあっても、こんな態度を取られると女としてのプライドが傷ついてしまうのも事実だ。
 だから、ちょっとからかってやろうか……なんて思ってしまう。
「ひょっとして、垣崎さんにもこーゆーことしてあげてるの?」
 微かな表情の変化を私は見逃さなかった。私の口から垣崎の名前が出ると宏樹は不機嫌になる。ガールフレンドとのことをからかわれることを恥ずかしがっている、照れ隠しに見えないこともない。
「……あいつに、そんな必要があると思うか?」
 少し間を置いて宏樹は言った。垣崎の名前を出す前に比べて明らかに声のトーンが低くなっていた。
 それがたとえ怒りであっても、宏樹が感情を露わにしてくれると私は安心する。なにを考えているのかまるでわからない無表情で私に触れている時よりも、この方がずっと可愛いげがある。
「確かに必要ないか。あの子が思いっきり寄せてあげたら、凄いだろうねー」
 もともと長身で巨乳の垣崎は、底上げに使える脂肪も私より多い。
「紗耶と比べたら、昭和新山と富士山くらいの差になるか」
「ひどぉい。そこまで言う?」
 三七七六メートルの富士山に対し、昭和新山の標高は四○○メートル程度。いくらなんでもそこまでの差はない……と思いたい。
「せめて、羊蹄山くらい言ってくれない?」
 別名、蝦夷富士とも呼ばれる羊蹄山の標高は、富士山の半分ほどだ。
「そりゃいくらなんでも、北海道を代表する名山に失礼だろ。天保山と言われないだけありがたいと思え」
 女性の胸のサイズに対する比喩としてはおそらく日本一失礼な固有名詞を口にしながら、宏樹はせっかく着けたブラジャーのホックを外してしまった。
「なんか、気に入らないな。やり直し」
「え?」
 意外な言葉だった。十分すぎるほどに綺麗に整っていたのに。
 宏樹の手が、胸を裾野の方から持ち上げるようにして包み込んだ。周囲の肉を集めて膨らんだ乳房を、何度も揉みほぐしてから手を離す。
 何度も何度も、その動作を繰り返す。
 リズミカルに揺れる膨らみ。
 頂には触れないものの、それは明らかに胸に対する愛撫だった。入浴時よりもずっと直接的な、性的な愛撫。それでもブラの形を整えるためという言い訳はある。
 先刻の倍以上の時間をかけてブラジャーが着けられた。その仕上げは一度目同様に完璧だ。
 それでも鏡に映る私の姿は、今の方がいくぶん綺麗に見えた。性的快感を覚えるほどに触れられたせいで身体が火照り、肌に赤みが差している。その分だけ、女性としての色気が増しているのかもしれない。
「どうだ?」
 また宏樹が訊く。
「……完璧、文句なし」
 もちろん、そう答えた。ここで「もう一度やり直し」なんて言われたら、今度はショーツを変えなければならなくなってしまう。今だって、むず痒いような疼きを覚えているのだ。
 さすがに宏樹もそれ以上のことをしようとはせず、Tシャツを着せてくれた。ぴったりとしたTシャツは、いつもより大きめの胸の形がはっきりとわかってしまって少し恥ずかしい。
 そしてジーンズ。普段はロングスカートが多い私だけれど、今日は動きやすい服装でなければならない。着替えが面倒なのでジーンズは好きではないのだが、太腿に大きな傷痕が残っているので、ミニスカートや短パンというわけにはいかないのだ。
 太股を撫でるようにしながら、ジーンズを履かされる。その行為は、胸への愛撫で生じた疼きにいっそうの拍車をかけた。
 しかも、それで終わりではない。
 着替えが済むと、今度はお化粧。
 それほどお洒落には気を遣う方ではないけれど、私だって今どきの女子高生。外出時には最低限のお化粧くらいはする。
 これも宏樹の仕事だった。
 椅子に座った私の顔に宏樹の手が触れる。軽く上を向かせて、慣れた手つきで彩ってゆく。
 少し緊張してしまう。緊張の度合いという点では、お風呂で身体を現われている時よりも強い。特に、仕上げに口紅を塗られる時には、鼓動が宏樹の耳に届きそうなほどに大きくなった。
 宏樹の顔が至近距離にある。真っ直ぐに私を見つめている。その真剣な表情は、小芥子に顔を描き入れる職人を思わせた。
 細い筆が唇の上を滑っていく。一塗りごとに、唇が鮮やかさを増していく。それに比例するように、私の鼓動も速く激しくなっていく。
 お風呂で全裸になって身体を洗われている時、性器を触れられる快感はあっても、ここまで緊張することはない。なのに口紅を塗ってもらうだけのことをこれだけ意識してしまうというのもおかしなものだ。
 その理由はわからなくもない。
 女性のお化粧は、本来、異性の気を惹くためのもの。
 そして唇は、キスとか口淫といった性的な行為にも用いられる部位。
 異性にお化粧してもらうこと。唇を触れられること。その行為にはどうしても「性」を意識させられてしまう。
 優しく触れていく紅筆。それは唇への愛撫だった。
 決して派手ではない、しかし丁寧なお化粧が終わった時、私の頭はすっかりピンク色に染まってしまっていた。
 だから、家を出る前にお手洗いに入った。
 このまま出かけるわけにはいかない。この後しばらくの間、宏樹と身体を密着させなければならないのだ。こんな火照った身体のままでは、嫌でも宏樹を「男性」として意識してしまう。
 せっかく履かせてもらったジーンズを下着と一緒に下ろし、便器に腰掛けた。
 最初は、濡れた局部を拭くだけのつもりだった。しかし一度そこに触れてしまうと、もう堪えきれなかった。
 濡れて熱くなっている割れ目の中に、中指を埋める。びくっと身体が震える。声が漏れそうになるのを手で口を押さえて堪えながら、指を前後に滑らせた。
 そこはもう、滴るほどに濡れている。
 どうして、こんなに感じやすいのだろう。怪我をした手脚の感覚が鈍いのとは対照的に、胸や性器は自分でも嫌になるくらいに敏感だ。
 私にも一応、人並みの慎みというものはある。不感症では困るだろうが、あまりに感じやすいのも、それはそれではしたないように思えて嬉しくない。
 それとも、この年頃の女の子はこれが普通なのだろうか。ちょっと異性に触れられただけで、誰でもこんなになってしまうのだろうか。
 これから外出だというのにトイレで自慰に耽っている自分が、汚らわしい存在に感じた。なのに指は止まらない。
「んっ……く……、ん……んふっ……ぅん」
 額に汗を滲ませながら、必死に指を動かした。あまり時間をかけることはできない。早く終わらせなければ、待っている宏樹が訝しむだろう。
 だけど焦れば焦るほど、目前に迫っているゴールまでの距離がなかなか縮まらなくなってしまう。気持ちいいのは間違いないのに、焦燥感のために快楽に意識を集中することができない。
 私はがむしゃらに指を動かした。手を小刻みに震わせるようにして、指先でクリトリスを擦る。
「ふっ……ぅんっ、……んっ、んっ!」
 唇を噛む歯の隙間から息が漏れる。普段の、自分のベッドでの自慰のような声を出すわけにはいかない。間違いなく宏樹に聞かれてしまう。
「うぅ……んっ、んんっ、んぅぅーっ」
 指の動きが加速する。左手の中指を中に挿入する。
 もう少し。
 もう少しで、達することができそうだ。
 もう少し……
「んんっ、んん――っ! ん、うぅぅっ!」
 ぶるぶるっと全身が震えた。
 局部の小さな肉芽から発した快感が、電流のように身体を貫く。
「あぁ……はぁぁ……」
 身体を小さく痙攣させながら、大きく息を吐きだした。頭の中にピンク色の靄がかかっている。
 全身から力が抜けていく。緊張の極限から一気に脱力したせいか、少量の小水が漏れて手を汚した。
 その生暖かい感触で我に返り、慌ててトイレットペーパーで手を拭う。
 気怠さに包まれる。本当ならしばらく余韻に浸っていたいところだ。だけど、そんな時間はない。
 ビデで洗浄してからトイレットペーパーで念入りに拭き、水を流して手をきれいに洗う。
 できるだけ急いだつもりだったけれど、お手洗いを出ると、自分も外出の支度を終えた宏樹が待ちくたびれたような表情を見せていた。
 宏樹の手を借りて靴を履く。
 小さなバッグと、伸縮式で軽いアルミ製の杖を肩にかけてもらって玄関を出る。
 家の前には宏樹のオートバイが出してあった。玄関の鍵を閉めた宏樹は、私にヘルメットをかぶせてからそれにまたがる。私はその後ろに乗る。
「いいか?」
「ん」
 大きな背中に胸を押しつけ、宏樹の身体に腕を回す。
 宏樹が私の手に触れる。
 ふわふわした毛の感触と、金属製の鎖の冷たさ。
 両手首が固定される。
 また少し鼓動が速くなる。
 私の手には、手錠というか、手枷が填められていた。短い鎖でつながれた腕輪だ。
 麻痺の残る左腕は、たまに、意志に反してふっと力が抜けることがある。こうして繋いでいないと危険なのだ。これなら少しくらい力が抜けても落ちる心配はない。
 以前、十六歳になった宏樹が免許を取った直後は、紐で縛っていた。しかしそれでは、頻繁に乗り降りする場合に面倒だ。そこで、宏樹がネットでこれを見つけてきた。
 手枷といっても手首に填める部分は金属や皮ではなく、柔らかなピンクのフェイクファーで覆われていて痛くはない。いうまでもなく、やや特殊な性癖の人たちが使う小道具のひとつである。アダルトグッズをネット通販しているお店で買ったものだ。
 そんなものを着けて公道を走ることが、恥ずかしくないといえば嘘になる。しかし杖に頼って歩き公共交通機関を利用する手間を考えると、オートバイでどこでも自由に移動できた方が楽に決まっている。
 私は羞恥心を捨てた。それにオートバイで疾走している時に、私の手首にまで注目している人はそういないだろう。以前ツーリング中に検問で停められた時は、不審人物を見るような目の警官に事情を説明するのが少しばかり手間だったけれど。
「行くぞ。しっかり掴まってろよ」
「……ん」
 手首を拘束されたまま、腕に力を込める。宏樹にぎゅっとしがみつく。
 鼓動が速くなっていく。
 顔が火照ってくる。
 出かける直前にひとり遊びなんかしてしまったためだろう。考えないようにしてもやっぱり意識せずにはいられない。
 そう。
 いま宏樹と私を繋いでいるものは、性行為のための道具なのだ。


「……で、宏樹の買物って?」
 JRタワーのシネマフロンティアで映画を観て、人気のオムライスの店で昼食を終えたところで私は訊いた。
「ん? ああ、水着」
「そっか、もうそんな季節か。あんた、この一年でずいぶん大きくなったもんね。去年のは入らないか」
「紗耶は全然成長しないよな。でも水着くらいは毎年新調しろよ。一応仮にも女なんだから」
「ん……まあ、そうね」
 一応仮にも、とは失礼な台詞だ。しかしその指摘はかなりの部分真実ではある。この一年間での身長の伸びは一センチに満たないし、胸や腰も言うに及ばずだ。
 それに私の場合、学校の授業以外で泳ぎに行くなんて年に何回もあるわけではない。去年買った水着はまだ新品同様で、サイズ的にも問題ない。
 だけど確かに、年頃の女の子なら水着は毎年変えるものかもしれない。どうせ宏樹の買物に付き合うついでだ。私は一緒に、同じビルの中にあるスポーツ用品店へと向かった。


 わざわざ手間暇かけて街中まで出てきたのに、宏樹の買物はあっという間だった。
 男の子の水着なんてそんなものだろう。それに買物が口実であることも知っている。ついでのふりをして、私を映画に連れてきてくれたのだ。
 水着は以前から考えていた買物ではなく、昨夜急に必要になったもののはずだ。宏樹は今日の垣崎とのデートをキャンセルする見返りに、今度一緒にプールへ行く約束をさせられたのだ。こっそり盗み聞きした電話で、そんなことを話していた。
 自分の買物を終えた宏樹は、私を女性用水着のコーナーへ連れて行った。さすがに夏休み直前ということで、色も形も様々な水着が所狭しと並んでいる。
「これなんか、いいんじゃないか」
 できるだけ目立たない地味なデザインの水着を探していた私に宏樹が指し示したのは、鮮やかな朱色を基調とした、やたらと露出度の高いビキニだった。
「なに考えてんのよ。そんなの似合うわけないじゃない」
「紗耶みたいに体型が地味なやつは、かえって派手な水着の方がいいらしいぞ」
「た……」
 一瞬、絶句してしまった。
 体型が地味とは。
 いくら事実とはいえ、つくづく失礼な奴だ。姉弟だから遠慮する必要などないのかもしれないが、もう少し乙女心というものを考えてくれてもいいだろう。
 本当に可愛いげがない。
 第一、姉のことを呼び捨てにするというのもどうかと思う。昔はちゃんと「お姉ちゃん」と呼んでくれていたのに、いつからこうなったのだろう。
 まあ、仕方ないといえば仕方がない。姉とはいえ、年上とはいえ、世話になっているのはこちらの方だ。
 それにしても、この派手な水着はどうかと思う。どう考えても私に似合うとは思えない。悔しいが宏樹の言う通り、女性的魅力には乏しい地味な体型なのだ。これはむしろ、垣崎のような女の子向きではないかと思う。
「でもほら、私の場合、傷が……」
 太腿と背中にある大きな傷痕。他にも数カ所、小さな傷痕が残っている。ビキニなんて着たら丸見えだ。
「どうせワンピースでも隠しきれない傷だろ。大正時代みたいな水着でも着るのか?」
「それは……そう、だけど」
 やっぱり女心がわかっていない。
 家族やお医者さんに裸を見られるのは平気でも、醜い傷痕の残る身体を海水浴場なんかで人目に曝したくはない。
「隠したって仕方ねーだろ。一生残る傷なんだし」
「そんな気楽なものじゃないわよ。宏樹にはわかんないだろうけど」
「ああ、わかんねぇ。それでも、人の少ない海岸まで連れてってやることくらいはできるぞ?」
「……」
 これだ。
 ぶっきらぼうで、無愛想で、失礼なことばかり言って、性的な悪戯をするくせに。
 それでもやっぱり、本質的な部分では私に優しい。
 だから宏樹には逆らえない。
「……わかった。じゃあ、試着してみる」
 私は水着を受け取って試着室に入った。
 さすがに、水着売場の試着室に宏樹と一緒に入るわけにはいかない。かなり手こずって、なんとか一人で水着に着替える。
 鏡に映してみても、露出の多い派手な水着はやっぱり似合っているようには見えなかった。それにどうしても、水着よりも傷痕に目が行ってしまう。
 それでも一応、カーテンから上半身だけを出して宏樹の意見を聞いてみる。
「…………どぉ?」
「まあ、いいんじゃない? つか、なに着たってこれ以上よくなるわけでもなし」
「悪かったわね!」
 少しは気休めになる台詞を期待していたので、これはさすがに癇に障った。こんな水着さっさと脱いでしまおうと試着室に戻りかけた時、
「へぇ、珍しいもん見た」
 聞き覚えのある声が耳に入った。毎日のように耳にしている声だ。
 嫌なところで嫌な奴に会った、と思いながら顔を向ける。視線の先には、クラスメイトの竹上雄一がからかうような笑みを浮かべて立っていた。
「三島の水着姿なんか初めて見た。去年の夏、水泳の授業はずっと見学だったもんな」
「……そもそもあんた、水泳の授業なんかサボって出て来ないじゃない」
 正確にいえば、竹上は体育に限らず他の授業もよくさぼる。それでも高校に入れたのは、入試で私がカンニングの手助けをしてやったからだ。
「だいたい、こんなとこで何やってんのよ」
「何って、買物に決まってるだろ。……それにしても」
 手に持っていた、この店のロゴが入った袋を掲げてみせた竹上は、どこかいやらしい印象を受ける目つきで私の身体をじろじろと睨めまわした。
「これっぽちも期待はしていなかったが、これほどとは……」
 わざとらしく大きな溜息をつくと、諦めたような素振りで肩をすくめて首を振る。私の水着姿について、心の中でかなり失礼な評価を下したことは間違いない。
「もっと彼氏に揉んでもらえよ。少しは成長するかもしれねーぞ」
「うるさい、馬鹿!」
 馬鹿にしたような笑を残して去っていく竹上の背中に、きつい言葉を投げつける。
「なにが彼氏よ! 弟の宏樹よ、知ってるでしょ」
 もちろん知っているはずだ。
 身体の不自由な姉と、甲斐甲斐しく(?)その世話をする弟。私たち姉弟は学校内ではそれなりに有名人である。宏樹と直接の面識はないはずだが、中学時代から私とクラスメイトの竹上が知らないわけがない。知っていてからかっているのだ。
 竹上の姿が見えなくなったところで、宏樹の方を見た。なにか言いたげな様子だ。
「なに?」
「誰?」
 竹上が去っていった方を親指で指して訊く。
「クラスメイトの竹上……聞いたことない?」
 宏樹が微かに眉をひそめる。おそらく、竹上の悪い噂は二年生の間にも広まっているのだろう。
「仲いいのか?」
「まさかっ、あいつは天敵よ」
 複雑な表情をしている宏樹に向かって、わざと大げさに答えた。

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