prismatic inane

by 西崎やまねこ

序章


 少しの間、失神していたのかもしれない。
 朦朧とした意識の中、ゆっくりと目を開ける。
 最初に視界に入ったのは、壁一面の大きな鏡に映った全裸の女の子だった。
 小柄で華奢な体格をしていて、一見、中学生くらいに見えなくもない。その割に胸の発育はよく、単なる子供にはない独特の色気を漂わせている。胸の先端に付けられた小さなアクセサリも、その効果を高めていた。
 俯せでベッドに横たわり、細い腕は背後に回されて手錠でつながれ、首には鎖のついた深紅の首輪が嵌められている。
 焦点の合わない虚ろな瞳と、くしゃくしゃに乱れた長い髪が、その小さな身体に加えられた責めの激しさの名残だ。
 私は小さく首を振る。鏡の中の女の子が同じ動作をする。頬に張りついていた髪が剥がれる。
 その小さな物音が、室内にいたもうひとりの人物の注意をこちらに向けた。
「莉鈴、目が覚めたか?」
 首を巡らして声の主を見る。
 ネクタイを結ぶ手をとめて私を見ている、男性の姿が視界に入る。
 そろそろ四十歳近いはずだが、髪は黒く、身体は引き締まっていて、実際の年齢よりもかなり若く見えた。メタボリックな体型で若い娘を抱くのは、彼の美意識が許さないらしい。スポーツマンのような体型を維持するために少なからぬ労力を費やしていることは知っている。
「パパ……もう帰っちゃうの?」
 それが自分の声とはにわかに信じられないくらい、甘えた声が発せられる。
「もっと一緒にいたかったのに……」
「失神するほど感じていたのに、まだ足りないのか? 欲張りだな、莉鈴は」
 帰り支度を再開しながら〈パパ〉が苦笑する。
「パパとだったらどれだけしたって足りないわ。もっともっと、何十回でも、何百回でも、失神させて欲しいもの」
「俺の身がもたないよ。悪い、これから仕事なんだ」
「また? もぉ、パパってば働きすぎよ」
 相変わらず忙しい人だ。だからこそ、私のような女の子たちと〈遊ぶ〉お金にも事欠かないのだけれど。
 身支度を調えた〈パパ〉が近寄ってくる。
 大きなベッドの脇に立つと、私の首輪につながる鎖を乱暴に引っ張って顔を上げさせる。もう一方の手で顎を掴んで、唇を重ねてくる。
 強引なキスに、私は自分から舌を伸ばして応える。
「そうそう。今月のお小遣いは、振り込んでおいたから」
「ありがとう、パパ」
〈パパ〉の腕が背後に回される。私の身体を抱くためではなく、手錠を外すために。
 自由になった腕を〈パパ〉の身体に回す。ただし、スーツが皺にならないように力は込めない。
 もう一度唇を重ねながら〈パパ〉は首輪も外す。手が自由であっても自分で外してはならない――それが私たちの間の〈ルール〉だった。
「莉鈴はまだ起きあがれないだろ。ホテルの精算は済ませておくから、ゆっくり休んでいきなさい」
「はぁい。パパ、お仕事頑張ってね」
 もう一度、今度は私の方から唇を押しつける。三十秒ほどそうしていて、名残惜しげに腕を放す。
「……いってらっしゃい」
「また、な」
 小さく手を振って〈パパ〉の姿が視界から消える。
 ドアの開閉の音が聞こえてくる。
 その瞬間、鏡に映っている顔からいっさいの表情が消えた。人形よりも無機的なその顔には〈パパ〉に可愛らしく甘えていた女の子の面影はどこにもない。
 のろのろと立ちあがる。
 身体がふらついている。まだ少し朦朧としていて、平衡感覚が狂っていた。
 行為の前に〈パパ〉に飲まされた〈クスリ〉の影響が残っているのだろう。頭はぼんやりしているのに、身体の奥深くには熱い熾火が残っているような感覚だった。
 立ちあがると、内腿を液体がゆっくり流れ落ちていくのを感じる。
 指で拭い、顔の前に持ってくる。
 白っぽく濁った、粘性のある液体。
 私の愛液と〈パパ〉の精液が混じったそれは、不快な生臭い匂いを放っている。
 なのに私は、指を口に含んだ。指を汚している粘液を一滴残らず舐めとり、飲み下す。
 きれいになった手を、また下半身に運ぶ。
「ん…………」
 自分の中に指を挿れる。膣内に残っている粘液を掻き出す。
 そして、その指をまた口に含む。
 何度も、同じ動作を繰り返す。
「……ぁ…………は、ぁ」
 奥深くまで指を挿れて中をかき混ぜていると、切なげな声が漏れてしまう。〈クスリ〉の影響が残っている身体は、普段よりもずっと敏感だった。
 精液の味がしなくなっても、指を塗らす液体の量は変わらない。精液よりは透明感のある、新たな粘液が分泌されてくる。
 指が、意志に反して勝手に動き始める。
 中指と薬指を奥深くまで挿入する。くちゅくちゅと湿った音を立てて中をかき混ぜる。
 中はすごく熱い。醒めた表情とは裏腹に、身体の中では炎が燃えさかっている。〈クスリ〉の効果は数時間は続くのだ。〈パパ〉とのセックスが失神するほど激しいものであっても、一度達したくらいでは治まらない。
「ぁ……っ、ん…………ふぁ……んっ」
 立っているのが辛くなって、その場に膝をついた。
 指を根元まで挿入する。
 それでも足りず、ぐいぐいと手を押しつける。
 痛いくらい、乱暴に。
 爪で、中を引っ掻く。
「…………っっ!」
 涙が滲むほどの鋭い痛み。
 なのに身体は、その刺激で快楽の極みを迎えていた。
「……は…………ぁ……」
 全身から力が抜けていく。そのまま床に倒れ込みそうになるのを堪えて、ベッドに手をついて立ちあがった。
 ソファの上に放り出してあった鞄の中から、愛用の剃刀を取りだす。それを持って、危なっかしい足どりバスルームへ向かう。
「……今日は一回だけ……か」
 こんなことは珍しい。〈パパ〉との〈デート〉では、泊まりにならない日でも夜中近くまで行為を繰り返すのが普通だった。
「…………」
 やや物足りなさを感じつつ、剃刀の刃を左手首に当てる。
 剃刀を握った右手に軽く力を込め、一瞬の躊躇もなく刃を滑らせる。
 鋭い痛み。
 手首に紅い筋が浮かびあがり、腕を流れ落ちていく。
 肘まで流れて滴り落ちる。
 バスルームのタイルに、紅い斑点が刻まれていく。
 私は剃刀を握ったまま、じっとそれを見つめていた。

 バスルームを出ると、まず、左手首に包帯を巻いた。
 シャワーを浴びるくらいの時間では、まだ出血は止まっていない。血の汚れはなかなか落ちないから、着替えの際に制服を汚すのは好ましいことではない。
 それからのろのろと服を手に取る。
 性交の後につきまとう気怠さに〈クスリ〉の影響が加わって、ただ服を着るだけの動作も重労働だった。
 ショーツは穿いたが、面倒なのでブラジャーもキャミソールも着けない。まるめて鞄に詰め込む。
 素肌の上に直にブラウスを着け、スカートとオーバーニーソックスを穿く。首のリボンは省略した。
 乱れた髪に軽くブラシを通す。普段、学校へ行く時には三つ編みにしているけれど、もちろん今はそんな気力もない。
 眼鏡もかけず、ケースごと鞄にしまう。
 ベッドに腰をおろして溜息をつく。
 こんないいかげんな身支度をするだけでも、ひどく疲れた気分だった。立ちあがるのが億劫になる。このままベッドに倒れ込んでしまいたい。
 それができればどれほど楽だろう。
 だけど、それは許されない――楽であるが故に。
 もう一度小さく深呼吸して、ゆっくりと立ちあがった。


〈パパ〉とのひとときを過ごしたラヴホテルを出ると、外は真っ暗だった。
 時刻はまだ夕方だけど、不気味なほどに黒い雲が低く立ちこめている。
 ホテルに入る前から怪しい空模様ではあったが、いよいよ雨が降りだしていた。アスファルトは黒く濡れ、道を行く人の大半が傘を手にしている。
 おそらく、雨はこれからさらに強くなるのだろう。
 それがわかっていても、私はそのまま歩き出した。

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