「愛姫、まだ帰っていないんだ?」
夕方、悠樹はいつものように大学の帰りに嘉~家を訪れた。しかし、愛姫はまだ帰っていなかった。
珍しいことだ。大抵は愛姫の方が先に帰っているのだが。
「ええ。犬神様、なにか嫌われるようなことをしたのではありませんか?」
麻由の軽口もいつものこと。
淹れてもらったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をして暇を潰し、愛姫の帰りを待つ。
麻由は明るくて社交的で、話しやすい。血が薄いせいかもしれないが、神流以上に鬼魔という雰囲気がなかった。ふたつみっつ年上だとは思うが、感覚的には大学の女友達と話しているのと大差はない。
幼い頃から愛姫と一緒にいた麻由から、子供の頃の愛姫の話を聞けるのは興味深かった。小さな頃の失敗談なんて、おそらく本人が同席していたら聞かせてはもらえない話題だろう。
麻由とは話しやすいが、嘉~家のもうひとりのメイドの縁子は、悠樹の前にはあまり顔を出さない。避けられているような印象すら受ける。鬼魔に犯された経験から、あるいは男性全般が苦手なのかもしれない。ごく稀に話をすることがあってもそれは必要な連絡事項だけだし、縁子の対応には感情というものが完全に欠如していた。
それが、鬼魔に襲われることの現実だ。それでも縁子の場合、生命があっただけでも運がいいのかもしれない。ほとんどの場合は鬼魔に喰い殺されるか、そうでなくても犯されたショックで発狂して廃人となるという。
耐性があるはずの愛姫でさえ、鬼魔とのわずかな接触であれだけの影響を受けたのだ。たしかに、常人であれば生命に関わる事態だろう。
そうしたことを考えると、今日、愛姫の帰りが妙に遅いことは悠樹の不安をかき立てた。
単に、下校途中に友達と寄り道をしているだけならいい。しかし、普段の夕食の時刻を過ぎてもなんの連絡もないのは不自然だった。
愛姫の携帯に電話しても、サーバの留守電サービスにつながるだけだった。携帯電話そのものは電源がオフになっているか、電波の届かないところにいるということだ。
「こういうこと、よくある?」
一縷の望みで、麻由に訊く。しかし、首は左右に振られた。
「犬神様が来る日なのに、連絡もなしに遅くなるのは不自然です」
「そんなに、俺に逢いたがってるんだ?」
「いえ、相手が誰であれ、約束は律儀に守るというだけです」
からかうような口調の麻由も、しかし、どことなく不安げだった。
普通の女子高生であれば、帰りが多少遅くなったところで、どこかで遊んでいると思うだけだ。しかし愛姫の生活は、普通の女子高生とは大きく異なっている。生命の危険が〈日常〉なのだ。
「高橋さんに連絡してみたら?」
「高橋様は、今、海外です。水姫様のお仕事の手伝いで」
「他に心当たりは……」
「心当たりのあるような場所にいるなら、電話が通じないとは考えられません」
危険と隣り合わせの生活を送っているだけに、常に連絡が取れるように気をつけているという。
だとすると、今の状況は問題だ。
悠樹の中で、不安が大きくなっていく。
愛姫に限って滅多なことはないと思いたいが、鬼魔に対して強力な力を持つ愛姫であっても、決して無敵ではない。その事実はつい先日思い知らされたばかりだ。
とりあえずもう一度電話してみようか、と携帯を取り出したところで、愛姫からのメールを知らせる着メロが鳴りだした。
ほっと安堵の息をついて、メールを開く。
メールには、不自然に大きなファイルが添付されていた。画像……いや、動画だ。
それを再生したところで、悠樹は凍りついた。
携帯電話の小さなディスプレイの中で、全裸の愛姫が四つん這いになって背後から大きな狼に犯され、恍惚の表情で喘いでいた。
全身、精液まみれで、いくつもの咬み傷があって血を流している。
鬼魔の仕業であることは一目瞭然だった。
スピーカーから聞こえた声に、血相を変えた麻由が悠樹の手から携帯電話を奪い取った。
「――っ!」
麻由を中心に、突風が吹いたような錯覚を受けた。
ここまで色濃く鬼魔の気配を発している麻由は初めて見た。怒りに包まれた山猫が、全身の毛を逆立てている――そんな雰囲気だ。
瞳が、銀色に輝いている。不自然に長く鋭い犬歯を剥き出しにして唸り声を上げる。
そのまま携帯電話を握り潰すのではないかとすら思えたが、麻由は血が滲むほどに唇を噛んでその衝動を抑えた。昂った気持ちを鎮めるように、二度、三度、大きく深呼吸する。
「これは……例の、狼の群のボスですか?」
声が、震えている。
叫び出したいのを必死に堪えているかのようだ。
動画の再生を一時停止して、ディスプレイを悠樹に向ける。映っているのは、目を背けたくなる光景だった。
力ずくで無理やり犯されているなら、まだ仕方がないとも思える。しかし愛姫は恍惚の表情で男の上に跨り、自ら腰を振って快楽を貪っていた。
麻由に代わって携帯電話を叩き壊したい衝動を必死に抑える。今の問題は、相手の男の方だ。
筋肉に覆われた、日本人離れした体格の大男だ。右目が剔られて大きな傷痕になっている。
人間の姿を見るのは初めてだが、間違いない。あの、神流や愛姫と初めて会った日に遭遇したボス狼、カミヤシだ。
悠樹は無言でうなずく。
麻由はまた携帯電話のディスプレイに視線を戻した。
「……GPS情報が添付されています。ここへ来い、という意味でしょうね」
必死に怒りを抑えているのが伝わってくる、微かに震える声。
携帯電話を操作して、地図を表示しているようだ。
「……千葉……房総半島の山中、でしょうか。あの小娘も連れてこい、とありますが、これは瀬田神流のことですね?」
「復讐……か?」
鉛の塊でも詰め込まれたような喉から、声を絞り出す。
喉が、からからだった。
カミヤシの意図は明白だ。自分に深傷を負わせた神流、多くの仲間を殺した愛姫、そして、二人の仲間である悠樹。あの夜の復讐をしようというのだろう。
愛姫を最初に狙ったのも、理由があってのことだろう。あの夜、神流とカミヤシの戦いは互角に見えた。ならば、リスクは高くても先に愛姫の血を得れば、カミヤシは神流よりも圧倒的に優位に立てる。そうなれば当然、悠樹も敵ではない。
もしかすると先日の事件も、たまたまではなく、最初から愛姫を狙ったものなのかもしれない。
「車を出します。すぐ向かいましょう」
スカートを翻し、玄関へ向かう麻由。悠樹も後に続く。
今すぐ、愛姫を助けなければならない。それができるのは自分たちしかいない――そんな、強い想いに囚われて。
しかし、床を踏み抜かんばかりの勢いの二人の進路を、小さな人影が塞いだ。
まったく感情というものが欠如した、人形よりも無機的な顔。縁子だ。
「邪魔よ、縁子。私は犬神様と出かけてきます。帰りは遅くなるので先に休んでなさい」
硬い声でいい、横をすり抜けようとする麻由の腕を縁子が掴まえた。その動きも、どこか機械めいていた。
「犬神様と麻由、二人で行っても、無意味」
まったく抑揚のない、平坦な声。機械の合成音声よりも無機的なのに、それは確かに人間の肉声。ひどく違和感がある。
「百パーセント、負ける」
「……そ、そんなの、やってみなければわからないでしょう!」
「本当に、やってみなければわからないのなら、莫迦」
縁子の物いいにはまったく遠慮というものがなかった。一応、麻由は職場の先輩であるはずなのに。
しかしその口調は、頭に血が昇った悠樹がいくらか冷静さを取り戻すには役に立った。
確かに、縁子のいう通りだ。
一刻も早く、愛姫を助けなければならない。それは間違いない。
しかし麻由と悠樹のふたりでそれができるかといえば、現実問題としてまず不可能だ。
魅魔の血の力は強くても、鬼魔との戦いに関してはまだ素人同然の悠樹。
経験と知識は充分にあっても、鬼魔としては致命的に力が不足している麻由。
先日、彼女はいっていたではないか。鬼魔としての力は、愛姫の血を口にしても並の鬼魔にも劣る――と。それでは、たとえ悠樹の血を麻由に与えても、愛姫の血をたっぷりと摂取しているはずのカミヤシには対抗できない。愛姫と悠樹の血の力の差以前に、元々の鬼魔としての力が違いすぎる。
そんな麻由が戦いの場に赴いて万が一のことがあったら――しかもそれは万が一などという低い可能性ではない――運よく愛姫を救い出せたとしても、愛姫は喜ばないだろう。麻由が傷つくところを見たくないから、愛姫は麻由を戦いのパートナーにはしなかったのだ。
悠樹だって、並の鬼魔の一人や二人はなんとかなるかもしれないが、カミヤシに勝てる可能性はほとんどあるまい。なんといっても、愛姫が捕らえられたほどの強敵なのだ。
愛姫のために生命を賭けることはいい。それで愛姫を救えるのなら。しかし現実問題として、現状ではただ犬死にするだけで、目的を果たせる可能性は極めて低い。
ひとつ、深呼吸する。
落ち着け、と自分にいい聞かせる。
落ち着いて、多少なりとも勝算のある策を練らなければならない。
麻由も同じ考えに至ったのだろう。まだ表情は強張っているが、大きく息を吐き出して、縁子の手を振りほどこうとするのをやめた。
それを見て、縁子が手を離す。
「高橋様に、連絡」
「でも、高橋様は、水姫様のところに……」
「それでも、とにかく、連絡」
「……そうね」
麻由が、自分の携帯電話を取り出す。
高橋に連絡がつけば、本人は現場に駆けつけられなくても、なんらかの有効な対策を取れるかもしれない。少なくとも、部下に指示を出して動かすことは可能だろうし、他の退魔師の力も借りられるかもしれない。今の麻由や悠樹よりは役に立ちそうだ。
縁子の視線が、今度は悠樹に向けられる。
「……貴方の狼にも」
「あ……ああ」
いわれて気がついた。
そうだ、神流だ。
悠樹が知る限り、唯一、カミヤシと互角に戦える存在。
魅魔の血を得たカミヤシが相手では不利かもしれないが、愛姫がいない今、こちら側の最強の戦力であることは間違いない。
――こちら側の?
はたして、神流は力を貸してくれるだろうか。あの夜以来、電話に出てさえくれないのに。ましてや、愛姫は神流にとって、ふたつの意味で好ましい存在ではない。
それでも悠樹は携帯電話を取りだした。
どんな代償を払ってでも、神流に協力してもらわなければならない。
音声通話の発信ボタンを押す。
繰り返される呼び出し音。しかし、神流は出てくれない。やがて、留守電に切り替わる。
「……本っ当に大事な話があるんだ。詳しいことはこれからメールする。頼むから読んでくれ!」
メッセージを録音し、すぐにメールを打つ。電話には出てくれないが、メールにはおそらく目を通してはいるはずだ。あとは、神流の善意に賭けるしかない。
悠樹が神流と連絡を取ろうとしている間に、縁子もどこかへ電話していたようだ。高橋と話していた麻由と、ほとんど同時に通話を終える。
「高橋様と連絡がつきました。今夜中に、機動隊を動かす手配をしてくださるようです。現地に向かうのは明日の早朝になります」
「機動隊で勝負になるのか?」
普通の人間が鬼魔を倒すには、軍隊並の装備が必要なはずだ。拳銃やライフルでは並の鬼魔すら倒すのは難しい。
「いえ、そちらは主に陽動と、現地の人払いのためです。さすがに水姫様が明朝までに帰国するのは無理なので、鷺沼のご兄妹の力を借りろ、と」
「鷺沼?」
悠樹には覚えのない名……いや、そういえば以前、高橋がその名を口にしたことがあったような気がする。
「連絡済」
そういったのは縁子だ。先刻の電話がそれだろう。
麻由が説明してくれる。
「鷺沼家は嘉~家の分家で、姫様の従兄妹にあたります」
「そういえば、従兄がいるって話は聞いたことがあるな。やっぱり、魅魔の力を?」
「兄の貴仁様は、退魔の力は強いものではありませんが、高橋様と同じお仕事に就いています」
「なるほど」
高橋が日本にいない以上、その存在は心強い。
「そして妹の釉火様は、鬼魔を殺すということに関しては、おそらく、日本で最強の退魔師です」
「最強って、愛姫よりも?」
悠樹は、愛姫こそが最強の退魔師だと思っていた。
「姫様のように、鬼魔を操る力は持ちません。その代わり、ただ殺すことに特化した強大な力です」
鬼魔のこと、魅魔の力のことをよく知っている麻由がいうのだから、その通りなのだろう。
「貴仁様が、明朝、迎えに来る、と」
そういうのは縁子。
「では、犬神様はその時に一緒に行ってください……っていうか、行くんですよね?」
「当たり前だろ! つか、俺、そんなに信用ないわけ?」
「姫様の血を得た鬼魔が複数。素人を護ってやる余裕はない、と釉火様が」
「……いらねーよ。自分の身くらいは自分でなんとかする」
「姫様のために生命を捨てる覚悟はある、と?」
麻由の視線には、悠樹の覚悟を探るような気配があった。
だから、正直に答える。
「正直、すっげー怖いよ。でもそれ以上に、愛姫が鬼魔に傷つけられるのは我慢がならない。だから、行くよ。それができなきゃ、愛姫の傍にいる資格はない。それに……愛姫は、生命を賭けてでも助ける価値のある女だろ?」
「鬼魔に傷物にされても?」
「関係ないね。愛姫の初物をいただいたのは俺なんだし」
初体験が美咲だったせいか、自分も浮気性のせいか、付き合う相手の処女性にはあまりこだわりがない悠樹だ。愛姫が鬼魔に犯されたことは悔しいし、腹が立つのは否定しないが、それで愛姫に対する評価は変わらない。
「……いいでしょう。姫様を助けて無事に戻れたら、姫様に相応しい殿方と認めます」
「今までは認めてなかったのかよ?」
「当然でしょう?」
訊き返されたのが心外だ、といわんばかりの表情を見せる麻由。
「これまでは、姫様が貴方のことを気に入っていたから仕方なく黙認していただけです。ですが、今回の件が解決できたら、貴方のことを認めます。全力で応援しますし、なんなら、姫様に内緒で私も一晩相手してもいいです」
「それは嬉しいね」
「……本音をいえば、私が、助けたいんです」
そうだろう。麻由が、愛姫のことをどれだけ大切に想っているのかは悠樹もよくわかっている。
「……ですが、冷静に考えれば、確かに私は足手まといにしかなりません。それに……姫様との約束がありますから」
「約束?」
「鬼魔ではなく、人間として生きること」
誰よりも鬼魔を憎んでいる愛姫。その一方で、幼い頃から一緒にいた麻由のことは大切に想っている。そうしたジレンマの解決策が、この〈約束〉だったのかもしれない。
「……大丈夫。愛姫は、絶対に助け出すから。……いや、俺は今回は役立たずかもしれないけど、せめて、足手まといにならないように頑張るよ」
「お気をつけて。戦いのあとも、貴方が必要になります」
「え?」
「あんな目に遭った姫様が、正気でいると思いますか?」
「……!」
鬼魔に犯された人間は、そもそも死ぬ者が多く、たとえ生命があってもほとんどが発狂するという。人間に耐えられる限界を超えた恐怖と快楽は、精神に障害を残す。
多少なりとも鬼魔の力に耐性のある愛姫であっても、何人もの鬼魔に犯され続けているのだとしたら――送りつけられた動画を見ても、正気でいるとは思えない。
「犬神様がいれば、鬼魔の力を中和して、比較的早くに回復できる可能性があります。そうしないと……」
麻由は言葉を濁し、ちらりと縁子に視線を向けた。彼女が鬼魔に襲われたのは二年以上前だというが、感情が欠落したその様子を見る限り、現在でも完全に回復したとはいいがたい。
縁子はもう手遅れだとしても、愛姫はそうなる前に助けたい。
神流はいい顔をしないだろうが、今度こそ、正真正銘、人助けなのだ。
悠樹はその夜、嘉~家に泊まった。
結局、神流からの連絡はなかった。なかば予想できたことではあるが、やはり少しショックだった。それに、戦力という点でも痛手だ。
こうなると、愛姫の従兄妹を頼るしかない。
二人が嘉~家を訪れたのは、翌日の夜明け前だった。
家の前に停まったRV車から降りてきたのは、二十代半ばと思しきスーツ姿の男だ。
これが、愛姫の従兄の鷺沼貴仁だろう。
雰囲気は高橋にも似ているが、もっと若く、長身で、人気のイケメン俳優だってこれには負けるだろう、というレベルの美形だった。確かに愛姫の血縁だと納得できる。
しかしそれ以上に悠樹の目を惹きつけたのは、男が開けた助手席のドアから降りてきた少女、愛姫の従妹の鷺沼釉火だった。
驚きに目を見開く。
第一印象は〈黒〉だった。
漆黒のゴシックロリータファッションに身を包んだ、長い黒髪の美少女だ。
髪型も、その艶も、怖いくらいに整った顔だちも、愛姫によく似ている。それは予想の範囲内で、驚いたのはそこではない。
釉火は、予想以上に幼かった。
愛姫よりも年下とは聞いていたが、まだ中学生にもなっていないように見える。十歳以上十二歳以下、と見当をつけた。
顔はよく似ているが、長身の愛姫に比べると、年齢差を考慮しても小柄だ。
身に着けているのは、何層にもフリルが重なった、ゴスロリ風の黒いワンピース。ただしスカートはかなり短め。
頭には黒猫を想わせる、ネコ耳つきのヘッドドレス。よく見ればスカートの後ろに尻尾も生えている。
そしてオーバーニーソックスに、足許はリボンのついた靴。小さな手は薄い手袋に包まれている。
なにかのコスプレかと思うようなファッションに身を包んだ、とびっきりの美少女。
美しさは予想の範疇としても、こんな幼い少女が、愛姫以上の退魔の力を持っているだなんて。
驚きのあまり言葉を失っていた悠樹に、大きな目が向けられる。
朱い、瞳。
愛姫と同じ血を引いている証。
ただし、愛姫の深紅の瞳に比べると明るい、朱色に近い色だった。愛姫の瞳が血の色ならば、この娘の瞳は炎だ、と想った。
普段はあまり表情を表に出さない愛姫と違い、どことなく相手を見下したような、悪戯な笑みを浮かべている。
「貴方が噂の、姫姉さまの彼氏?」
小さな身体で、尊大に胸を張っていう。
「……なーんか、がっかり。イマイチさえない男ね。はっきりいって似合わないわ。姫姉さまにつり合うのは、お兄さま並のイイオトコだけよ? もっとも、そんな男はシベリアタイガー並の絶滅危惧種だけどね。でも、姫姉さまには自分を安売りして欲しくないわ」
いいたい放題だが、悠樹はなにもいい返せない。
愛姫も釉火も、万人が認める絶世の美少女だ。それに比べれば『自称そこそこイケメン』の悠樹など、どこにでもいるただの人でしかない。
対して、釉火の兄の貴仁は、こんな男が愛姫の身近にいたことを嫉妬するほどの美形だった。
しかしこの娘、身内を持ち上げる今の発言といい、車から降りる時に差し出された手を取って、そのまま手を繋いでいることといい、ブラコンだろうか。
「まあ、いいわ。今はそれどころじゃないし。外見はさえなくても、もしかしたら、ちょっとくらいはいいところもあるのかもしれないし。でもね、お兄さまみたいに外見と中身が伴ってこそ本物のイイオトコよ?」
間違いない。かなり重度のブラコンだ。
さらに続きそうな釉火の兄談義を遮ったのは、その当人だった。
「釉火、その件は、愛姫を助けてからゆっくり話せばいい。とにかく行こう。公安の部隊には先行させてる。現地は街からは離れているが、それでも人払いとかの準備も必要だからな。車に乗ってくれ」
「あ……だ、大丈夫なんですか? こんな小さな女の娘が……」
最大限に見積もっても、中学生になっているかどうかという年齢。身長も百四十センチ台前半だろう。いくら嘉~家の血を受け継いでいるとしても、こんな女の子が鬼魔と戦う姿を想像するのは困難だった。
「心配ない。釉火は、鬼魔を殺すことに関しては誰よりも強い」
「愛姫よりも?」
「攻撃力に限っていえばそうだ。そもそも、魅魔の力のいちばんの利点は、鬼魔を操れることにあるからな。釉火は鬼魔を操る能力が発現しなかった代わりに、その力はすべて鬼魔の肉体の破壊に向けられる」
貴仁も、昨夜の麻由と同じことをいう。
「問題ない。たとえ相手が愛姫の血を得た鬼魔であっても、釉火の血には対抗できない」
そういわれてもう一度釉火を見る。二人のいうことに嘘偽りはないだろうが、やっぱり簡単には信じられない。
「それにこの子は、鬼魔の魅了の力に対する抵抗力も人一倍強い」
「そうなんですか?」
それは初耳だ。そういうからには、単に魅魔の血を持つ者の抵抗力とは違うのだろう。
「当然でしょう。この私が鬼魔なんかに魅了されるわけがないじゃない」
相変わらず、尊大な口調の釉火。悠樹に向ける視線は、野良犬に対するそれと大差ないように感じられた。
しかし、貴仁を見る時は表情が一変する。
「私の心は、ぜーんぶお兄さまのものだもの」
甘えるように貴仁の腕にしがみつき、とびっきりの可愛らしい笑顔を見せる。筋金入りのブラコンだ。
これなら本当に、鬼魔には魅了されにくいのかもしれない。
なんにせよ、現時点で唯一の頼りになる戦力である。性格は愛姫とは似つかない難アリ物件だとしても、心強いことは間違いなかった。
メールで指定された場所は、房総半島の山中、リゾート地と呼ぶには寂れた土地の、さらにはずれにある廃ホテルだった。
バブル期に開業し、何年も前に廃業して放置されていた建物らしい。心霊スポットとしても話題になっているというが、それも単なる与太話ではなく、鬼魔の群が〈食事場〉としているための可能性がある、と貴仁から聞かされた。
悠樹たちは建物の裏側へ回る。ホテル正面には機動隊が距離を置いて配置についているが、そちらはあくまでも陽動だ。鬼魔の群を相手にして、機動隊では勝負にならない。
人間が鬼魔と戦おうと思ったら、警官ではなく、重火器を装備した軍隊が必要で、日本国内ではまず不可能だ。ましてや今回は入念に計画された作戦ではなく、緊急事態である。時間をかけて根回ししている余裕はない。
愛姫がすぐに殺される可能性は低いという貴仁の言葉は救いではあったが、時間が経てば経つほど鬼魔は強力になるし、愛姫は生きていたとしても無事では済まなくなる。
機動隊が正面から陽動を行い、鬼魔の注意をそちらに引きつけたところで三人が反対側から建物に侵入する作戦だった。作戦というほど立派な計画でもないが、貴仁も釉火もそれで充分だという。心配しなければならないのは、屋外のような広い場所で一度に対処しきれない数の狼に囲まれることだけで、敵を多少なりとも分散させて狭い屋内に入れば問題ないとのことだ。
悠樹にとって心強いのは、貴仁も釉火も、微塵も不安な様子を見せていないことだった。かなり危険な戦いだと思えるのだが、絶対の自信を持っているように見える。実戦経験がほとんどない悠樹としては、二人を信頼してついていくだけだ。
林の中を進み、建物に近づいたところで貴仁が無線で合図を送る。ほどなく、正面側から散発的な銃声が聞こえてきた。
悠樹たちも敷地内に侵入する。
貴仁は、軍人のような迷彩服に着替え、大口径の拳銃と大型の軍用ナイフを身に付けていた。もっとも、拳銃の方は気休めだという。
しかし釉火は相変わらずのネコ耳ゴスロリファッションだ。とても戦いに赴く姿には見えないが、考えてみれば愛姫も、お嬢さま然とした上品なブラウスや学校の制服姿で鬼魔と戦っていた。
悠樹は動きやすい普段着で、いつも稽古で使っている刀を持っている。前回の狼狩りではこの刀を使う機会もなかったが、今日こそは鬼魔を相手に、稽古の成果を試すことになるのだろう。
建物はかなり傷んでいるようで、窓に打ちつけられていた板もところどころ剥がれかけている。そのひとつから中に侵入した。
貴仁が目で合図してくる。悠樹は刀を抜き、愛姫がそうしているように、自分の腕に刃を滑らせた。
理屈の上では、この刀でかすり傷でも負わせられれば、鬼魔を操れるはずだ。
貴仁は大きな軍用ナイフを抜く。
それと呼応して、釉火は手袋をはめた腕を身体の前に持ち上げた。
貴仁が手袋を脱がす。露わになった釉火の小さな手に、ナイフの刃が触れる。
「……んっ」
小さく声を漏らす釉火。
黒い刃にかすかな紅い筋が残る。
美形の兄が、それ以上に美しい妹に血を流させる光景は、ひどく淫靡な雰囲気に包まれていた。
思わず見とれていた悠樹は、釉火の小さな手指に、無数の小さな傷があることに気がついた。
魅魔師の戦いは、その性質上、どうしても自分を傷つけなければならないが、愛姫の傷は主に手首に集中している。十代の女の子であれば、他の傷に比べればリストカット痕と思われた方が他人に説明しやすいから、というカモフラージュだ。
対して釉火の傷は、指先に多い。不器用なドジっ娘が手料理に挑戦した――というにも多すぎる傷で、手首の傷よりも説明は難しいかもしれない。だから手袋をしていたのだろうか。
戦いの準備ができたところで、埃の積もった廊下を歩き出す。
「すぐ、来るぞ。君の血は目立つから」
貴仁が小声でいう。
三人の中では、悠樹の血がもっとも鬼魔を惹きつける――と。
貴仁は嘉~家の一員であっても、男であるが故に魅魔の力はごく弱い。
釉火の能力は通常の魅魔の力とは異なるため、鬼魔を惹きつける力は愛姫には劣る。
対して悠樹は、男としては例外的に強い魅魔の力が発現している。建物の中で血を流せば、鬼魔はホオジロザメのように血の匂いをかぎつけてくる、ということだった。
「奴らと接触したら、すぐに仕留める。基本的に釉火がやるから、君は自分の身を守ることに専念していろ。もしも危なくなったら、あえて腕あたりに噛みつかせてやれ。腕なら致命傷にはならないし、最初からその心構えでいれば、怪我をしても狼狽せずに鬼魔を操れるだろう。あと、奴らの目は間近で見るな。いくら魅了の力に耐性があるとはいえ、完璧ではないからな」
「……わかった」
悠樹が緊張の面持ちで応える。
この時にはもう、遠くから鬼魔の気配が近づいてくるのを感じていた。
額に脂汗を滲ませ、いくぶん及び腰になってそろそろと歩いていく。
先頭を進む貴仁は、ナイフを構えてはいるが、落ち着いて普通に歩いている。その斜め後ろを歩く釉火は、胸を張った堂々とした態度だった。
「……来るぞ」
気配が、いよいよ強くなる。
前方の廊下の角から、一頭の狼が矢のように飛び出してきた。
釉火の反応は早かった。腕を高く掲げる。その指の間に、いくつもの小さな刃物が手品のように現れた。
指くらいの大きさの、小さな投げナイフだ。それが何本も、指の間に挟まれている。
釉火が右腕を振る。
複数のナイフが放射状に飛ぶ。
狼は跳んでそれを躱し、壁を蹴って斜め上方から釉火に襲いかかった
獣ならではの、電光石火の動き。悠樹では目で追うのも難しい。
しかし釉火は落ち着いた様子で、なのに目にも留まらぬ速さで左腕を振った。
また、小さな銀色の光が放たれる。
空中にいる狼には、それを躱す術はなかった。一本のナイフが狼の身体に吸い込まれる。
その瞬間。
狼の身体が、炎に包まれた。
――いや。
狼の身体そのものが、炎の塊に姿を変えたように見えた。
正確には、それはめらめらと燃える〈炎〉ですらない。溶鉱炉の内部を思わせる、純粋な〈熱〉の塊だった。
しかしそれも一瞬のことで、床に落ちた〈狼だったもの〉は、小さな炭の塊のようになって崩れた。
衝撃的な光景に、悠樹は言葉を失う。しかし前の二人はこれが当然とばかりに平然としていた。
「これ……が?」
「釉火の、力だ」
抑揚のない口調で貴仁が応える。
「魅魔の力は本来、鬼魔の肉体を思うままに操ることができる。釉火の力はそうした汎用性がない代わりに、鬼魔の血肉を高温のプラズマに変化させるという、ただそれだけに特化している。その分、強力だ。釉火の血が燃えあがるのではなく、釉火の血に触れた鬼魔の肉体が連鎖反応的に炎に変わるから、確実に焼き尽くされる。そしていちばん重要な点は、これはいわば〈化学反応〉であり、魅魔の力と違って鬼魔の意思では抵抗すらできないことだ」
「すげぇ……」
確かに、これなら鬼魔を殺すことにかけては愛姫以上だ。
魅魔の力を行使するには、血を相手に取り込ませた上で、意識を集中して操る必要がある。特に、愛姫のように魅魔の力だけで即死させようと思えば難易度は高まる。
それに対して、釉火の血に触れただけで焼け死ぬというのであれば、精神集中の手間もいらず、多数の敵に対して〈撃ちっぱなし〉の連続攻撃ができる。
実際、今の釉火の戦い方はそうだった。速度で勝る相手に、複数の投げナイフを立て続けに投じることで対処していた。
その時になって、釉火の両手の指先から血が流れていることに気がついた。
それで、両手に刻まれた無数の傷痕の意味を理解した。
釉火はマジシャンのような器用さで、鋭い刃を持った投げナイフを指の間に挟んで投げる瞬間、自分の指を傷つけているのだろう。「刃に血を塗る」「攻撃する」というふたつのアクションをひとつの動作で行ったのだ。
しかも、釉火の投げナイフの攻撃範囲は刀よりもずっと広い。
鬼魔を殺すことに特化した力、殺すことにかけては最強、その意味が実感できた。
「もちろん、欠点もある。愛姫のように鬼魔を操ることはできないし、殺さないように手加減するのも難しい。あと、場所も選ぶ。火気厳禁の場所では戦えない」
確かに、石油や都市ガスのタンクの傍や、ガソリンスタンドなどでこの力を使ったら大惨事になりかねない。
高温とはいえ一瞬のことなので、難燃処理をした建物であれば簡単には火事にならないだろうが、それでも目の前の床は黒く焦げている。気化した可燃性ガスがあるような場所では大事だ。
しかし今回に限れば、思うままに力を使えるだろう。周囲には民家もない廃ホテルだ。愛姫さえ助け出せば、火事になっても大きな問題ではない。貴仁や高橋の力なら、この程度の隠蔽工作は容易だろう。
釉火の力が想像以上に強力なものだと知って、悠樹も少し安心した。前へ進む脚にも力が入る。
ほどなく、また鬼魔の気配が近づいてきた。今度は複数だ。
飛び出してくる二頭の狼。
同時に、釉火の腕が一閃する。
放たれたナイフを、二頭の狼はぎりぎりで躱す。間髪入れずに第二射を放つ釉火。それも躱され、壁に当たって落ちたナイフが甲高い金属音を立てた。
それでも、戦況は決して不利ではなかった。闇雲に放っているような投げナイフも、よく見ればしっかり計算されているとわかる。ただ狙って投げるだけでは、野生動物をも凌駕する速度と反射神経を持つ鬼魔に命中させるのは容易ではないだろうが、釉火は狼の動きを予測し、徐々に逃げ場がなくなるように追い詰めているのだ。
ほとんどのナイフは牽制。当たるのはただ一本でいい。それが致命傷となるのだから。
そしてついに一本のナイフが狼を捉える。
また炎に変わり、一瞬で燃え尽きる狼。
もう一頭の狼が怯んだ様子を見せ、その隙を逃さずに次のナイフを投げる。
しかしその時、背後に新たな鬼魔の気配が出現した。
最後尾にいた悠樹が振り返った時には、もう、目の前に狼が迫っていた。
かわせない。
刀も間に合わない。
悲鳴を上げる余裕すらなかった。
鋼のような鋭く長い牙が並ぶ、大きく開かれた顎。
まっすぐに首を狙っている。せめて腕ならなんとかなったかもしれないが、もう間に合わない。
他の狼を攻撃していたところだったため、悠樹とは桁違いの反射神経を持つ釉火も対応できなかった。
悠樹が死すら覚悟した、その瞬間――
廊下の窓が、外側に打ちつけられていた板ごと砕け散った。
薄暗かった廊下に、早朝の白い光が満ちる。
その中に飛び込んでくる影。
悠樹に襲いかかろうとしていた狼に体当たりし、不意を衝かれた狼は壁に叩きつけられた。
「――っ!!」
悠樹の目に映ったのは、朝陽を浴びて輝く黄金色の毛皮。
黄金色の毛皮に包まれた小柄な狼は、悠樹に襲いかかろうとしていた狼の喉笛に噛みつき、自分よりふたまわりも大きな身体を軽々と振り回してもう一度壁に叩きつけた。
喉を喰い千切られた狼の身体が床に落ちる。瀕死の狼に、すかさず釉火がナイフを投げてとどめを刺した。
さらにナイフを構えた釉火を、貴仁が腕を上げて制する。
「嘉~家……いや、彼の、使い魔だよ」
そう。
深紅の首輪を嵌められた、黄金色の狼。
間違いない、神流だ。
まっすぐに悠樹を睨んでいた狼の姿が変化する。
毛皮が皮膚に吸い込まれるように消え、手脚が伸び、直立して人間の――一糸まとわぬ美しい少女の姿になる。
燃えるような黄金の髪。
大きな黄金の瞳。
白い肌に映える、深紅の首輪。
「神流……来て、くれたんだ……」
思わず口許が緩む。
しかし神流は、今にも襲いかかってきそうなきつい表情で悠樹を睨んでいた。爛々と輝く瞳の奥で、怒りの炎が燃えさかっている。とても、先日のことを許してくれたようには見えない。
ゆっくりと口を開く神流。
「……ボクと、ヨシヒメと、どっちが気持ちよかった?」
怒りを押し殺したような声だった。
「え……?」
まったく予期していなかった台詞に、一瞬、なにをいわれたのか理解できなかった。
「ボクのアソコとヨシヒメのアソコ、どっちが気持ちよかったって訊いてる」
「ど、どっちって……」
やっぱり、怒っている。先日の件で、間違いなく妬いている。
しかし妬いているということは、まだ悠樹に対して好意を抱いているということだ。神流の方がいい、といってもらいたがっている。
それがわかっていても、即答はできなかった。判断に迷うからではない。『二股をかけるのはいいけれど、その二人を比べて優劣をつけてははいけない』という美咲の教えのせいだ。
しかし、答えずにすむ雰囲気ではない。返答次第では神流が敵になる可能性だってゼロではない。
「……まったく、この大事な時に痴話喧嘩? 甲斐性なしのくせに二股なんかかけるからこうなるのよ」
沈黙を破って割り込んできたのは、蔑むような釉火の声。
「こういう時、男がとれる選択肢はふたつ。上手に騙すか、開き直って正直になるか。甲斐性なしのあんたにできるのはどっち?」
甲斐性なしを連呼する釉火。怒るより先に凹んでしまう。
しかし、釉火のいうことももっともだ。そしてこの状況で、神流を騙すなんてできっこない。鬼魔の嗅覚は、嘘発見器よりも遙かに正確だ。
そして、美咲はこうもいっていた――常に、その時一緒にいる女の子を最愛として扱え――と。
ならば、今の状況で答えはひとつだ。
「……どっちっていったら……、そりゃ神流に決まってるだろ。愛姫もすごくよかったけど、それは普通の人間の中での話で……だから、神流は当別だ!」
狂うほどに人間を魅了することができる鬼魔。愛姫がどれほど名器であっても、人間が敵うものではない。純粋に肉体的な快楽の度合いを比較すれば、神流のそれは桁違いだ。
そう答えても、神流は表情を崩さない。まだ納得していない様子だ。
「もう一度」
「神流のマンコの方が気持ちよかった! 世界一だ!」
「おっぱいが大きいのと小さいの、どっちが好き?」
「…………俺は、……女の子のおっぱいは全部好きだ!」
視界の端では、釉火が呆れ顔で肩をすくめていて、貴仁が苦笑している。しかし今は気にしていられない。
「……バックと騎乗位と、どっちが好き?」
「相手による。相手が感じてくれるのがいちばんイイ」
「……正直だね」
神流は微かな溜息をついた。
「大目に見て、答えられない質問はしないであげる」
相変わらずのふくれっ面。
答えられない質問とは、おそらく「どっちが好き?」だろう。
それは本当に答えられない難問だった。神流と愛姫、どちらか一方なんて選べない。だからといって、女の子相手に「二人とも仲よくしたい」なんて本音が通じるものだろうか。
「ボクのこと、好き?」
「好きだ、大好きだ」
それだけは、まったく偽らざる想いだ。
「……イイよ。気に入らないけど、力を貸してあげる。今回だけは、ね」
表情は変わらず、にこりともせずに仏頂面のまま。それでも悠樹にとってはなによりも嬉しい言葉だった。
「あ、ありがとう!」
思わず、目の前の小さな身体を抱きしめていた。
「……じゃあ、これ、外して」
一瞬だけ頬を赤らめた神流が、自分の首を指差して、ことさらぶっきらぼうにいった。
そこにあるのは、鬼魔の力を抑える深紅の首輪。
「ああ」
悠樹はなにも問わず、念も押さず、一瞬も躊躇せずに神流の首に手を伸ばした。神流が自分では外すことができない封印を引きちぎり、首輪を外す。
たぶんこれが、神流が課した最後の試験なのだと直感した。ここで少しでも疑ったり躊躇したり、そんな素振りを見せただけでも終わりだ、と。
無条件で、神流を信じなければならない。
――大丈夫。
神流は、こんな方法で裏切ったりしない。
知り合ったばかりの女の子だけど、何故かそれだけは確信できた。
だから、躊躇わずに外した。逆に神流の方が、意表を突かれたような表情を浮かべていた。
首輪を外し、神流の顔の前に手を差し出す。人差し指で唇に触れる。
鋭い痛み。
神流が指を口に含み、犬歯を突きたてた。
熱いような痛み。血が滲むのを感じる。
神流がその血を啜る。
絡みついてくる長い舌。それだけで気持ちよかった。
大きな瞳が、まっすぐに悠樹を見つめている。魂が吸い込まれるような、深い、金色の瞳。その輝きが増したように感じた。
「……まったく、見てられないわね」
肩をすくめた釉火が、隣の兄を見あげる。
「お兄さまは、どちらが好き? 大人の女性と、うんと年下の女の子。それとも、胸の大きな女の子と、小さな女の子」
「俺は、釉火がいちばん好きだよ」
迷うことなく笑顔で答える貴仁。大抵の女の子が見とれ、ほとんどの男が嫉むような笑顔だった。
釉火はにんまりと満足げな笑みを浮かべた後で、悠樹に向かって馬鹿にしたようにいう。
「ね? こういう風にスマートにやるものよ」
「……人には向き不向きがあるんだよ」
万人が認める美形の貴仁であれば、どんなに気障な台詞も似合うだろう。しかし悠樹の場合、ひとつ間違えばギャグになりかねない。
それにしても、今の貴仁の台詞はどう捉えるべきだろうか。釉火のブラコンは本物だが、「釉火がいちばん好き」が本心なのか、単に釉火のご機嫌とりなのかは判断がつかなかった。
「さて、頼りになる戦力が加わったみたいだし、あんたたちは先に行きなさい」
偉そうな命令口調で釉火がいう。
「私は、あいつらを片付けてから行くわ」
背後を指差す。
まだ姿は見えないが、複数の気配が近づいてくるのは悠樹も感じた。正面で機動隊と対峙していた連中が、こちらに気づいて向かってきたのだろう。その気配は一頭や二頭ではない。
「一人で大丈夫なのか?」
「一人じゃないわ。お兄さまがいるもの」
しかし貴仁はここまで、戦闘に加わっていない。単純に鬼魔に対する攻撃力という点では、魅魔の力の弱い貴仁は、むしろ悠樹よりも劣るはずだ。あるいは、兄が傍にいることが、釉火のモチベーションの源なのかもしれない。
「あんな雑魚、どれだけいようとものの数ではないわ。はっきりいって、多数の鬼魔を相手にする時は、お兄さま以外は近くにいられると邪魔。私の力なら、群を同時に攻撃することもできるわ」
確かに、一体ずつ意識を集中して操らなければならない愛姫や悠樹の力よりも、〈撃ちっぱなし〉ができる釉火の力の方が複数相手には有利だ。
「ボスとの一騎打ちなら、あんたたちの力も活かせるでしょ。敵が分散している今が、敵の懐に飛び込むチャンスよ。あとは私が追いつくまで時間稼ぎしてなさい。すぐに助けにいってあげるから」
いかにも恩着せがましくいう。
「……わかった。気をつけて」
「失礼ね。誰に向かっていってるの」
自信に満ちあふれた釉火の態度。これなら任せても大丈夫だろう。
悠樹は神流を連れて走り出した。
神流は全裸のまま、悠樹の前を走っている。久しぶりに見る神流の裸体に、自然と笑みが漏れた。
「……神流」
「なに?」
「ありがとう。……それと……ごめん」
立ち止まる神流。感情を消した顔でこちらを見る。
「……ボク、まだ、怒ってるんだよ?」
「わかってる」
「……つか、なんでボクが、ヨシヒメを助けなきゃなんないの? むしろ逆じゃん」
「でも、助けてくれるんだろ?」
「お人好しだよね、ホント」
「神流のそういうところも、好きだよ」
神流の朱く染まる。少しだけ表情が戻ってくる。
「……今回は、ユウキを助けてあげる。…………でも、それがどういう意味か、わかってる?」
「…………ああ」
悠樹たちと違い、神流にはここでカミヤシと積極的に戦わなければならない理由はない。
むしろ、逆だ。
カミヤシたちが人間の敵だとしても、神流にとっては〈同族〉だ。
なのに悠樹の都合で、同族と戦うことを求めているのだ。
それはつまり「仲間よりも自分を選べ」といっていることに他ならない。
神流がそれに応えてくれるのであれば、悠樹も、神流との付き合いは軽い気持ちではなく、相応の覚悟が必要だ。今後の神流の人生に対して、ある種の責任を負うことになる。
今回のことが原因で神流が他の鬼魔たちに追われることになるのなら、護ってやらなければならない。そして、自分が神流の〈仲間〉になってやらなければならない。
もちろん、その覚悟はできている。
「……ちゃんと、落とし前つけてもらうからね」
「ああ」
力強くうなずく。
不機嫌そうな表情を作っている神流だが、頬がかすかに朱い。今のやりとりは、ある意味プロポーズのようなものだ。
また、走り出す。
埃の積もった階段を登る。
道に迷う心配はない。二人とも、鬼魔の気配は壁を隔てても感じることができるし、既に神流の嗅覚は愛姫の匂いを捉えていた。
しばらく走ってたどり着いたのは、大広間と思しき大きな扉の前だった。
ここ、という表情で指差す神流。
小さく深呼吸。
悠樹がうなずくと同時に、神流が扉を蹴飛ばした。蝶番が壊れ、扉が吹き飛ぶ。そのまま神流は中に飛び込み、悠樹も後に続く。
そこに、いた。
なにもない、がらんとした大広間の、薄汚れた絨毯の上。
全裸の愛姫が、膝をついて座っていた。
人形めいた、表情のない顔。深紅の瞳は虚ろで、なにも見ていないようだった。
大きな怪我ではないが、身体中に傷がある。狼たちに咬まれた傷に、乾いた血がこびりついていた。
予想していたこととはいえ、衝撃だった。
固まったまま動けずにいる悠樹に代わり、神流が歩み寄って、不機嫌そうな顔のまま手を差し伸べた。
「ったく、なんでボクがお前を助けに来なきゃなンないんだよ。この貸しは大きいからね」
ぼんやりとした顔で、差し出された手を見る愛姫。ゆっくりと顔を上げる。
――と。
のろのろとした動きが、一瞬、早送りのように加速した。
身体の後ろにだらりと垂らしていた腕が跳ねあがる。
「え……?」
金色の瞳が見開かれる。驚愕ですらない、なにが起こったのか理解できない顔。
愛姫の手には、ひと振りのナイフが握られていた。
いつも護身用に持っていた、折りたたみナイフ。
完全に不意を衝かれた神流の腹に、根元まで深々と突き刺さっていた。
刃を彩るのは、深紅の血。
しかしそれは、神流の血ではない。
愛姫の顔が変化する。
人形よりも無表情だった顔に、歪んだ表情が生まれる。
口許が不自然に引きつった、残忍な笑み。
ゆっくりと開かれた唇が
「……壊れろ」
そんな言葉を紡いだ。
「――っ!?」
「うがぁぁぁぁぁぁぁ――――っっっっっっ!!」
獣じみた神流の絶叫が大広間に響いた。
同時に、全身の皮膚がずたずたに裂けた――愛姫の言葉に従って。
ナイフに塗られていたのは、愛姫の血だ。
鬼魔の肉体を思うままに操る、魅魔の血。
血の主の言霊に従って、神流の肉体は〈壊れ〉はじめていた。
皮膚に刻まれる無数の切り傷。それは外部からの傷ではなく、皮膚それ自体が自ら裂けて生じたもの。
身体中で、毛細血管が破裂する。無数の傷口から霧のように血が噴き出す。
筋肉の繊維が、ぶちぶちと音を立てて千切れていく。
全身の骨格に無数の亀裂が生じ、拡がっていく。
神流の身体は自分の体重を支える能力をなくし、ついには糸を切られたマリオネットのようにその場に頽れた。
もう、悲鳴すら上げられない。悲鳴の代わりに大量の鮮血が泡となって口から噴き出した。
神流を中心にして、絨毯の上に血の染みが広がっていく。
愛姫は「壊れろ」と命じた。
神流の、鬼魔の、肉体は、その言葉に従い、壊れ、崩れていく。
以前見た戦いのように「死ね」とはいわなかった。故に、即死はしない。
しかしそれは手加減ではなく、むしろ、確実に神流を仕留めようとしている証ともいえた。
言霊だけで直接に生命活動を停止させるのは、魅魔の力の使い方としてはもっとも高度なものだ。それに対して鬼魔は精神力によって抵抗することもできる。鬼魔の力が充分に強ければ、「死ね」という命令は表向きなんの効力も発揮せずに終わる。
しかし、「壊れろ」ではそうはいかない。どれほど抗おうとしても、それは崩壊の程度の差にしかならず、魅魔師と鬼魔の間に天地ほどの力の差がない限り、必ずダメージは与えられる。
そして、魅魔の力による傷には、鬼魔の常軌を逸した再生能力も満足には働かない。組織が再生されるよりも、破壊されていく速度の方が圧倒的に早い。
神流の肉体は、確実に死へと向かっていた。
「やはり大したものだな、本家の血の力は」
突然の、男の声。
悠樹ははっと我に返って声の方を見る。扉の前にいた愛姫しか見えていなかったが、男は最初からそこにいたのだろうか。
外国人プロレスラーのような、筋肉質の巨漢。
カミヤシ――ボス狼だ。
直に会うのは二度目、あの、神流たちと初めて会った日の夜以来だが、ひとつ、あの夜とは大きな違いがあった。
それは、まとっているオーラの強さ。
あの時でさえ圧倒的な力を感じさせる存在だったのに、さらに桁違いなほどに強まっている。これが、愛姫の血の力だろうか。
悠樹の中が、爆発しそうなほどの怒りに満たされる。
メールに添付されていた動画を思い出す。この男が、愛姫を犯していた。
「て……めぇ……」
なんとか、声を絞り出す。
愛姫を攫い、犯した男。仲間の狼たちにも犯させ、これ見よがしにその動画を送りつけ、そして今、神流を傷つけた張本人。
殺しても足りないくらい、憎い相手だ。
なのに――
身体が、動かなかった。
声を絞り出すのが精いっぱいだった。
目の前に立っているのは、圧倒的な〈力〉の顕現だった。まさに、蛇に睨まれた蛙の状態だ。この相手に挑むなんて、考えられない。鬼魔は皆、鳥肌が立つような気配をまとっているが、それにしてもこれは別格だ。
刀を持っている腕が強張って動かない。手は、じっとりと脂汗に濡れている。
カミヤシがゆっくりと歩いてくる。愛姫の前に倒れている神流を見おろす。
その脚に、縋りつくように、甘えるように、愛姫がしがみつく。恍惚の表情で、ひと抱えもありそうな太い脚に舌を這わせる。
魅魔に魅了され、完全に虜にされていた。そんな姿は見たくないのに、悠樹は身体を動かせず、顔を背けることすらできなかった。
「オレが自分でやってもよかったんだが、この小娘に、魅魔の力がどれほど痛いものか思い知らせてやろうと思ってな。まあ、どっちにしろすぐに死ぬ運命だが」
大きな手が、神流の頭を鷲づかみにして、片腕で軽々と持ち上げた。
ボロ雑巾のような姿の神流は、全身から血を流して、ぴくりとも動かない。
意識のない神流の肩のあたりに、カミヤシが噛みつく。鋭い牙が白い肌に喰い込み、肉を喰い千切る。
「う……」
許せない。
愛姫に加えて、神流までこんなに傷つけて。
真っ赤に染まった口が、いかにも狼らしい残忍な笑みを浮かべている。
「コイツもなかなかいい味だな。知ってるか、小僧? 魅魔の血には劣るものの、俺たちにとっては同類の血も甘露なんだ。せっかくだから、新鮮なうちにいただくとするか」
再び開かれる狼の顎。
「う……わぁぁぁっっ!!」
悠樹は衝動的に、刀を振りかぶって跳びかかった。
許せない――ただその想いだけが、鬼魔に射すくめられた身体を突き動かした。
策もなにもない。ただ、真っ直ぐに怒りをぶつけようとした。
刀の間合いに入る直前、カミヤシが、掴んだ神流ごと腕を振った。
さほど力も込められていないように見えた軽い動き。しかし悠樹にとっては、巨大な鉄球でも叩きつけられたような衝撃だった。走り幅跳びの世界記録にも匹敵するほどの距離を飛ばされ、無様に床に転がる。カミヤシにかすりもしなかった刀も手から飛ばされた。
口の中に、錆びた鉄の味が広がる。床に落ちた時に肩を打ったのか、腕が上がらない。
まったく、相手にならなかった。
手も足も出ない、強大すぎる存在だ。
もともと鬼魔としても強大な力を持っていたのに、愛姫の血を得た今はさらに桁違いだった。
その場に捨てるように、神流を放す。脚の骨も砕けているのか、神流の身体は陸に揚げられた蛸のような姿で倒れた。
「小僧、心配するな、お前は殺さん。魅魔の血を持つ男は貴重だ。女たちへのいい土産になる」
悠樹にできるのは、唇を噛むことだけだった。
鬼魔の男たちで愛姫を陵辱したように、悠樹を女たちの獲物にするつもりなのだ。
圧倒的な力の差に、絶望感に包まれる。
手も足も出ない。
目の前で、大切な女の子ふたりをぼろぼろにされて、なのに、なにもできないなんて。
あまりの不甲斐なさに、悔しさすら湧いてこなかった。ただ、絶望するだけだ。あまりにも情けない。
助けると麻由に約束したのに、愛姫は鬼魔に身も心も囚われ、神流は瀕死。なのに自分は満足に戦うこともできず、殺されもせず、ただ釉火たちが来てくれることを祈るしかできないなんて。
釉火が来ても、勝てるのだろうか。
この、圧倒的な力に。
釉火の血を塗った投げナイフがどれほど強力であっても、当たらなければ意味はない。鬼魔の反射神経が相手では、狭い廊下で、並の鬼魔であっても簡単には当たらなかった。この広間で、狼たちのボスを相手に、当てられるものだろうか。
対してカミヤシは、指先で触れるだけでも釉火を殺せるだろう。
自信満々だった釉火だって、きっと、これほど強力な鬼魔と戦った経験はあるまい。そもそも、あの愛姫が不覚を取った相手なのだ。
愛姫は相変わらず絨毯の上に座ったまま、カミヤシの脚に抱きついて、甘えるように身体を預けていた。うっとりとした表情で舌を這わせる。その舌が、膝のあたりから徐々に上へと移動し、股間へと近づいていく。
「よ、愛姫っ!!」
悠樹は叫んだ。
そんな姿、見たくない。
そんなこと、して欲しくない。
なのに悠樹には、叫ぶことしかできない。
それでも声が届いたのか、愛姫がゆっくりと首を巡らせた。焦点の合わない虚ろな瞳は、こちらに向けられていても、悠樹を認識しているようには見えなかった。
ただ快楽のみに支配された、恍惚の表情。半開きの口の端から涎がこぼれて糸を引いている。
しかし――
唇が、微かに震えていた。
まるで、なにかをいおうとしているかのように。
悠樹に、なにかを伝えようとしているように――というのは希望的観測が過ぎるだろうか。この状態の愛姫が、少しでも正気を残してくれているなどと考えるのは。
しかし唇の動きは単なる震えや譫言ではなく、なにかの言葉を紡いでいるような気がした。
必死に、唇の動きを読む。
短いパターンが繰り返されている。ほんの数音の言葉だ。
愛姫の口の動きはごく小さなもので、読み取るのが難しい。震えるような微かな唇の動きを、この場で出てきそうな言葉に当てはめていく。
ミ、マ、ノ、チ、カ、ラ、ヲ
――そう、解読した。
魅魔の、力を。
力を使え、といっているのだろうか。
しかし、状況は力を使う以前の問題だ。今の悠樹では、刀を持っていてもカミヤシに触れることすらできない。魅魔の血を鬼魔の体内へ送り込めなければ、悠樹にできることはなにもない。
血を口にしてくれれば、悠樹の魅魔の力はカミヤシにだって通用するはずだ。愛姫のように、言霊だけで殺すことはできなくても、動きを封じるくらいはなんとかなる。それさえできれば、あとは釉火がとどめを刺してくれる。
しかし、どうやれば今のカミヤシを支配できるだけの血を送り込めるというのだろう。相手が雑魚であれば、放っておいても魅魔の血に惹かれて向こうからやって来るらしいが、力のあるカミヤシ相手では無理だろう。
ましてや、愛姫の血をたっぷりと貪った直後なのだ。同性の悠樹の血に目が眩むとは思えない。
どう考えても、カミヤシを傷つけるなんてできそうにない。愛姫に剣術を習っているとはいえ、その技量はまだ初心者の域を出ない。
今の愛姫には、そんな判断もできないのだろうか。
――いや。
そこで、ふと気づいた。
魅魔の力を、使え。
その、目的語は?
普通に考えればカミヤシだが、本当にそうだろうか。
視線をカミヤシに向ける。
そして、その足許に倒れている瀕死の神流に。
漠然としか考えが、ひとつにまとまっていく。
いつかの、愛姫の言葉を思い出す。
『極端な話、意識がなくても、肉体を動かすこともできます』
魅魔の力は、鬼魔の身体を操る。精神ではなく、肉体を直に操るのだ。
そして神流は、充分すぎる量の悠樹の血を、精液を、その身体に取り込んでいる。意識のない今の神流なら、魅魔の力に対する抵抗力も働かない。
神流なら、操れる。もう自分では動けない神流を、動かすことができる。
しかし、それで勝機を作れるのだろうか。
今の状況よりは多少はましになるかもしれないが、それでも、あまりにも可能性の低い綱渡りだ。
そもそも、神流をさらに酷使するなんて、許されるのだろうか。
ぼろぼろに傷ついて、今にも息絶えそうな血まみれの姿。
悠樹のためだけにここへ来てくれて、なのに死ぬ目に遭っている。
そんな神流を、死にかけている神流を、さらに酷使することなど許されるのだろうか。それはもう〈仲間〉ではなくて、単なる〈道具〉ではないのか。
もしかすると、愛姫が鬼魔を使役するために力を使わない理由は、鬼魔を憎んでいるからだけではないのかもしれない。幼い頃から麻由と一緒に暮らしてきた愛姫は、鬼魔を〈道具〉として扱うことに抵抗があるのではないだろうか――ふと、そんなことを思った。
悠樹だって、神流を道具として使うなんてしたくない。
しかし、他に選択肢がないのも事実だ。
このままでは、神流の生命はもう長くはない。どれだけ重傷を負っても、それが普通の傷なら鬼魔の生命力で回復することができるだろう。しかし魅魔の力によって受けた傷には、その超常の再生能力もほとんど働かない。
今、神流を救う方法はひとつしかない。
悠樹の血を使うことだ。愛姫の血よりも多くの悠樹の血で、愛姫の力を中和する。そうすれば傷は神流自身の回復力で治すことができる。
そのためには、一刻も早くカミヤシを倒さなければならない。ならば、わずかな可能性であっても賭けるべきなのだろうか。なにもしなければ間違いなく最悪の結果が待っている。
こうしている間にも、神流の周りには血溜まりが拡がっている。もう時間がない。
……血?
神流の、血?
そこで、ふと、引っかかった。
もしかして、愛姫が伝えようとしたのはこれだろうか。
理屈の上では、可能性はある。しかし、本当にそんなことができるのだろうか。
……
…………
………………やるしか、ない。
ここでなにもしなかったら、悠樹がこの場にいる意味はない。自分は殺されないかもしれないが、それは鬼魔の餌として生かされるだけだ。その上、神流は殺され、愛姫は廃人にされるのでは、生きていても仕方がない。
ほんのわずかな可能性であっても、それに賭けて精一杯の抵抗をするべきだろう。失敗しても今より状況が悪くなるとは思えないし、たとえ意図した通りにいかなくても、カミヤシの意識がこちらに向いている最中に釉火が来てくれれば、それだけでも多少は有利になる。
ならば、やるしかない。
歯を喰いしばって、身体を起こした。殴られ、床に叩きつけられた時の衝撃で身体中が痛んだが、泣き言などいっていられない。
神流の方が、痛かったはず。
愛姫の方が、辛かったはず。
小さく、深呼吸。震える脚に力を込めてなんとか立ちあがった。
ちらりと、床に落ちている刀の位置を確認する。斜め前、三メートルほどの距離。カミヤシに少しの隙ができれば、拾うことはできそうだ。
それを確かめて、真っ直ぐにカミヤシを睨みつける。
悠樹に向けられるのは、嘲るような笑み。警戒している様子はない。普通に剣を拾おうとすれば、一歩も動く前にカミヤシは悠樹を殺せるだろう。
彼我の力の差を考えれば、ライオンが、自分に刃向かうハツカネズミを面白そうに眺めているようなものかもしれない。それでも、可能性はゼロではない。
もう一度、深呼吸。
唇を舐めて、湿らせる。
意識を集中する。
鬼魔を操る魅魔の力を発現させるには、精神集中が重要だ。
ただし、最初に意識を向ける相手はカミヤシではない。
「……神流っ!」
鋭く叫ぶ。
「そいつを抑えろっ!」
神流に意識はなく、肉体は既にぼろぼろだ。しかしそれでも悠樹の言葉に反応し、跳ねるように立ち上がってカミヤシにしがみついた。
カミヤシの顔に浮かんだ、ほんの一瞬の驚きの表情。意識を失った瀕死の神流が動けるとは思っていなかったのかもしれない。
しかし、神流の肉体は壊れかけている。筋肉がずたずたに裂け、骨も砕けている腕では、本当にカミヤシを押さえつけるだけの力はない。
それでも、一瞬、カミヤシの意識が悠樹から逸れた。
その一瞬の隙が、必要だった。
今度こそ、意識をカミヤシに集中させる。
言葉に、力を乗せる。
「動くなっ!」
同時に、床を蹴った。落ちていた刀に飛びつき、床を一回転してすぐに立ち上がる。
カミヤシの反射神経は、当然その動きに反応しようとした。
しかし、明らかに動きがぎこちなかった。
今度こそ、はっきりと驚愕の表情が浮かぶ。まったく予想外の出来事だったのだろう。
自分の身体が、悠樹の、魅魔の力に従うなんて。
カミヤシは気づいていなかったのだろう。悠樹も、絨毯に大きな染みを作っている神流の血を見るまで、そんなことを考えもしなかった。
しかし、カミヤシの体内には、ほんのわずかとはいえ、悠樹の血が確かに含まれていたのだ。
――神流の血肉を介して。
カミヤシは神流に噛みつき、肉を喰らった。その身体に悠樹の血と体液が含まれていることは失念していたのだろう。
神流が摂取した悠樹の血が、間接的に効果を発揮するのかどうかは賭だった。
しかし、その、分の悪い賭に勝った。
神流を経由してカミヤシに取り込まれた魅魔の血は、確かに悠樹の言霊に従い、カミヤシの肉体を縛った。
とはいえ、直接摂取した場合に比べてその量はごくわずかで、対してカミヤシの力は強大だ。愛姫のように、言霊だけで致命傷を与えることなど到底できない。神流の力と合わせても、カミヤシを抑えていられるのはほんの数秒だろう。
しかし、その数秒で充分だ。
拾った刀を腰だめに構え、全体重を乗せて真っ直ぐに突っ込む。
間一髪のところで神流を振りほどいたカミヤシだが、もうかわす余裕はない。悠樹に拳を叩きつけてくるが、まだ血の効果が残っているのか、先刻ほどの速度はない。
悠樹の刀と、カミヤシの腕。リーチの差を見極めて、悠樹はそのまま突っ込んだ。
丸太で殴られたような衝撃を受け、床に転がる。
一瞬、意識が遠くなる。
それでもなんとか気を失わず、肘をついて顔を上げた。
刀は、カミヤシの腹を貫いていた。
「……壊れろ!」
血の混じった唾を吐き捨てて、悠樹は叫んだ。
愛姫のように「死ね」と命じた場合、相手の抵抗力が勝ればそれまでだ。しかし「壊れろ」であれば、たとえ致命傷とならずとも相応のダメージは与えられる。
直後、大広間は、壁が震えるほどの咆吼に満たされた。
カミヤシの全身から血が噴き出していた。
悠樹の目の前で、皮膚が、その下の筋肉が、ずたずたに裂けていく。
身体中で血管が破裂し、噴き出す血が霧のようにカミヤシを包む。
鼓膜が痛いほどの咆吼に、骨が砕ける音が混じる。
悠樹の血は、期待した以上の力を発揮していた。
このまま、殺せるだろうか。見たところ、愛姫に刺された時の神流よりも重傷だ。
それでもカミヤシは倒れない。さすがにしぶとい。
もう一撃、喰らわせられるだろうか。
とどめを刺す力は残っているだろうか。
殴られた衝撃で、まだ脚に力が入らない。上体を支えている腕も震えている。
それでもなんとか立ち上がろうと、深く呼吸をして腕に力を込める。
しかし、それは不要な努力だった。
「……あら、思っていたよりいい仕事したのね。上出来よ」
背後から聞こえた、硬い靴音。生意気そうな女の子の声。
小さな銀色の煌めきが、視界の端をかすめる。
釉火の投げナイフが、カミヤシの左胸に突き刺さった。
瞬間、血まみれの巨体が灼熱の炎と化した。
痛いほどの熱気が悠樹の肌を刺す。
もう、咆吼も上がらなかった。目も眩む光の中で、カミヤシの身体の輪郭が崩れていく。
巨体が燃え尽きるまで、ほんの十秒とかからなかった。あっけないくらい簡単に、原形をとどめない消し炭のような姿と化していた。
広間を満たす薄い煙と焦げた匂いだけが、この場で起こったことの痕跡だった。
「もうちょっと、私の見せ場も残しておいて欲しかったわね。こんな、漁夫の利みたいな展開は不本意だわ」
緊張感のない態度で唇を尖らせる釉火。
その背後から、貴仁も姿を見せた。
「こっちも片付いたか?」
広間の状況をざっと確認して、微かにうなずく。
「じゃあ、外の連中に連絡して後始末にとりかかるか。その間に釉火はここのフォローを頼む」
緊張の糸が切れて、悠樹はその場にごろりと横になった。
身体から力が抜ける。
身体中あちこち痛いし、全身がだるい。このまま眠ってしまいたい。
――と。
「なに呑気に寝てるのよ」
いきなり、顔を踏みつけられた。
目を開くと、ショートブーツの靴底が視界を覆っていた。釉火を真下から見あげる体勢だ。
「……しましま」
思わず、目に映ったものをそのまま口に出してしまった。
釉火の、短いスカートの中の光景。
また怒るか、あるいはさすがに恥ずかしがるか――と思いきや、
「そそられる?」
平然と、悪戯な笑みを浮かべていた。
「そそるかよ、そんなガキっぽいパンツで」
素っ気なくいいながら、なんとか身体を起こす。
年下は嫌いではないが、美夕よりもさらに年下とあってはいくらなんでも守備範囲外だ。
少し、意外だった。大人びた口調や態度で、見るからに高級そうなゴスロリファッションに身を包んでいる釉火であれば、子供とはいえもっと大人っぽい下着を着けていそうなのに、いかにも年相応なパステルカラーの縞パンツとは。
ませているようでも、やっぱり子供だな――悠樹はそう思ったのだが、このお姫さまはそんなに甘くはなかった。
「大人っぽい私が、いざ脱ぐと実は子供っぽい下着。そのギャップが男心をくすぐるんじゃない」
余裕の態度を崩さず、あろうことか恥ずかしげもなく自分でスカートの裾をまくり上げて見せた。
「お、お前、羞恥心とかないのか!?」
「お兄さまにだったら、太ももを見られただけでも赤面ものだわ。でもアンタ、たとえばそのへんのノラ犬にパンツ見られて恥ずかしい?」
「俺はノラ犬扱いかよ」
「人間扱いして欲しければ、ちゃんとやるべき仕事をやりなさい。この駄犬」
今度は頭を蹴られた。まったく容赦がない。
しかし、いわれて思い出した。
まだ、やらなければならないことがある。むしろ、悠樹にとってはここからが本番ともいえる。鬼魔との戦いは主に釉火の役目だった。悠樹の仕事はこれからだ。
瀕死の神流と、正気を失っている愛姫を助けなければならない。
「えっと……まず、どうしたらいいんだ?」
釉火の顔を見る。
不本意ではあるが、魅魔師としての経験の少ない悠樹にとって、この場で頼れるのは釉火しかいない。
「まず、その狼を助けなさい。死なせたくないならね。最低限、姫姉さまの力を中和しないと長くはもたないわよ」
神流を指差していう。
「その後で、姫姉さまの治療。こっちはすぐに生命に関わるわけじゃないし、すぐに完治できるものでもないから、優先順位では後にしても大勢に影響はないわ」
「……わかった」
倒れている神流の傍らへ移動して跪いた。
身体中、ぼろぼろだ。皮膚に無数の傷が走り、全身血まみれになっている。
意識はない。それどころか、まだ息があるのが不思議なほどの重傷だ。
釉火にナイフを借りて、自分の指を切った。たちまち、鮮血が溢れてくる。
その指を、神流の口に含ませた。
意識のないまま、条件反射のように吸いついてくる。母親の乳首を口にした赤ん坊のようだ。
舌が絡みついてきて、喉を鳴らす。
悠樹は意識を集中する。治れ、傷が塞がれ、回復しろ――と念じる。
「なーに焦れったいことやってんのよ、この駄犬」
背後から、辛辣な声が投げかけられる。同時に後頭部を蹴られた。
「男なんだから、もっと効率のいい方法があるでしょ」
「効率のいい、って……」
思わず、振り返る。
「血よりも、もっと濃ーいものを注ぎ込めばいいのよ」
いわんとしていることは、すぐに理解できた。
セックスしろ、といっているのだ。
そういえば、神流もいっていたはずだ。口に出されるよりも効く――と。
とはいえ、傷だらけで瀕死の神流にそういうことをするというのはかなり抵抗がある。悠樹にとってセックスは「楽しむためにすること」であるが、今はそれどころではない。治療のためにするセックス、というの展開にはまだ慣れない。
なのに、身体はしっかり反応していた。下半身は既に大きくなっている。
考えてみれば当然だ。この場には神流の血の匂いが充満しているのだ。
するしか、ない。神流を助けるために必要なこと――と自分を納得させる。
「えっと……じゃあ、ちょっと、席を外してくれないか?」
残る問題は釉火の存在だけだ。さすがに、子供に見られながらではできない。
しかし釉火は室内にあった古ぼけた椅子を間近に引き寄せて座り、こちらを凝視していた。
「あたしのことは気にしないで。将来、お兄さまとする時の参考に見学させてもらうわ」
「思いっきり気にするわ!」
3Pならまだしも、行為に無関係の〈見物人〉に見られながら平然とできるほどには悠樹もすれていない。しかもまだ小学生の釉火である。さすがに子供の見るものではあるまい。
「つか、お前、マジで近親相姦願望があるブラコンかよ!?」
「当然でしょ」
当たり前のことを訊くな、という口調。釉火にとっては、兄と結ばれる未来は既定のことらしい。
「あんな素敵なお兄さまがいるのにブラコンにならないとしたら、視力か美意識に重大な欠陥があるわね」
ここまで堂々といい切られると、自分の方が間違っていると洗脳されそうになってしまう。しかしどう考えても、問題があるのは釉火の方だろう。
「……で、兄貴はなんていってるんだ?」
念のため訊いてみる。
貴仁も妹を可愛がってはいるが、釉火に比べれば常識人っぽい雰囲気だった。それに、少なくともまだ妹に手は出していない。ロリータ趣味のシスコンではないということか。
「十六歳になるまで待ちなさい、って」
釉火は不満げに唇を尖らせた。
「あたしはいつでもオッケーなんだけど、お兄さまのいうことも、まあ、一理あるのは事実ね」
貴仁もロリコンではないというだけで、やはりシスコンなのだろうか。あるいは、釉火を正面から説得するのは無理と諦めて、時間稼ぎをする口実かもしれない。
「だから、その時のために勉強。あたしのことは気にせずどんどんやっちゃって」
「……や、すっげー気になるけど」
「もたもたしてると、その娘が死んじゃうわよ?」
悪意のこもった笑みを浮かべ、脅迫じみた台詞を吐く。
「いいじゃない、別に気にしなくたって。それとも、見られるのが恥ずかしいくらい貧相な代物なの?」
露骨な挑発とわかっていても、そうまでいわれては引き下がれない。
それに、神流をいつまでもこのままにしていられないのも事実だ。もう、時間の余裕はあまりない。
釉火の存在を頭の中から消し、神流に向き直る。
全裸で、全身傷だらけ、血まみれの神流。
ずたずたに裂けた皮膚はもちろん、口から、鼻から、耳から、そして性器からも出血している。
見るも無惨な大怪我だが、それでも、血を飲ませる前に比べれば呼吸が少し力強さを増しているように感じる。
こんな傷だらけの姿を見ても反応してしまうのは人としてどうかと思うが、こればかりは仕方がない。悠樹の血が鬼魔を興奮させるように、鬼魔の血もまた人間を興奮させるのだ。いくら耐性があるとはいえ、無反応ではいられない。
それに正直なところ、神流の白い肌と、深紅の血の対比はどこかエロティックな光景だった。
だから、神流を助けるのに必要なことだから――と自分を納得させる。
ファスナーを下ろし、既に大きくなりきっているものを引っ張り出し、血まみれの割れ目にあてがった。
前戯もなしに、挿入する。楽しむためのセックスではないのだから、のんびりと前戯などしている場合ではないし、出血が愛液の代わりに潤滑の役目を果たしてくれるだろう。
体重をかけて押し込む。神流に意識はなく、身体はぐったりと弛緩している。それでも、きついことに変わりはない。力まかせに腰を突き出した。
「――――っっ!」
脊髄を走る快感。
神流と初めてした時と同じように、挿入しただけで射精してしまう。なのに萎えるどころか、さらに勢いを増していく。
鬼魔の血が、亀頭の粘膜から染み込んでくるようだ。それが悠樹を昂らせる。
神流は相変わらず意識がないのに、膣の粘膜は意志を持った生き物のように蠢いて絡みついてくる。この世のものとは思えない快楽だ。
ひと突きごとに、精液が漏れる。しかしそれが神流を救うことになるはずだ。その事実が肉体だけではなく悠樹の心も昂らせる。
頭が、熱い。頭の中で血液が沸騰するようだ。
無我夢中で腰を振る。
結合部で、血液がぐちゅぐちゅと泡立っている。そこに、血液よりももっと粘度の高い液体が混じりはじめる。
「ん……、んぅ…………、く……ぅ……ん……」
神流の唇が微かに動き、呻き声を漏らした。
まだ意識は戻っていないが、見た目にもわかるくらい顔に血の気が戻ってきている。身体も、小さな傷が塞がりはじめていた。
これなら、助かる――そんな確信が生まれる。
そう思うと、悠樹も力が入る。神流を犯す腰の動きが激しさを増す。
怪我人相手なのだから優しく――頭ではそう考えているのだが、身体がいうことをきかない。意志とは無関係に身体が動き、力まかせに腰を叩きつける。神流の胎内を大量の精液で満たしていく。
鬼魔の肉体は、どんな媚薬や麻薬よりも人間を狂わせる。
うねるように蠢く粘膜が絡みついてくる。溢れ出る蜜が性器を通して染み込んで、神経を侵していく。それによって、精力が無限に湧き出してくるように感じる。
快楽に狂う人間の血肉が、鬼魔の力の源だ。だから鬼魔は、人間により強い快楽を与えるように進化してきた。
その結果が、これだ。
近づいただけで惹かれ、興奮してしまう。正面から見つめられたら、衝動が抑えられなくなってしまう。その肉体と交われば、もう正気ではいられない。
人間の女が鬼魔に犯された場合はもちろん、男が鬼魔の女と交わっても同じだ。正気を失い、廃人になるまで鬼魔と交わり続ける。悠樹が正気でいられるのは、魅魔の血による耐性と、なにより、神流が悠樹を狂わせようとしていないからでしかない。
それでさえ、完全に正気かといわれたら疑問が残る。神流とセックスして以来、もう一度したいという衝動に襲われない日はなかった。軽度の依存症ではないかという自覚はある。
愛姫にも指摘された、神流と逢うことにあまり積極的ではなかったことにも、これが影響しているだろう。逢いたいけれど、逢うのが怖い気持ちも強い。深みにはまって抜け出せなくなってしまいそうだった。
それでもやっぱり、神流なしではいられない。久しぶりに神流とセックスして、そのことを実感した。
神流の身体は、やっぱり最高だった。身体全体がペニスになってしまったのように気持ちいい。
欲をいえば、こんな切羽詰まった状況ではなく、素直にセックスを楽しめる場面で逢いたかった。気が遠くなるほどに気持ちいいのに、だからこそ、瀕死の神流で興奮していることに後ろめたさを感じてしまう。
苦痛に歪む表情も、苦しげな呻き声も、あの挑発的な笑顔や喘ぎ声と変わらず悠樹を虜にする。血まみれの身体はひどくエロティックでさえある。
衝動のままに、激しく腰を叩きつける。
これ以上はないくらいに硬く大きくなった男性器は、神流の小さな身体を深々と貫いて、胎内に精液を注ぎ続けている。
それでも、治まらない。もう、普段のセックスの何倍もの精液を放出しているはずなのに。
際限なく、さらに昂っていく。
「ひ……ぃ……ん……っ、ゆ…………ぅ……きぃ……っ!」
譫言のように力のない声。それでも確かに悠樹の名を呼んだ。意識が戻ったのだろうか。それとも、無意識なのだろうか。
この一言が、とどめとなった。
「――――っっっ!!」
ひときわ強い衝撃が身体を襲う。
なにかが脊髄を縦に貫き、大きな塊が尿道を通って飛び出していくような感覚。
これまで流してきた以上の量の精液が、一気に噴き出す。
神流の身体が痙攣する。悠樹もぶるぶると身体を震わせる。剥き出しの神経を擦られるような、痛いほどの快感だった。
数十秒間痙攣を続けた神流の身体から、不意に力が抜ける。
相変わらず意識はない。しかし、呼吸はずいぶん落ち着いているようだ。頬を汚している血を拭うと、小さな傷が塞がりかけている。もっと深い傷も、もう出血は止まりかけていた。
早くも回復に向かっている。悠樹の力が愛姫の力を中和したことで、鬼魔の再生能力が発揮されはじめたのだ。
悠樹は大きく息を吐き出した。これでひと安心だ。生命の危機は脱したと見て間違いないだろう。
神流から身体を離す。
拡げられていた膣口がきゅっと閉じ、大量に注ぎ込んだはずの精液はまったく溢れ出てこない。一滴も残さず吸収しつくそうとしているかのようだ。
血の気が戻った神流の顔を見て、思わず笑みがこぼれる。
――と。
いきなり、引き抜いたばかりのペニスを掴まれた。
いつの間にか愛姫が傍らにいて、うっとりとした恍惚の表情で手に握ったものを見つめている。
「これ……ほしいの……」
いうが早いか、無我夢中で吸いついてくる。
自ら顔を押しつけて、喉の奥まで呑み込んだ。口の端から唾液が溢れ出し、細い顎から糸を引いて落ちていく。
喉が蠢いて、亀頭を刺激する。愛姫の手は、自分の下半身へと動いていく。ぐちゅぐちゅという湿った音とともに、下半身からも雫が落ちた。
上目遣いに悠樹を見あげ、喉を鳴らす愛姫。
「……おいしい……これ、だいすき……ほしいの……ふといチンポ欲しいの……」
栗の花の匂いがする、熱い吐息。
あの愛姫が、こんなになってしまうなんて。
その表情には理性の欠片も感じられない。ただ快楽を貪るだけの牝の姿だ。
これが、何体もの鬼魔たちに一晩中犯され続けた結果だ。その光景を想像するだけで怒りが込みあげてくる。
そこでふと釉火の存在を思い出した。いくらなんでもこれは子供には刺激が強すぎる。愛姫のこんな姿は見せるべきではない。
悠樹に対しては高飛車で生意気な釉火も、愛姫には懐いているような口ぶりだった。敬愛する従姉のこんな姿を見て、ショックを受けているのではないだろうか。
ところが。
「うわぁ、さすがは姫姉さま。えろえろな姿も素敵」
紅く上気した顔にうっとりとした表情を浮かべ、瞳を輝かせていた。
「あの美しくて清楚な姫姉さまが、はしたない淫語を連呼してこんなに乱れて……このギャップがそそるのね、あたしも見習わなくちゃ」
「見習うな!」
かなりずれた感覚の持ち主のようだ。まあ、泣かれるよりはいいが。
「アンタはそそられないの?」
「…………そそられるけどさ」
普段の真面目な姿を見慣れているだけに、ギャップに興奮してしまうことは否めない。
実際、神流の中に大量の精を放ったばかりだというのに、悠樹のペニスは最盛時の勢いを失っていなかった。
愛姫は名残惜しそうに口を離すと、自分から仰向けになってM字開脚の形に脚を開いた。
自分の指で、性器を、そしてお尻を拡げる。
「ねぇ……いれてぇ……わたしのなか、ふっといチンポでいっぱいにしてぇ」
「姫姉さま、どっちに欲しいの?」
悪戯な笑みを浮かべて釉火が訊く。
「どっちも……どっちも欲しいの! おマンコも、お尻も、いっぱいにしてぇ!」
股間を見せつけるようにお尻を持ち上げ、前と後ろ、同時に指を挿入して自分で拡げる。膣からは白く濁った愛液が流れ出していた。
「ゆうきさんの……ここにほしいの……ゆうきさんには、まだ……おしりにいれてもらってないのぉ」
「お、俺のこと、わかるのか?」
まるで正気を失っているように見えるのに、悠樹や釉火のことを認識できているのだろうか。
しかし、悠樹の言葉には反応しない。あるいは、目の前の男をすべて悠樹と認識しているのかもしれない。
「……ゆうきさんのおチンポ……ほしいの…………」
正気とはいいがたい台詞。なのにそそられてしまう。あの愛姫にこんなことをいわれては、男として反応しないわけがない。
こんな状態になっても、悠樹のことを欲しがってくれている。狂うほどの快楽を与えてくれた鬼魔ではなく、悠樹を求めてくれている。この想いに応えなくては男ではない。
愛姫が自ら拡げている菊門に、ペニスの先端を押し当てた。
きっと、ここもさんざん犯されたのだろう。送りつけられた動画には、前後同時に貫かれている姿も映っていた。
悔しい。
こんなことなら最初の日に、後ろのバージンも奪っておけばよかった。あの時の愛姫なら、躊躇う素振りを見せつつもきっと受け入れてくれただろう。
とはいえ、鬼魔の力でおかしくなっていたバージンの女の子の、後ろまで奪ってしまうというのも抵抗があった。今となっては、そんな自分の理性が少しだけ恨めしい。
本来、女の子の処女性にはそれほどこだわる方ではない。もしも愛姫が悠樹と出会う前に男性経験があったというなら気にもしないだろう。
だけど、これは悔しい。
愛姫にとっても、好きでもない相手どころか、心底憎んでいる鬼魔に無理やり後ろのバージンまで奪われたなんて、耐え難い屈辱だろう。それならば、多少なりとも好意を持っていた悠樹が初めての相手だった方が、まだマシだったのではないだろうか。
とはいえ、今さらいっても後の祭りだ。どうしようもない。過ぎたことよりも、これからのことを大事にするべきだろう。
そう考えて、腰を突き出す。
硬い肉棒が、愛姫のお尻の中に飲み込まれていく。
「あぁぁ――っ! いぃぃっ! イイのぉっ!」
愛姫の身体が大きく仰け反る。大きく開かれた口から涎が溢れる。
膣よりもずっと窮屈ではあるが、思いのほかスムーズな挿入だった。湧き出すように滴る蜜がお尻まで流れて、潤滑剤になっている。
根元まで、力強く打ち込む。
歓喜の嬌声を上げて身体を震わせる。
あの愛姫が、アヌスを犯されて悦んでいるなんて。
ショックを受けつつも、やっぱり興奮してしまう。湧きあがる衝動を抑えられなくて、激しくピストン運動を繰り返す。
「あぁぁっ! あぁぁぁ――っ! あぁんっ!! あぁぁっ!」
突くたびに、圧迫された膣から蜜が噴き出してくる。そのおかげでさらに動きやすくなっていく。
愛姫は激しく悶えながら、前に自分で指を挿れた。悠樹の動きに合わせるように、三本の指でめちゃめちゃにかき混ぜている。
「もっとぉっ! もっとぉっ! いいぃっ! おしりいいのぉっ!! もっともっともっと突いてぇぇっっ!!」
以前とは別人のように、猥らに快楽を貪る愛姫。
釉火はすぐ横で、かぶりつくように凝視している。子供とはいえこの光景に興奮しているのか、頬を真っ赤にして身体をもじもじさせている。
この展開はやばいかもしれない――悠樹は思う。
まだ幼いといってもいい美少女に見つめられながら、愛姫のような美女とアナルセックスだなんて。まったく、なんて展開だろう。
もう我慢できない。腰の動きをさらに加速させる。
「ひぃぃっ! すごっ……すごぃぃっ! あぁぁっっ!! いっちゃう! おしりいっちゃう! あぁぁぁ――――っっ!!」
甲高い悲鳴。愛姫の身体が震える。
その刺激がとどめとなって、直腸の奥深くに大量の精を放った。
大きく、何度も脈打つペニス。
その度に感極まったように震える愛姫。
締まりのない笑みを浮かべて、ぺろりと舌を舐める。
深紅の瞳は、熱っぽく悠樹を見つめていた。
「……もっとぉ……今度は、こっちががまんできないの……ここにおチンポ欲しいのぉ」
秘裂を指でいっぱいに拡げる。
真っ赤に充血した粘膜が、白濁した涎を溢れさせていた。
悠樹もまだ勢いを失ってはいない。アヌスから引き抜いて、愛姫の望む場所を貫こうとする。
しかし。
一瞬早く、横から伸びてきた手に掴まれた。
「……今度は、ボクの番だよね?」
いつの間に移動してきたのだろう、大きな黄金色の瞳が悠樹を見あげていた。まだ傷だらけで、身体中血で汚れているが、元気そうに動いている。瞳の輝きに力強さが感じられた。
「神流……お前、治ったのか?」
しかし、神流は首を左右に振る。
「……全然? ほら、ここも、こっちも、まだまだ傷だらけだよ? だから……ね?」
そう応える声にも力がある。傷も新たな出血はないようで、むしろどんどん塞がっていっている。
これならもう大丈夫では……といいたげな視線を向けると、神流はわざとらしく咳をした。吐き出した唾に、ごくわずかに血が混じっている。
「……ね?」
小さく首を傾げて、手に握ったものを口にくわえようとする。
――と。
別な手が、神流の顔を押しのけた。
「まだ、ぜんぜん、鬼魔の力が中和しきれていません……癒して、くださいますよね?」
愛姫も、かなり正気に戻っているようだった。もちろん、愛姫の方から積極的に誘ってくるあたり、まだまだ正気とはいえないのだろうが、少し前と比べれば、瞳に、表情に、はっきりと理性の気配が戻っている。
こんなに簡単に、回復するものなのだろうか。普通の人間なら、一度犯されただけで発狂する者も少なくないと聞く。愛姫はいくら耐性があるとはいえ、一晩中、複数の鬼魔に犯され続けたのだ。正直なところ、簡単に元に戻るとは期待していなかった。
確認するように釉火に視線を向ける。意図を察したのか、釉火は微かに首を振った――左右に。
「まだよ。アンタの精液とか血とか、もらった直後は一時的に正気に戻るの。でも、完治したわけじゃない。すぐにまた、先刻と同じような状態に戻る。本当に回復するには、もしかしたら何週間もかかるかも」
それでもいい。治るという希望があるのであれば。
神流も生命の危機は脱したようだし、ひと安心だ。
その神流は、逆に愛姫を押しのけようとしている。
「ユウキ、こんな性悪女やめたほうがいいよ! 見た? ボクを刺した時の顔。あれがこの女の本性だよ!」
「やっぱり、人間は人間同士ですよね? それに十三歳は犯罪ですよね? 高校生と大学生なら普通ですよね? それとも悠樹さん、獣姦趣味が? それは人としていけないと思います」
ふたりとも、悠樹のペニスを握ったまま睨み合っていた。
手にはかなり力がこもっている。
このまま引っ張り合いでもはじめそうな雰囲気だ。愛姫はまだしも、神流の力で大岡裁きなんてされたら千切られてしまう。いや、愛姫だって、真剣を振り回す手の力は見た目の印象よりもずっと強い。
身体の危機を感じた悠樹は、慌てて叫んだ。
「二人ともお座り! 待て!」
もともと犬っぽいところのある神流はもちろん、愛姫まで条件反射のように反応した。
反射的に床の上に並んで座ると、仔犬のような瞳で悠樹を見あげてくる。
きらきらと、期待に輝いている四つの瞳。「どっちを先にしてくれるの?」と訴えている。
さて、困った。
どうしたものだろう。
どうやって、この状況を脱すればいいのだろう。
うまく誤魔化すことができるだろうか。
必死に考えていると、貴仁が広間に戻ってきた。
「こっちはひと段落ついたのか?」
室内の様子を見回して訊く。
「ええ、いちおう」
釉火が応える。
「だったら、犬神くんにはもうひと働きしてもらおうか」
「え? ええ、いいですよ。俺にできることならなんでも、よろこんで」
とりあえず、この板挟みから合法的に脱出できるのであれば。
しかし、振り返った悠樹に向けられていたのは、貴仁の意地の悪い笑みだった。
「別の部屋で、他にも囚われていた女性が十名ほど見つかったんだ。なぁ、犬神くん向きの仕事だろう?」
「え……?」
脚が止まる。
背後から、突き刺さるような鋭い殺気を感じた。
ぎこちない動きで振り返る。
すぐ後ろに、危険な笑みを浮かべたふたりの美少女が並んで立っていた。
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