20

 夢を見ていた。
 何年前だろう。まだ、私も宏樹も中学生だった頃の夢だ。

『……宏樹、宏樹!』
 ベッドの中で、私は悲痛な表情で宏樹を呼んでいた。
 身体がほとんど動かなかった。
 腕に、脚に、そして背中に、骨の髄から染み出してくるような痛みがある。昨夜、寝る前にはなかったはずの痛み。その時は左腕も左脚もそれなりに動いていたのに、朝、目が覚めたらこうなっていた。
 朝はあまり体調がよくないのはいつものことだが、こんなにひどいことはしばらくなかった。
『宏樹っ!』
『どうしたの、姉さん』
 部屋の扉が開き、パジャマ姿で眠たそうな顔の宏樹が顔を出す。
『まだ、起きるには早いよ』
『どうしよう、宏樹。動かないの、手も、脚も!』
 切羽詰まった声で訴えると、宏樹の顔から眠気が消えた。
『動かないの、ぜんぜん動かないの!』
 怪我は、徐々によくなってきていた。少しずつ動けるようになってきていた。それでも私には常に不安があった。脊髄に致命的な傷が残っていて、ある日突然、身体が動かなくなってしまうのではないか――と。
 その不安が現実となったのだろうか。
『落ち着いて、姉さん。大丈夫だから』
 宏樹が腕に触れてくる。手のひらで強く擦ってくれる。微かな温もりを感じる。
『今日、外はひどい雨で気温も低いんだ。そのせいだよ。今までも天気の悪い日は調子悪かったろ? 天気がよくなれば治るよ』
『……ホントに?』
 そういえば、屋根を叩く激しい雨音が聞こえている。
『ああ、大丈夫。……痛みはない?』
『……痛い。腕も、脚も、背中も、すごく痛い』
 動かないのに、皮膚の感覚もほとんどないのに、痛みだけを感じる。骨の中心から生まれてくるような痛み。筋肉の傷みと違って、意志の力だけで簡単に耐えることはできない。
『今日は学校休みなよ。薬飲んで、温かくしてゆっくり眠れば、明日には治ってるよ。俺も休んで、ついていてあげるから』
『ホントに? ……いいの?』
『ああ。……ほら、薬』
 宏樹は私の背中に手を入れて上体を起こさせると、部屋に常備してある鎮痛剤を飲ませてくれた。飲んだ瞬間から効くはずもないが、精神的な理由からか少し楽になったように感じる。いくらか落ち着いて深呼吸をする。
 横になると、宏樹は脚のマッサージをはじめた。
『……ね、宏樹。このまま動けなくなったらどうしよう』
 一瞬、手が止まる。
『……ばか、そんなことあるわけないだろ。医者も言ってたじゃないか。時間はかかるけど、ほとんど普通に歩けるようになるって』
『だけど……もしも』
『大丈夫』
 脚に触れている手に、少し力が入る。
『たとえそうなっても、俺が傍にいるから。困ったことがあればすぐに言いなよ。なんでも手伝ってやるから』
『……』
 嬉しかった。
 その場しのぎの口だけの約束だとしても、涙が出そうなほどに嬉しかった。
 たとえ動けなくなっても一人きりにはならない。それだけで安心できた。
『……』
 たった一言「ありがとう」の言葉が出てこない。それを口にしてしまうと、そのまま泣き出してしまいそうだった。
『……ね、宏樹』
 代わりに、いつもより少しだけ甘えることにする。
『おトイレ……行きたいの。連れてって』
『え? あ、ああ』
 身体の下に手を入れて私を抱え上げる宏樹。いつの間にこんなに大きく、力強くなったのだろう。私が怪我をする以前の、小さな小学生の宏樹とは別人だ。多少ふらつきながらも私を抱きかかえてお手洗いへと歩いていく。
『……脱がせて』
 トイレに着いたところで頼んだ。宏樹はちょっと躊躇った後、パジャマの下を脱がせてくれた。その続きは右手一本でもなんとかなりそうだったけれど、私は思いっきり甘えたい気分になっていた。
『……下も』
 宏樹の顔が真っ赤になる。それでも、おずおずとパンツを下げてくれる。もちろん、見ないように顔は横に向けている。
 そうして私を便座に座らせると、宏樹は慌てた動きで外に出て扉を閉めた。そんな様子が可笑しくて、込み上げてくる笑いを噛み殺しながら用を足した。
 右手でビデのスイッチを操作して、局部を洗ったところで宏樹を呼ぶ。
『宏樹』
 躊躇いがちにドアが開く。
『……拭いて、くれる?』
『……』
 パンツを脱がせた時の何倍も真っ赤になって、それでも宏樹はなにも言わず、トイレットペーパーを取って優しく拭いてくれた。腫れ物に触れるような、かなりおっかなびっくりの手つきではあったが。
 小学生の頃の、まるで動けなかった時期を除けば、こんなことをしてもらうのは初めてだった。
 あるいは試したかったのかもしれない。宏樹が私のためになんでもしてくれるということを。
 宏樹は丁寧に拭き終えると、水を流し、パンツとパジャマを穿かせてまた部屋へと連れて行ってくれた。
 ベッドに寝かせ、掛け布団の上から予備の毛布も掛けてくれる。
 トイレに行っていた短い時間で、痛みはずいぶん和らいでいた。薬の効果か、あるいは精神的な要因も大きいのかもしれない。
 それでもまだ、脚の痛みが煩わしい。頼んでマッサージしてもらう。
 優しく触れる温かな手が気持ちいい。
 鎮痛剤が効いてきたせいか、眠たくなってきた。
 宏樹の手の温もりを感じながら、私は静かに眠りについた。


 薬が効いて、私はぐっすりと眠っている。
 様子を見に来た宏樹は、私がひどく寝汗をかいていることに気づいた。
 濡らしたタオルを持ってきて、顔や手を拭いてくれる。
 そして。
 タオルを持ったまま、しばらく考えていて。
 やがて躊躇いがちにパジャマのボタンを外していった。
 上半身が露わにされる。
 首筋、お腹、そしてささやかな胸の膨らみをタオルで拭いていく。
 特に、胸の部分に時間をかけて。
 それでも私は眠っている。
 緊張した面持ちで宏樹が唾を飲み込む。
 パジャマの下を脱がし、脚を拭く。
 つま先から、だんだん上に移ってくる。下着に触れたところで手が止まった。
 じっと私の顔を観察している。
 私は眠っている。
 恐る恐る、下着に手をかける。身に着けていたものの最後の一枚を脱がしていく。
 宏樹の顔は緊張で強張っている。
 全裸で眠っている私。見下ろす宏樹の、ズボンの前が固く膨らんでいた。
『……姉さん』
 耳元でささやく声。
 それは私を起こすためではなく、眠っていること、目を覚まさないことを確かめるためのもの。
 なにも反応しないことを確認して、宏樹はズボンのファスナーを下ろした。
 固く勃起した男性器を引っ張り出し、手で握ってしごき始める。
 呼吸が荒い。
 全裸で眠っている私を凝視しながら右手を動かしている。
 歯を食いしばって射精を我慢している。
 やがて宏樹は私の手を取った。
 はち切れんばかりに勃起した自分を握らせる。手を添えて前後に動かす。
 ビクンッ!
 大きく脈打つ。
 先端から白濁した粘液が噴き出して、私の顔に降りそそいだ。
 白い飛沫に汚される顔。私はなにも知らずに眠っている。
 宏樹はまだ手を動かしている。
 股間のものは大量の精を放ったにもかかわらず、まだ勢いを失っていない。
 荒い呼吸を繰り返す宏樹。興奮は治まるどころかさらに昂っているようだった。
 私の脚に手を伸ばす。
 大きく開かせて間に身体を入れる。
 ぎこちない動きで、その中心に固く反り返ったものをあてがう。
 一瞬動きを止めて、私の様子を窺う。
 そして、腰を前後に動かし始めた。
 擦りつけるように。
 押しつけるように。
 だんだん動きが速くなってくる。
 大きく、ぐいっと腰を突き出す。私の身体がびくっと震える。
『うぁっ!』
 下半身を密着させた状態で、ぶるぶると震える宏樹の身体。
 大きく息を吐き出して動きを止める。
 しばらくそのままでいて、やがて怖々と身体を離した。
 宏樹の表情が凍りつく。
 開かれた脚の間から、鮮血の混じった白濁液が流れ出してシーツを汚していた。
 宏樹の顔からは血の気が失せて、真っ青になっていた。いま初めて、自分のしたことの重大さに気づいたかのように。
 先刻までの勢いはどこへ行ったのやら。私を犯した宏樹の分身は、すっかり縮み上がっていた。


 意識を取り戻してしばらくの間、夢と現実の区別がつかなかった。
 夢の中で、宏樹は眠っている私を犯していた。
 目を覚ました私は、やっぱり宏樹に犯されていた。
 宏樹は泣いていた。
 泣きながら私を陵辱していた。
 泣きながらの、途切れ途切れの告白。
 要領を得ない言葉の断片をつなぎ合わせて、足りない部分をこれまでに得た状況証拠と想像力で補って。
 あの日、眠っている私に宏樹がなにをしたのか。
 宏樹が不能になった原因である、心の傷がなんだったのか。
 私はようやく答えに辿り着いた。

 宏樹が私を犯している。
 激しく。
 竹上よりも激しく。
 竹上はあれでも、私を気持ちよくさせよう、そして自分も気持ちよくなろうとしていた。
 だけど宏樹は違う。
 なにも考えず、どうすればいいのかわからず、ただ欲望をぶつけている。
 私はなにも言わず、なにも抵抗せず、ぼんやりとしたまま陵辱されていた。
 頭が痛い。
 失神するほど強く殴られたせいだろうか。それとも精神的なショックのせいだろうか。
 激しく叩きつけられる腰。それは痛みを伴う行為のはずなのに、頭痛の陰に隠れてなにも感じない。
 宏樹の精が胎内に注ぎ込まれる。
 それでも宏樹は離れない。
 私を犯し続ける。
 私の中に射精する。
 何度も。
 何度も。
 私は無言でそれを受け止めていた。

 行為が終わるまでに、いったいどのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 カーテンの隙間からぼんやりとした光が射し込んでいる。
 宏樹はこちらに背を向けて、ベッドの端に座っている。
 お尻の下のシーツがひんやりと冷たい。まだ、胎内に注ぎ込まれたものが流れ出している。
 私はぼんやりと横になっていた。なにも言うべきことは思いつかなかった。
 ついに、宏樹と最後までしてしまった。
 いや、「ついに」ではない。私が知らなかっただけで、まだ中学生だった私のバージンを奪ったのは宏樹だったのだ。
 私の初めての相手は、竹上ではなくて宏樹。
 これまでの常識、信じてきたことが根底から覆された衝撃。
 前提条件がまるで変わってしまった。
 これからどうなるのだろう。
 私はどうすればいいのだろう。
 わからない。
 なにも思いつかない。
 特に考えもないまま身体を起こそうとする。そこで初めて、身体がほとんど動かないことに気がついた。
 まるで、あの朝のように。
 どうしたことだろう。これまで普通に動いていた右腕さえほとんど感覚がない。
 殴られた衝撃で脊髄にダメージを負ったのだろうか。
 それとも単に、昨日から今朝までの数え切れないセックスで疲労しきっているためだろうか。
 外から雨音が聞こえている。天候が悪いせいもあるのかもしれない。
 一時的なものなのか、継続的なものなのか。今の段階ではそれすらわからない。
「……宏樹」
 声をかけると、宏樹は無表情に振り向いた。
「身体……動かないの」
「……それで、なにか不都合があるか?」
 宏樹の口元に引きつった笑みが浮かぶ。手を伸ばして私の身体の上に置く。
 それは撫でるというよりも、上から押さえつけるような動作だった。
 起きなくていい。
 動かなくていい。
 ただそこにいればいい。
 ――そう言うかのように。
 ぎこちない表情の宏樹。だけどどことなく満足げな気配を感じるのは気のせいだろうか。
「…………」
 ようやく、理解できたような気がする。
 なにを考えているのか。なにを望んでいるのか。
 宏樹は私を失うことを怖れていた。
 私が宏樹を必要としているように、あるいはそれ以上に、宏樹は私を必要としている。
 私の介助なら他の人でもできる。だけど宏樹の性欲を満たすことができるのは、世界中にたった一人。
 私だけ。
 だから宏樹は、絶対に私を失うわけにはいかない。
 好意がなくても。
 恋愛感情がなくても。
 私を失うわけにはいかない。つなぎ止めておかなければならない。
 だから、この表情。
 私が動けずにいるというのに、嬉しそうな満足そうな表情。
 思えば、いつだってそうだった。
 私の体調が悪い時の方が宏樹は優しかった。
 けっして私の自立を促そうとはしなかった。
 常に不安だったのだろう。
 私が自由に動けたら、一人で行動していたら、他に彼氏を作ってしまうかもしれない。宏樹から離れていてしまうかもしれない。
 生きた人間の心を永遠に縛り続けることはできない。そこに『絶対』はない。
 宏樹が必要としていたものは『姉』でも『彼女』でもない。私に求めていたのは、他に行き場のない欲望を満たすことのできる、血の通った性処理人形であることだ。
 そして今、望んでいたものを手に入れた。
「……沙耶は動けなくなっていいんだよ。ずっと前に言ったろ。俺が傍にいるって。なんでもしてやるって」
 だから、この表情。
 狂気を孕んだ悦びの表情。
 私を押さえている手。
 勝手に動くことは許さない。
 自分から離れていくことは許さない。
 そう言っている。
「……そう、だね」
 自分でも意外なことに、私は素直にうなずいていた。
 ただここに寝ていればいい。
 必要なことはなんでも宏樹がしてくれる。
 私の上に置かれている手。
 それだけでいい。
 私が必要としている手。
 私を必要としている手。
 そう。この手があればそれでいい。
 多分、竹上と付き合っていた方が、私は普通の女の子になれる。自立したいのならその方がいい。
 竹上のこと、多分、少しは好き。セックスしたことを後悔しないくらいには。
 だけど。
 だけど……。
 だけど、どちらかひとつしか選べないのなら。
 私は。
 私は……。

 どちらを選ばなければならないか、考えるまでもない。

 竹上は本気で私のことが好きなのかもしれない。だけど、私が『必要』なわけではない。彼の隣にいるのは他の女の子でも問題ない。
 だけど、宏樹は違う。
 宏樹には私が必要。
 宏樹にとって私は唯一無二の存在。
 他の誰も、私の代わりにはならない。
 そして――
 宏樹がこうなったのには、私にも責任がある。
 私は宏樹に対して償いをしなければならない。
 宏樹は、私の初めてを奪った相手。
 宏樹は私に対して償いをしなければならない。

 理由はいくらでもつけられる。
 いや、理由なんかいらない。

 ――ただ、宏樹に傍にいて欲しいのだ。

「……宏樹」
「ん?」
「オナカ空いた」
「なに食べたい?」
 なんでもいい――これまでならそう言ったはずだ。一方的に世話になっている立場、わがままは言えない――と。
 だけどこれからは違う。
「カマンベールチーズのオムレツ。ふわっふわの半熟のやつ。ちょっとでも焦げてたら食べないからね」
 私はわがままを言うことにした。なにも遠慮はしない。思うままに宏樹に甘える。なんの後ろめたさもなしに。
 その代わりに宏樹が求めているものを、私だけがあげられるものを望むままに与える。
「……わかった、まかせとけ」
 納得した顔でうなずくと、宏樹は私の頭を優しく叩いて立ち上がった。

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