夢を見ていた。
 何年前だろう。まだ、私も宏樹も中学生だった頃の夢だ。

『……宏樹、宏樹!』
 ベッドの中で、私は悲痛な表情で宏樹を呼んでいた。
 身体がほとんど動かなかった。
 腕に、脚に、そして背中に、骨の髄から染み出してくるような痛みがある。昨夜、寝る前にはなかったはずの痛み。その時は左腕も左脚もそれなりに動いていたのに、朝、目が覚めたらこうなっていた。
 朝はあまり体調がよくないのはいつものことだが、こんなにひどいことはしばらくなかった。
『宏樹っ!』
『どうしたの、姉さん』
 部屋の扉が開き、パジャマ姿で眠たそうな顔の宏樹が顔を出す。
『まだ、起きるには早いよ』
『どうしよう、宏樹。動かないの、手も、脚も!』
 切羽詰まった声で訴えると、宏樹の顔から眠気が消えた。
『動かないの、ぜんぜん動かないの!』
 怪我は、徐々によくなってきていた。少しずつ動けるようになってきていた。それでも私には常に不安があった。脊髄に致命的な傷が残っていて、ある日突然、身体が動かなくなってしまうのではないか――と。
 その不安が現実となったのだろうか。
『落ち着いて、姉さん。大丈夫だから』
 宏樹が腕に触れてくる。手のひらで強く擦ってくれる。微かな温もりを感じる。
『今日、外はひどい雨で気温も低いんだ。そのせいだよ。今までも天気の悪い日は調子悪かったろ? 天気がよくなれば治るよ』
『……ホントに?』
 そういえば、屋根を叩く激しい雨音が聞こえている。
『ああ、大丈夫。……痛みはない?』
『……痛い。腕も、脚も、背中も、すごく痛い』
 動かないのに、皮膚の感覚もほとんどないのに、痛みだけを感じる。骨の中心から生まれてくるような痛み。筋肉の傷みと違って、意志の力だけで簡単に耐えることはできない。
『今日は学校休みなよ。薬飲んで、温かくしてゆっくり眠れば、明日には治ってるよ。俺も休んで、ついていてあげるから』
『ホントに? ……いいの?』
『ああ。……ほら、薬』
 宏樹は私の背中に手を入れて上体を起こさせると、部屋に常備してある鎮痛剤を飲ませてくれた。飲んだ瞬間から効くはずもないが、精神的な理由からか少し楽になったように感じる。いくらか落ち着いて深呼吸をする。
 横になると、宏樹は脚のマッサージをはじめた。
『……ね、宏樹。このまま動けなくなったらどうしよう』
 一瞬、手が止まる。
『……ばか、そんなことあるわけないだろ。医者も言ってたじゃないか。時間はかかるけど、ほとんど普通に歩けるようになるって』
『だけど……もしも』
『大丈夫』
 脚に触れている手に、少し力が入る。
『たとえそうなっても、俺が傍にいるから。困ったことがあればすぐに言いなよ。なんでも手伝ってやるから』
『……』
 嬉しかった。
 その場しのぎの口だけの約束だとしても、涙が出そうなほどに嬉しかった。
 たとえ動けなくなっても一人きりにはならない。それだけで安心できた。
『……』
 たった一言「ありがとう」の言葉が出てこない。それを口にしてしまうと、そのまま泣き出してしまいそうだった。
『……ね、宏樹』
 代わりに、いつもより少しだけ甘えることにする。
『おトイレ……行きたいの。連れてって』
『え? あ、ああ』
 身体の下に手を入れて私を抱え上げる宏樹。いつの間にこんなに大きく、力強くなったのだろう。私が怪我をする以前の、小さな小学生の宏樹とは別人だ。多少ふらつきながらも私を抱きかかえてお手洗いへと歩いていく。
『……脱がせて』
 トイレに着いたところで頼んだ。宏樹はちょっと躊躇った後、パジャマの下を脱がせてくれた。その続きは右手一本でもなんとかなりそうだったけれど、私は思いっきり甘えたい気分になっていた。
『……下も』
 宏樹の顔が真っ赤になる。それでも、おずおずとパンツを下げてくれる。もちろん、見ないように顔は横に向けている。
 そうして私を便座に座らせると、宏樹は慌てた動きで外に出て扉を閉めた。そんな様子が可笑しくて、込み上げてくる笑いを噛み殺しながら用を足した。
 右手でビデのスイッチを操作して、局部を洗ったところで宏樹を呼ぶ。
『宏樹』
 躊躇いがちにドアが開く。
『……拭いて、くれる?』
『……』
 パンツを脱がせた時の何倍も真っ赤になって、それでも宏樹はなにも言わず、トイレットペーパーを取って優しく拭いてくれた。腫れ物に触れるような、かなりおっかなびっくりの手つきではあったが。
 小学生の頃の、まるで動けなかった時期を除けば、こんなことをしてもらうのは初めてだった。
 あるいは試したかったのかもしれない。宏樹が私のためになんでもしてくれるということを。
 宏樹は丁寧に拭き終えると、水を流し、パンツとパジャマを穿かせてまた部屋へと連れて行ってくれた。
 ベッドに寝かせ、掛け布団の上から予備の毛布も掛けてくれる。
 トイレに行っていた短い時間で、痛みはずいぶん和らいでいた。薬の効果か、あるいは精神的な要因も大きいのかもしれない。
 それでもまだ、脚の痛みが煩わしい。頼んでマッサージしてもらう。
 優しく触れる温かな手が気持ちいい。
 鎮痛剤が効いてきたせいか、眠たくなってきた。
 宏樹の手の温もりを感じながら、私は静かに眠りについた。


 目を覚まして、少しびっくりした。
 ここはどこだろう。
 自分の寝室ではない。そして私は全裸だった。
 一瞬遅れて記憶が甦ってくる。同時に、顔が熱くなる。
 ここは、海水浴の帰りに入ったラブホテルの一室だ。
 そして……
 そう、昨日。
 海の中で宏樹に指姦された。
 ここで口を犯された。
 何度も何度も口の中に出された。そのまま、気を失うように眠ってしまったのだ。
 だけど。
 だけど結局、最後の一線だけは越えなかったようだ。そんな記憶はないし、下半身に違和感もない。
 いったい、どういうつもりだったのだろう。
 昨夜の宏樹は、いつもとは違っていた。すごく怖かった。弟ではなく男の、いや牡の顔をしていた。
 そして私を犯したのだ。
「……目、覚めたか?」
 突然の声に驚いて、小さく飛び上がった。宏樹は小さなソファに座って、ちゃんと服も着ていた。
「あ、……えっと」
 こんな時、なにを言えばいいのだろう。
 宏樹は落ち着いているようだ。昨夜の怖い宏樹ではなく、普段の、単に無愛想な宏樹に近い。多少後ろめたそうな表情が混じっているように見えなくもないが、気のせいかもしれない。
「まだ六時前だけど、このまま帰るか? それとももう少し寝てく?」
 私は少しも眠くなかった。昨日はいろいろとあって消耗したのは事実だが、眠った時刻も普段に比べればずっと早いし、疲れていた分ぐっすりと眠っていた。
 だけど宏樹は赤い目をしていた。ひょっとして眠っていないのではないだろうか。そういえば私はベッドの真ん中で寝ていたし、ベッドに他の温もりは残っていなかった。ソファで寝たにしては、宏樹は服も乱れていない。
「……宏樹は? 眠くない?」
「まだ少し、眠いかな」
「……じゃあ、寝ていきなよ。運転手が寝不足じゃ恐いもの」
「……悪い」
 私はベッドから降りて、宏樹のために場所を空けた。
 一緒に寝るという選択肢はなかった。根拠はないが、今日の宏樹は絶対に私と同じベッドには入ってこないのではないかという気がした。それに私の方も、昨日の今日で宏樹と添い寝する勇気はない。
 宏樹がベッドに横になる。私は裸のままお手洗いへ行った。用を足していて、ふと先刻の夢を思い出した。どうして今頃あんな夢を見たのだろう。
 それはおそらく、私が、宏樹を信頼できなくなりかけているからだ。
 夢に出てきたあの朝以来、宏樹を無条件で信頼し、甘えてきた。性的な行為に対してなにも言えなかったのもそのためだ。
 だけど昨夜の宏樹は違う。ずっと頼って甘えてきた宏樹ではない。私が本気で嫌がること、本気で苦しがることを強要してきた。こんなことは初めてだ。
 お手洗いから出て、そのままバスルームに入った。シャワーを浴びながら念入りに口を濯いだ。口の中に、まだ、あの生臭い粘液が残っているように感じた。
 昨夜の記憶が甦ってくる。
 ここで、させられたのだ。
 宏樹のペニスを無理やりくわえさせられた。
 乱暴に動かれて、口の中に射精された。顔にもかけられた。
 唇に、下に、内頬に、硬くて熱い肉棒の感触が残っている。
 私は激しく頭を振って、その記憶を振り払おうとした。
 ボディソープをたっぷりと手にとって身体中を洗い、それから念入りに歯を磨いた。

 部屋に戻ると、宏樹はベッドで寝息を立てていた。
「……宏樹」
 小さな声で呼んでみる。反応はない。熟睡しているようだ。
 しばらくこのまま寝かせておこう。
 お腹が空いていることに気がついて、自販機の烏龍茶とスナック菓子で空腹を紛らわすことにした。
 宏樹の寝顔を見ながら。
 いったい、いつ以来だろう。宏樹の寝顔を見るなんて。
 いつもは逆。ほとんど毎朝、私が寝顔を見られる側だ。
 ベッドの脇に座って、間近から宏樹を見おろす。
 うっすらと無精ひげの生えた顔。厚い胸板。太い腕。
 いつの間にこんなに逞しくなったのだろう。
 徐々に移動する視線が、ジーンズの股間のところで止まった。
 この下に、あれが隠されている。昨夜、くわえさせられたものが。
 とっても大きくて、太くて、硬くて、熱くて、すごくグロテスクなもの。
 私を陵辱したもの。
 私に痛いこと、苦しいこと、すごくいやらしいことを強要したもの。
 また、その行為の記憶が甦ってくる。吐き気が込み上げてくる。
 苦酸っぱい胃液を強引に押し戻し、烏龍茶で流し込んだ。
 いやだ。
 あんなこと、もう二度としたくない。させられたくない。
 だけど、そういうわけにはいかないのだろう。
 先刻の宏樹は、普段となにも変わっていないように見えた。昨夜のことについてもなにも触れなかった。宏樹の方からなにか言わない限り、私もなにもなかったふりをするしかない。
 それでも――
 私と宏樹の関係は、もう、以前とは違うのだ。

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