身体が、動かなかった。
 自分では渾身の力を振り絞っているつもりなのに、指一本ぴくりとも動いてくれない。
 真っ暗だった。
 そこは、何も見えない真っ暗な空間だった。
 ……いや。
 本当にそうだろうか。
 頬に陽射しの暖かさを感じる。
 それでも、ここが暗闇であって欲しいと願った。自分の目が見えなくなっているのだとは思いたくなかった。
 全身に脂汗が滲んでくる。
 叫ぼうとした。助けを呼ぼうとした。
 だけど、声を出すことすらできなかった。
 助けて。
 誰か、助けて。
 悲鳴を上げようとする。
 身体を動かそうとする。
 それらはすべて、まったく無駄な努力でしかなかった。私は何もできずにいた。
 それでもまだ、ひとつだけ残されたものがある。
「……紗耶」
 どこからか、私を呼ぶ声がする。まだ、聴く力だけは残されていた。
「紗耶……紗耶」
 私の名を呼ぶ声。それで、自分が一人きりではないという安心感を得ることができた。
「紗耶!」
 声が大きくなる。
 すぐ耳元で叫んでいるような気がする。
「紗耶! 起きろって!」
 ザッ!
 カーテンを開ける音。
 同時に、真白い光が弾けた


 目を開けて最初に視界に入ったのは、どことなく不機嫌そうな弟の顔だった。
 ひとつ年下の弟、宏樹。
 愛想のない表情で、こちらを見おろしている。
 私は、小さく首を巡らして周囲を見た。
 いつもと同じ、自分の部屋。
 厚いカーテンが開け放たれ、朝陽が室内に満ちている。
「う……ヤな夢、見た」
「さっさと起きろよ。遅刻するぞ」
 乱暴な口調だが、今朝がことさら不機嫌というわけではない。私に対してはいつもこんな調子だ。
 枕元の時計を見る。宏樹の言う通り、学校へ行くつもりならぎりぎりの時刻だった。もちろん、宏樹はもう制服に着替えている。
 どうやら、無意識のうちに目覚ましを止めていたらしい。普段は思うように動いてくれない手なのに、寝ている時は妙に器用なものだ。
 身体を起こそうとして、顔をしかめる。
 左腕が痺れたようになって、感覚がほとんどなかった。まるで力が入らない。左脚も同じだ。
 なるほど、あんな夢を見る道理だ。
 右腕一本で身体を支えて、のろのろと起き上がる。そんな様子に宏樹が気づかないわけがない。
「調子、悪いのか?」
「ん、ちょっと……ね」
 ベッドの端に座って小さく溜息をついた。こんな日は、ほんの少し身体を動かすのもひと苦労だ。
「休むか?」
「……ううん、行く」
 一日寝ていた方が楽なのはわかっているけれど、ようやく入学できた高校、できればあまり休みたくはない。
 右手だけでパジャマを脱ごうと悪戦苦闘していると、焦れったくなったのか宏樹が手を出してきた。さっさとボタンを外してパジャマを剥ぎ取って、サイドテーブルに置いておいた着替えの上からブラジャーを放って寄越す。
「……悪い、手伝って」
 上半身裸のまま、胸を隠そうともせずに私は言った。
 片手でブラジャーを着けるのは、パジャマを脱ぐよりも重労働だ。それがたとえフロントホックであっても。
 宏樹は慣れた手つきで私の腕をストラップに通し、胸の前でホックを留めた。仕上げはさすがに自分の手で、小さなカップの中に収められた乳房の形を微妙に整える。
 下着だけ着けたところで、私は立ち上がった。片脚を引きずるようにして廊下を歩き、用を足して顔を洗う。
 その間に宏樹は私の制服や鞄の用意をしてくれていて、部屋に戻るとすぐにブラウスを着せられた。
 ボタンを留められ、リボンを結ばれ、スカートをはかされる間、私はただ立っていただけだ。こうしたことを自分でやっていたら、今日は間違いなく遅刻してしまう。宏樹がもう少し早めに起こしてくれればいいのだが、いつも、ぎりぎりにならないと起こしに来てくれない。
 椅子に座らされてソックスをはかされる。宏樹はさらに、長い髪にブラシを通し、慣れた手つきで器用に三つ編みにまとめていく。
 その時間を無駄にせず、私は宏樹が持ってきてくれたサンドイッチとカフェ・オ・レで軽く朝食を摂る。
 それでなんとか、ぎりぎり間に合いそうな時刻に家を出ることができた。
 自分の鞄と私の鞄、ふたつを担いで宏樹は前を歩いていく。
 その大きな背中を見ながら、私は一歩遅れてついていく。
 私たちが通う高校まで、宏樹の脚なら十分とかからずに着くが、杖をついてのろのろと歩く私のペースに合わせれば、倍以上の時間がかかってしまう。
 宏樹は黙って歩いている。決して文句を言うことはないが、笑みを見せることもない。
 いつもと同じように、ただ、一歩前を黙って歩いているだけ。
 だけど。
 こちらを見ることもないのに、その歩調はぴったり私のペースだった。


 私、三島紗耶は、小学生の時に交通事故に遭った。
 その事故で父を亡くし、私は重傷を負った。
 手脚が不自由なのはその後遺症だ。脊髄を損傷し、左腕と左脚に麻痺が残っている。
 それでも今はずいぶんとよくなった方だ。事故直後は本当に寝たきりで、動くこともできなかったのだから。
 数度の手術と気の遠くなるようなリハビリの結果、今では不自由ながらも日常生活を送ることができるようになっている。
 仕事に追われている母に代わってそんな私の世話をしてくれているのが、ひとつ下の弟の宏樹だった。
 この春、私はようやく高校に入学することができた。事故の後しばらくの間はろくに学校に通うこともできなかったので、普通よりも二年遅れである。
 そのため、年下の宏樹の方が学年ではひとつ上という奇妙な状況になっていた。
 通うのは同じ学校だった。家からもっとも近く、健康な人ならば徒歩数分の距離にある。私がこの学校を選んだのはそれが理由だが、宏樹の方はよくわからない。
 もしかしたら、私のためなのかもしれない。宏樹が志望校を選んでいた頃、まだ中二だった私は、この高校に行くつもりだと言ったような記憶がある。もっとも、本人に訊いたら否定するだろう。
 宏樹がどんなつもりなのか、いちばん身近にいる私にもよくわからない。私の前では決して楽しそうな顔はしないが、それでも遊びたい盛りの年頃の男の子が、文句ひとつ言わずに手間のかかる姉の世話をしてくれている。
 それは、いくら感謝してもいいことのはずだった。


 学校には予鈴ぎりぎりに着くことができた。
 今日もまたなんとかセーフだ。
 人影もまばらになった一階の廊下で、私たちを、否、宏樹を待っていた人影があった。
「ああ、やっと来た。三島くん、遅ーい。待ってたのよ」
 明るい声の主は、宏樹のクラスメイトの垣崎由香里。
 可愛い、というよりも綺麗な子だ。背が高く、挑発的なほどに短いスカートから、長く健康的な脚が伸びている。胸のふくらみは、発育の悪い私と比べたら何倍もの体積がありそうだ。
「ねぇ、今日の数学、あたし当てられるのよ。教えてくれない?」
「ああ、ちょっと待って。姉貴を教室に送ってくるから」
「数学は一時限目だよぉ。遅れちゃう!」
 拗ねたような表情で、上手に甘える仕草。宏樹に向けられていた柿崎の視線が、ほんの一瞬、私を捉えた。
「……私は大丈夫だから。宏樹、行ってあげて」
 垣崎の視線に強要されるように、私は言った。この状況では、弟に迷惑をかけている姉としてはそう言う以外の選択肢はない。
「……ああ」
 宏樹は担いでいた鞄のひとつを、私に背負わせる。間髪入れず、垣崎が宏樹の腕を取る。
「ごめんなさい、お姉さん。ね、早く早く」
 形だけ私に頭を下げた垣崎は、俊樹の腕を引っ張って階段を昇っていく。まるで、少しでも早く私から離れようとするかのように。
 その姿が踊り場の向こうに消えるまで見送ってから、私は小さく溜息をついて、階段を一段一段ゆっくりと昇り始めた。
 一年生の教室は四階、ちょっと憂鬱だ。もっとも、憂鬱なのはそのためだけではない。
 一瞬だけ私に向けられた、垣崎の視線。
 微かなものとはいえ、敵意のこもった視線を向けられるのは気持ちのいいものではない。
 見ていれば一目瞭然だが、あの垣崎という子、宏樹のことが好きらしい。宏樹の方もまんざらではなさそうである。
 当然だろう。垣崎は美人でスタイルもよく、性格も明るくて人懐っこい。男子には人気がありそうだ。
 二人が正式に付き合っているのかどうかは知らないが、それに近い関係であることは間違いないだろう。
 宏樹も、女の子にはそこそこ人気があるらしい。一八○センチ近い長身は、まあ、格好いいといえなくもない。意外と女の子受けはいいようで、私のクラスメイトからも紹介して欲しいと頼まれたことがある。いつも一緒にいるせいか、私の目にはさほどいい男とは映らないのだけれど。
 そう。
 それが、問題だった。
 いつも一緒にいるということが。
 私に対しては無愛想な宏樹だけれど、それでも私の世話を最優先してくれる。
 自分の好きな男の子が、四六時中他の女の世話を焼いていたら、女の子としては面白くないだろう。その相手が実の姉で、身体に障害を負っているというもっともな理由があったとしても、感情が納得してくれるとは限らない。
 それが、垣崎の視線の意味。
 気持ちはわからなくもない。
 私自身、宏樹に頼りすぎていると感じている。そうまでしなくてもいいのではないか、と思うことはある。
 ろくに歩くこともできなかった頃と違い、今はその気になれば、多少不自由ながらも一人で日常生活を送ることはできるのだ。
 それでも、人間はどうしても楽な方へと流されてしまう。
 思い通りに動かない脚に鞭打って汗を流しながら階段を昇るよりも、宏樹に抱きかかえられて運んでもらった方が楽に決まっている。
 垣崎のような女の子に睨まれるのがわかっていても、つい頼ってしまう。宏樹が不平ひとつ口にせずに世話を焼いてくれるのをいいことに、こっちは身体が不自由なのだから仕方がない、と自分を正当化してしまう。
 ようやく二階まで昇ったところで、大きく息をついた。あと二階分の階段を前にうんざりしていると、後ろから来た大きな影が、私を追い越したところで止まった。
「相変わらずグズだな。遅刻するぜ」
 私を馬鹿にしたような、乱暴な声。杖を軽く蹴られて、バランスを崩してよろけてしまう。一応、転ばないように腕を掴んでくれてはいたが、気遣いの感じられない、痛いほどの乱暴な掴み方だ。
「グズじゃないわよ。急いでもこれが精一杯なんだから仕方ないでしょ」
 こっちも乱暴に言い返した。遠慮が必要な相手ではない。中三の時から同じクラスの竹上雄一だ。
「コーヒー一缶で、教室まで運んでやろーか?」
「……」
 私は黙って、目の前の相手を睨みつけた。
 向こうは一八○センチを超える長身、三○センチ以上の身長差で、間近で見上げていると首が痛くなる。
 しかも、がっしりとした体格に頬に傷のある強面の顔。気の弱い人間なら視線を合わせることすらできないような凄みのある容貌だ。彼を間近から睨むことのできる人間なんて、この学校で私だけかも知れない。
「私に対価を要求するわけ? さんざん人の世話になっておいて」
「その借りは十分に返したと思うが? つか、むしろ俺の方が支出超過じゃねーか?」
 にやにやと、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて応える竹上。そんな表情さえ、飢えた獣のような迫力がある。
「全然足りないって。あんた、自分がなにしたかわかってんの?」
「未遂だろうが」
「竹上ぃ?」
 私は視線に力を込めた。
 竹上は、クラスメイトの大半が恐れて近寄らないような奴だけど、私に対してだけはちょっと立場が弱い。
 私もあえて、竹上には必要以上に強気に接するように心がけていた。こいつは野生の獣と同じだ。少しでも気弱なところを見せれば襲いかかってくる。視線を逸らしてはいけない。
「……ちぇ、わーったよ。ったく、人使いの荒い女だ」
「きゃっ……!」
 吐き捨てるように言うと、竹上はいきなり私を担ぎ上げた。四○キロに満たない体重など存在しないかのように、軽い足取りで階段を昇っていく。
 なにしろ恵まれた体格で、体力はありあまっている男だ。もっとも、その体力と腕力を正しい方向に使っているとは言い難い。過去、幾度となく暴力事件を起こしてきた結果、現在のクラスメイトでは唯一、私と同い年である。
 本来ならば、あまりお近付きにはなりたくない人間だ。
 中三の時、クラスメイトを病院送りにした場面は私も間近で見ていたし、暴力団とつながりがあるという噂も聞く。
 しかし同い年で、理由はまるで違うけれどクラスで浮いた存在であるという共通点があり、そして一年くらい前に二人の間にちょっとした事件があって、以来話す機会は比較的多い相手だった。
 もちろん、仲良しというわけではない。普通の男は、仲がいい女の子をこんな運び方はしないだろう。まるでセメント袋か米俵のように肩に担がれているのだ。もちろん私としても、その状況をおとなしく受け入れはしない。
「ちょっと! 竹上!」
「なんだよ。この方が楽なんだよ。てめーの弟じゃあるまいし、お姫様抱っこなんかやってられるか」
「だからって、も少し人間らしい扱いしてよね。スカートの中、見えるじゃない!」
「見られて困るようなパンツはいてんのか? 去年の今頃は、色気のかけらもないパンツだったな。あれはちょっと萎えるぞ」
「……マジで死にたい?」
 声を一オクターブ低くする。竹上の軽口がぴたりと止まる。
「っとに、怖い女だよな。お前なんかに優しくする弟の気が知れねーよ」
「別に、優しくなんかないよ」
 四階に着くと、教室の前で乱暴に下ろされた。膝から太腿にかけて走った痛みに顔をしかめる。
「……宏樹は家族の義務として、仕方なくやってくれてるだけだって」
 私は素っ気ない口調で言って、教室に入った。


 放課後。
 帰る前に図書室に寄って、本を何冊か借りてきた。自由に身体を動かせない私にとって、読書は一番の楽しみである。
 顔馴染みの図書委員と話し込んで少し遅くなってしまったので、玄関のところで宏樹の姿を見つけた時には意外な気がした。てっきり、先に帰ったと思っていたのに。
 垣崎と一緒にいる。
 なにを話しているのだろう。会話の内容までは聞こえないが、宏樹は珍しく笑みさえ浮かべている。しかし、間もなく垣崎は拗ねたような表情を残して、宏樹をおいて先に帰っていった。
 垣崎の姿が見えなくなったところで、私はゆっくりと進んでいった。宏樹はすぐにこちらに気づき、つまらなそうな顔を向けてくる。
「遅いぞ」
 いつも通りのぶっきらぼうな口調。垣崎の前の楽しそうな表情とは大違いだ。
 しかし、文句を言われるのは筋違いだった。今日は別に、一緒に帰る約束をしていたわけではない。
「……よかったの?」
「なにが」
「垣崎さんと、デートじゃないの?」
 皮肉っぽい口調にならないように気をつけて訊いた。あくまでも、弟をからかう姉という態度で。
 先刻の二人の会話、表情から察するに、垣崎が遊びに行こうと誘って宏樹がそれを断ったのだろう。似たような光景を目にするのは初めてではない。
 宏樹はなにも答えずに、私が背負っていた鞄をひったくった。そのまま自分の鞄と一緒に担いで先に歩き出す。
 私は急いで靴を履き替えて後を追った。宏樹は追いつける程度に、ゆっくりと歩いてくれている。
 いつも、んな調子だ。
 楽しそうな顔なんか絶対にしないくせに。
 必要最低限のこと以外、自分から話しかけてくることもほとんどないくせに。
 なにか特別な用事がない限りは、約束しなくてもこうして私と一緒に帰ってくれる。
 過保護すぎるくらいに、私の世話を焼いてくれる。
 だから。
 甘えすぎだとわかっていても。
 垣崎に恨まれるのがわかっていても。
 つい宏樹を頼ってしまうのだ。

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